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 雨森照子が椅子に一人で座っている。

 まだ頭が少しだけ、ぼーっとしている。

 雨森照子は、生まれて初めて、愛という物がどういう物なのか理解できた。

 愛は形だ。

 私は澪から形を貰ったんだ。

 私はようやく、私になることができた。

 雨森照子は、ようやく雨森照子に(もしかしたら木戸照子にも)なることができたんだ。

 照子はそう確信していた。

 ……確信していたのだが、その思考は照子の中から消えてしまった。(本当に、泡のように消えてしまった)

 今はうまく思い出すことも、理解することもできない。

 こういう(もやもやする、曖昧模糊とした)経験は初めてだった。

 愛とはやっぱり不思議なものだ。

 わかったと思った瞬間に、わからなくなる。(今のところ、検証も実験もできない)

 ……ただ、実感はあった。

 照子は明らかに、今までの照子ではない。澪が照子に愛をくれたから、(その愛の力を使って)照子は変わることができたんだ。だから愛はすごいってことは、なんとなくわかる。(今は、なんとなくで構わない)

 頭で理解するのではなく、心が(魂が)覚えている。

 だからきっといつか、愛の正体を掴むこともできるだろう。

 ……もちろん、それまでの間、ずっと澪が照子の側にいてくれたらの話なのだけど。

 照子がにやにやしていると、(床に届いていない照子の両足は空中でぶんぶんと揺れている)澪がアイスコーヒーを二つもって部屋の中に戻ってきた。

「なに笑ってるの照子。なにか楽しいことでもあったの?」

「べつになんでもない」

 そう言って照子はアイスコーヒーを両手で受け取る。

「ありがとう」照子は言う。

 照子のアイスコーヒーはミルクで半分に割ったミルクコーヒーだ。(照子がそう頼んだのだ。アイスコーヒーが飲みたいとわがままを言ったのも照子だった)照子はミルクコーヒーの丸い形をした表面をとても珍しいものでも見るように、じっと見つめている。(実際にミルクコーヒーは照子にとって、生まれて初めて実物を見る、とても珍しいものだった)

 澪は照子の横に置いてある椅子に座る。二人はシェルター室の奥にある無機質な四角い真っ白な冷凍睡眠室の中にいて、そこに倉庫から持ってきた小さなスティール製の二つの椅子にちょこんと腰を下ろしている。

 研究所は平穏を取り戻している。

 緊急警報は澪の手によってすでに研究所の内側だけ解除してあるが、外側の解除、及び外側の世界への事故の詳細な連絡、それに救助通報はまだしていない。澪はこれからいろいろな(主に夏と遥のことについての)秘密工作を行わなければならない。(もちろん、そこには照子のことも含まれる)そのための時間稼ぎが必要なのだ。

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