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 夏はそのあとも澪といろいろな会話をした。その会話はとても楽しかった。人工知能と話しているというよりも、年の離れた弟と話をしているみたいな気分だった。

 夏には三人の兄がいた。夏は長女で末っ子だった。いつも自分にも弟か妹が欲しいと思っていた。澪はまるで夏の本当の弟のようだった。とても生意気な弟。

 しばらくすると椅子の上で丸まっている遥からくーくーという小さな寝息の音が聞こえてきた。それは狸寝入りには見えない。遥はどうやら本当に椅子の上で体育座りをしたまま眠ってしまったようだ。そんな遥を見て夏はどうせ寝るならベットで眠ればいいのに、と思った。

 しかし一番近くにある照子の手術台のようなベットでは大きさが少し小さいので、まあ仕方がないかなとも思った。

「遥寝ちゃったね」澪が言った。

「うん。今日は休日だって言ってたからね」夏が言った。

 夏は横を向いた遥の顔の正面にしゃがみ込むと、そこからじっと遥の寝顔を観察した。普段から眠りの深い遥は、夏がすぐ近くで動いたりその顔を近づけても、まったく起きる気配がなかった。

 ……相変わらず綺麗な顔だ。まるで芸術品のように、美しい。かすかに寝息の音が聞こえる。くーくーという変な寝息の音。きちんと呼吸をしている。こんなに美しいものが生きている。この世界にきちんと形を持った存在として、とどまっている。夏にはそれが信じられなかった。奇跡。遥の口から出た、遥には似合わない、そんな言葉を思い出す。

 ……奇跡。そうだ。奇跡だ。遥が生まれたことが奇跡。遥が生まれた時間軸の上に私が同時に生まれたことも奇跡。遥に出会えたことが奇跡だ。人生は奇跡の連続なのだ。

 世界中で木戸遥とすれ違うことがない人はたくさんいる。せっかくこの奇跡の時間の中に生きているのに、木戸遥という人物に出会うことなく一生を終える人はたくさんいる。木戸遥という存在を知らないまま人生を終える人もたくさんいる。

 遥と繋がれない人たち。一つになれない孤独な人たち。その人たちに比べれば、こうして遥の寝顔を見ることができるくらい遥の近くにいることが許された私は、ただそれだけで、とても恵まれている。満たされているんだ。

 夏は小さな星が大きな星の重力によって引き寄せられるようにして、そっと眠っている遥のおでこに自分のおでこをくっつけた。そうやって夏は遥の夢の中に入り込もうとした。遥の中にいる遥と夏に会いに行こうとした。わたしはあなた。あなたはわたし。そこで暮している私に似ている人。遥に似ている人。私の声はあなたたちに届いていますか? あなたたちの声を私は聞くことができますか? あなたたちは今、幸せですか? あなたたちは今、ちゃんと笑っていますか? 

 夏は目を閉じで問いかける。でも返事はない。本当は寝ている遥の唇にキスをしたかった。でもそれは卑怯なので諦めた。

 夏は遥に寄り添うようにして、遥の隣の床の上に彼女と同じ体育座りの姿勢になって座る。遥に体を預けながら、目を瞑る。そうして、遥の中にいる夏に会いに行く。夏の中にいる遥に会いに行く。空想の世界の中に落ちていく。架空の世界の中に落ちていく。夏はそのままその場所で眠りについた。その様子を水槽のような四角いディスプレイの中から白いクジラがじっと眺めていた。

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