【追加原稿】構造の解説
三歩で忘れるので公募原稿仕上げた後でとか言ってたら忘れる。orz
「異化」の次には「構造化」がある。「階層」と言ってしまうと一部に含み込めない部分が出てくるから不便になるが、わかりよく説明するとなると工夫が要ります。
あるいは「舞台演劇」を例にした方が解かりよいかも。
観客が観ている場面は作られたものだし、演じる役者も実態とはベツモノだ。創作物はこういう「演じている部分」がどうしても出る。小説の文章は作者の頭の中をそっくり写し取ったものではあり得ない。作者は書きつけるべき部分と、棄てる部分を選別している。つまり、演じている。これは日常ですら言える。
一旦、思考から出てくる際には、自白剤などによるタレ流しでもない限り、言葉は都度で得捨選択が為される。これをしない者はある種の障害だ。
このエッセイをもって私という作者の何が測れるか? 何も測れはしない。私は演じているからだ。少なくとも意識的に作っているであろう内容というものから読み取れる部分は僅かしかない。まだ、よく使用する漢字やら言い回し、肉筆の筆跡だのを観たほうが、無意識にタレ流している個々の特徴は見つけやすいはずだ。
誤字脱字が多くそのまま発表してしまう者や、私のように一旦出したのに何度でも書き換えを行う者など、千差万別に居るが、どちらが偏執的資質を持っていると思われるかと言えば、もちろん後者に決まっているという具合だ。
過程というものはしかし、完成した作品から読み取ることは困難だ。
何作も残している作家の軌跡を辿れば見えるものもあるだろうが、作品単体では、どのようなビルドを経たのかが見えにくい。小説の書き方は個人で違うが、私のやり方、すなわち、第一稿からが本番文章でそこに改稿を重ね、次から次へと書き換えていくという手法は、実は多くの作家が行っているポピュラーな方法だ。
プロットを作らないといえば、すぐ本稿にかかり、本稿がそのまま出版されると思われがちだが、実際は第一稿と最終稿ではベツモノになっているケースも多いらしい。試行錯誤をプロット上でやらず、原稿で直接行うというだけの違いだが、むしろこれが普通で、Webのように思いつくままを発表ということではないらしい。
思いつくままに書かれたものは、舞台演劇でいうなら台本を渡されたばかりの稽古初日だ。そこから役者同士の演技の擦り合わせや変更などを経て、全体として完成されることに似ている。
小説の地の文の人格は、むろん作者ではありえない。作者が話す生の言葉ですら厳密には作者の演技なのだから、さらに作為の込められた創作上の世界に作者が登場するわけもない。ただ細部には、隠しようがなく滲み出した実態としての作者の一部がチラホラしていることは事実だ。つまり、作品というものは表面に見せている、演技された地の文の人格と、役者であるキャラたちの人格と、さらにはその後ろにチラホラしている実態としての作者という、入れ子の構造を持つ。
これがまず、版画の色乗せ的な構造、一枚の絵としての整合性や一貫性の部分での構造で、これとは別の仕掛け的な構造も持っている。叙述トリックなどの大どんでん返しといった仕掛けや、イデオロギーを内包させる仕組みや、パロディといった、作品の外側に組み込まれた、パッケージとしての構造。
構造といえば、多く取り沙汰されるのは後者ばかりで、本質的に重要であるはずの前者、作品の演劇的完成度は忘れられている。
それぞれの演技上の人格、作中作者や作中人物というものが演者としてどの程度完成された演技力を持つのかが、文章的な完成度と呼べる部分になる。評論において、一貫性やブレという評価部分はそういうものを指す。
そして、これらは基本でしかないのだ、恐ろしいことに。
大根役者では金は取れん、ということか。
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