174

「じゃあ、この水も浄化してあるんだ」

「そうだよ。地下水ほどじゃないけどね」

 夏は湖の水に手で触れる。とても冷たい。それからすぐにその手を湖の水から離した。その理由は湖の水が夏の予想よりはるかに、まるで氷のように冷たくて驚いたから、……ではない。

 夏の汚れで水が汚くなってしまうのではないかと心配したのだ。もちろん実際には問題はないのだと思う。夏はいつの間にか消毒をされているみたいだし、大丈夫なのはわかっていた。でも、気持ち的にそう思った。汚れとは実際の物質的なものだけを指して、使う概念ではない。


 ……夏は鏡が嫌いだった。そこに映る自分の顔を見ることが嫌だった。自分の顔が嫌いだった。自分自身のことが嫌いだった。自分の顔も、体も、心も、なにもかもが大嫌いだった。大、大、大、大、大嫌いだった。遥と出会って、少しだけ自分のことが好きになれたけど、今でも鏡を見ることはあまりない。苦手だ。まるで知らない他人の顔を見ているような不気味な気持ちになるのだ。夏はまだ、そこに映る人物のことを今でも愛することができないでいた。

 ……夏は思考を中断する。安全装置が働いたのだ。


 水面に夏の顔が映っている。かなりの透明度だ。夏は右手でわざと水面を揺らして自分の顔をそこから消した。湖に映った夏の顔は笑ってはいなかった。とても冷たく嫉妬を宿した目をしていた。その事実が夏自身、とてもショックだった。なにも変わっていない。全然成長していない。私の時間は止まっている。……遥がいないと止まってしまう。


 夏は腕時計で時刻を確認する。まだ夕方の時間帯だ。晩御飯までには時間がある。

 通信機型カセットテープレコーダーの画面を確認すると、澪は相変わらず楽しそうに音楽を聞いている。かちっという音がして音楽が次の新しい音楽に切り替わった。バラードからポップに。夏はその音楽を聞きながら、歩いて森の中から抜け出した。

 草原に出ると遠くに小高い丘が見えた。遥は家を建てたいと言っていた場所だ。夏の用意してきた地図によると、おそらくそこは地下の研究所の真上の場所に位置するはずだ。だから一度、夏は研究所の場所を間違えてしまったのだ。

「よし。丘の上まで歩こう」夏は言う。

「あそこには別になにもないよ」と澪は言う。

「いいじゃん。付き合ってよ」夏はそう言いながらすでに歩き始めている。もちろん、丘のある方向に向かってだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る