Track 04. 反撃の狼煙


「えぇっ、ハル先生、行っちゃうの!?」


 結依ゆいの視界にそんな文字が走ったのは、「Marbleマーブル」のライブへのゲスト出演を翌日に控えた金曜日の放課後、華子達四人と一緒にシンクロ・プロダクションのエレベーターを降りたときだった。

 もはや見慣れたレッスンスタジオ前の廊下で、研究生の女の子達が、白衣姿のハル先生を取り囲んで何やら言い募っている。


「あたし達、先生に診てもらえないと困ります」

「そうですよ。ハル先生がいるから安心してレッスンできるのに」

「あはは。困ったな」


 視界に流れる言葉の応酬に結依はどきりとした。ハル先生が居なくなる、というのは――?


「……ハル先生、こんにちは」


 動揺を隠して結依が声をかけると、彼は振り返り、いつものように気さくな笑みとともに挨拶を返してくれた。

 研究生の子達に「お邪魔します」と頭を下げてから、結依はハルの顔を見上げる。


「あの、どこか行っちゃうんですか?」

「ああ、うん。来週からいよいよ集中研修が始まるからね。ここでの修行もしばらくはお預けさ」

「来週から……」


 結依は無意識にその言葉を反復していた。

 彼の本業は研修医だ。病院での研修が忙しくなれば、ここに顔を出す時間が持てなくなるのは当然のこと。それは結依もわかっているつもりだったが、いざ彼がいなくなると聞かされると、寂しく感じてしまう気持ちは否めなかった。

 明日のライブにはギリギリ来てもらえるだろうか。しかし、今の自分の立場で、来てとお願いするのはあまりに図々しいだろうか。

 優しい光を宿した彼の目を見て、結依が躊躇ためらっていると、彼の方から言葉が降ってきた。


「聞いたよ、ライブのこと。明日だよね?」


 VRレイヤーにポップアップする白い文字に、心が跳ねる。


「はいっ。秋葉原アキバで16時からです」

「それならなんとか間に合いそうかな。じゃあ、僕も観に行くよ。マユさんの代わりに」

「嬉しいです。ぜひ来てくださいっ」


 研究生の子達の手前、自粛しなければと頭では思いながらも、ついつい声が弾んでしまうのを結依は抑えられなかった。

 華子やあいり達も喜びを見せる中、研究生のリーダー格の子が愛嬌を込めて口をとがらせる。


「ずるいなー、ユイちゃん達ばっかり。ハル先生、研修終わったらあたし達の研究生公演も観に来てくださいよ?」

「あはは。いいけど、その頃には君達もさすがに昇格してなよ」

「しますよ! あたし、今年は本気でランクイン狙ってますから。一気に特進してみせますって」


 やる気に満ちた目で言いながら、研究生達はハルを囲んで大スタジオへと入っていく。

 羽生はにゅうマユは昨日からドラマの仕事で地方に発っていたが、主が不在でも、プロダクションの空気は前向きな緊張感にピリピリと張り詰めていた。

 いよいよ今年の選抜総選挙が始まるのだ。80位以内ランカーとなれるのは正規メンバーでも十人に一人以下。研究生にはランクインの目はほとんどないとはいえ、僅かな可能性でも諦めず食らいつけというのがマユの教えらしい。


「ユイちゃん達も頑張ってね」

「はい。セイナさん達も、ランクインを祈ってます」


 彼女達と笑顔を交わし合い、結依は小スタジオの扉に手をかけた。

 あの東馬あずま有以ゆいも今頃、秋葉原の劇場で夜の特別公演のリハーサルに励んでいるはず。

 プロにはプロの戦いがある。自分達は自分達の戦いをするだけ――。



「ユイちゃん、あの先生のこと好きなの?」


 スタジオの隅に荷物を置き、レッスンウェアに着替えようとしたところで、マリナが身を寄せてそんなことを言ってきた。

 コンマ数秒でその意味を察し、結依の声帯が脊髄反射のように反応する。


「そんなんじゃないですよ! 何言ってるんですか、マリナさん」

「冗談よ、冗談。そんなに怒んないでよ」


 マリナがビビったように身を引くのを見て、結依は初めて、自分がぶんぶんと顔の前で手を振っていたことに気付いた。


「十歳以内の年の差なら、自分は有りだと思うな」


 怜音レオンがわざとらしく真面目な表情を作って言ってくる。華子とあいりもくすりと笑っていた。たちまち顔が熱くなるのを感じながら、結依は「違いますって」と繰り返す。


「好きとかそういうのじゃないです。ほら、アイドルは恋愛禁止ですし!」


 言いながら、何を自分は熱くなっているのだろうと思った。冷静に、冷静にならなければ……。


「加入前ならいいんじゃないのか。ねえ、マリナ先輩」

「なんであたしに振るのよ。悪かったわね、あれ以来フリーで」


 マリナの拗ねた様子を見て、結依の心にもやっと余裕が戻ってきた。同時に、自分が仲間に囲まれてこんな会話をしているのが何だか不思議に思えてくる。

 腕を下ろし、ふっと息を吐いて、結依はマリナに笑いかけた。


「マリナさん、ごめんなさい。わたしのせいでフリーになっちゃったんでしたね」

「引っぱたくわよ!?」


 ギリギリのところに踏み込んだ軽口が言えるのは、マリナがそれをもう気にしていないことを知っているから。そして何より、一度は敵対した彼女も、今は心の通じ合った仲間だと信じられるから。

 ウェアに袖を通しながら結依は少し考えてみる。ハル先生が居なくなるのが寂しいと感じるのは、たぶん、いわゆる好きとかそういう感情ではない……と思う。もっと単純に、自分はきっと、味方と呼べる存在が近くにいてくれることが嬉しいのだろう。アイドル部の皆も、和希かずきも、マユやハルをはじめとする協力者達も。

 勝手だろうけど、誰一人として自分の側から欠けてほしくないと強く思える。それは、ずっと世界から拒絶されていた自分にとって、長らく得難いものだったから――。


「……何よ、ユイちゃん、ニヤニヤして」

「なんでもないでーす」


 全員の準備が整い、練習が始まってからも――

 明日のライブで披露する「愛しのスコーンジャム」をびしりと全員で合わせる最中さなかも、結依はずっと、一人ではなく皆と歌い踊れる嬉しさに口元がほころびそうになるのを抑えるのに必死だった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 翌日はあつらえたような晴天だった。「ELEMENTS」の揃いの衣装をしっかりと携え、結依は華子達と秋葉原の駅前に降り立った。今日は和希も時間を作り、リハーサルから同行してくれると言っていた。


『第32回・秋葉原エイトミリオン選抜総選挙、いよいよ明日から投票受付開始! 全国のエイトミリオングループの頂点に立ち、栄えある150枚目のハンドレッド・フィフティースシングルのセンターに輝くのは果たしてどのメンバーか――』


 駅前の巨大ビジョンの中では、現女王の神田かんだ晶葉アキバを筆頭に、各支店のトップメンバー達が自信満々の笑顔を輝かせている。道行く人々が次々と足を止め、吸い付けられるように画面を見上げている姿が印象的だった。


「今さらだけど、『Marble』もケチよね。あたし達の出番は一曲だけだなんて」


 例によって謎にお洒落な私服で秋葉原の街を闊歩しながら、マリナがぼやく。今日のセットリストでは、結依は春日かすが瑠璃るりと組んで二曲を披露することになっていたが、「ELEMENTS」の五人全員での出番は一曲だけに抑えられていた。


「しょうがないよ。わたし達はゲストだもん」


 華子の言葉に乗っかる形で、駅で合流したばかりの和希が言う。


「むざむざ敵の前で手の内を晒してやることもねーだろ。経歴を知られてるユイはともかく、アンタ達四人は、まだ大したことはできないと思わせて油断させといた方がいい」


 彼の主張に異を唱える者はいなかった。

 皆の力が上がっていることは結依もわかっている。だが、和希の言う通り、その全てをここで見せてしまう必要はない。「Marble」にも、全国で待ち受ける強豪達にも。

 今日のライブは、自分達の心が死んでいないことを全国に向けて示す反撃の狼煙のろし。見せるべきは技量でも新曲でもなく、この胸に燃える戦意の炎一つなのだ。


 街頭広場オープンスクエアの特設ステージには、既に「Marble」の面々やステージの運営スタッフが集まり、セッティングに入っていた。


「大宮さん。今日はよろしくお願いします」


 部を代表して華子が挨拶するのに続き、結依達も「Marble」の面々と挨拶を交わす。

 大宮おおみや冴子さえこ小平こだいら鈴奈すずな高蔵寺こうぞうじユーリア……。見知った「Marble」のメンバーの中に、一人だけ美しいティアラを頭に差した春日瑠璃の姿もあった。気力を取り戻した様子の瑠璃が、燃え立つような視線で結依に微笑みかけてくる。

 キャプテンの冴子が、早くも広場に集まっている観客達にちらりと目をやり、余裕を含ませた笑みで言った。


「よろしく、『ELEMENTS』の皆さん。……普段は公開リハなんてやらないんだけどね。今日はこの方がいいと思って」


 群衆クラウドモードのAIには、観衆の言葉の一つ一つまでは拾われないが、今か今かと公開リハーサルの開始を待つ人々の声は結依にも聞こえてくるかのようだった。


「ユイちゃん」


 瑠璃が結依の前に歩み寄り、手を差し出してくる。


「今日はよろしくね。しっかり付いてきてよ?」

「ルリちゃんこそ」


 握手を交わすと、思わずくすりと笑みが漏れた。

 自分と彼女は味方同士ではない。夏の大会が始まれば、全国への切符を賭けて真剣で斬り結ばなければならない相手だ。

 だが――だからこそだろうか。彼女と一緒にステージに立てることが、まるで一足早くプロの世界に足を踏み入れたかのように心躍るのは。


「……総選挙、明日からだね」

「そうね。数年後にはわたし達があそこに居るわよ」


 瑠璃がすっと指差した街頭ビジョンには、ただ一つの玉座を賭けて争うプロアイドル達の、身震いするような殺気を秘めた笑顔。普段は仲の良い親友同士のように笑い合っている彼女達が、一年に一度だけたぎらせる本気の戦意。

 目の前に立つ瑠璃の笑顔にも、その瞳に映る自分の笑顔にも、同じ戦意の炎が躍っている。


「オーケー! リハーサル行くわよ!」


 衣装への着替えも早々に、冴子の合図で公開リハーサルが始まった。

 セットリストに沿って眼鏡グラスに流れるメロディを捉え、結依は華子達と裏に並んで出番を待つ。「Marble」の面々は、既に自分達の出演パートのリハーサルは万全に済ませているらしく、公開リハーサルの目的は専らゲストの「ELEMENTS」と「Marble」の呼吸を合わせることだった。

 五人揃っての「愛しのスコーンジャム」を一番ファースト・バースだけり終えると、すぐにメロディが切り替わる。けてゆく華子達を横目に、ステージの中央に残り、瑠璃と背中合わせに立つ。

 名古屋エイトミリオンの往年のデュエット曲、「双輪そうりん薔薇ばら」――。補聴眼鏡グラスで曲のタイミングを読み、事前に念入りに練習してきたその振りを瑠璃と合わせてゆく。春日ジュリナと並ぶ伝説のダブルセンターの一角、豊橋とよはしレナが踊っていたポジションだ。


「やるじゃない、ユイちゃん。ほんとに初めて?」


 二人が前後に重なるような振り付けの最中、瑠璃が耳元で囁いてきた声を眼鏡グラスでしっかり捉え、結依は周りにわからない程度に頷いた。


「負けてられないもん」


 ラストのもう一曲の通しも終えると、観衆からわっと歓声が上がった。余裕の調子で手を振る瑠璃や冴子達にならい、結依も観衆に向かって笑いかける。携帯ミラホのシャッターが次々切られる感覚は、子供の頃に浴びていたプロカメラマンのシャッター音に負けず劣らず心地よく感じられた。



 リハーサルを終え、舞台裏で休憩していると、あいりが隣に座ってきた。


「ユイちゃんとルリさんの『双輪の薔薇』、とっても綺麗。……わたくし、ちょっと羨ましいです。豊橋レナさんのポジション……」


 前に、あいりが憧れの女優として豊橋レナの名前を挙げていたのを思い出し、結依はふふっと笑った。


「あいりちゃんは、レナさんみたいになりたいの?」

「なりたいなんて、そんな恐れ多いこと……。でも、あの方の演技には憧れます。キョトンとした顔から、ナイフみたいにキリッとした顔に豹変するんですよ」


 顔を微かに紅潮させてあいりは語る。自分で気付いているのかいないのか、豊橋レナの演技を真似て表情を作っている彼女の様子が可笑おかしかった。


「あいりちゃんなら、向いてるかも。レナさんみたいなギャップ演技」

「ほんとですか? ユイちゃんのお墨付きなら嬉しいです」


 この後の本番の緊張を紛らそうとしているのか、それとも気持ちが高揚しているのか、あいりはいつになく饒舌だった。


「わたくしの好きな小説に、レナさんをモデルにしたお話があって。ヒロインの女の子が、レナさんに憧れてトップアイドルを目指すんです。……昔からずっと思ってたんです。もし、将来演技に関われるなら、わたくし、そのヒロインの子を演じてみたいなって」


 自分で言いながら顔を真っ赤にしている。この子の天性の可愛さには敵わないな、と結依が密かに思ったとき、出し抜けに横から口を挟んできたのは瑠璃だった。


「その本、わたしも読んだわよ。敵役の子がママそっくりだったでしょ」

「! ルリさん」


 あいりは少しびくっとしていたが、瑠璃の笑顔に緊張を溶かされるように、すぐに彼女も笑顔に転じていた。


「敵の子がヒロインとの対決のラストで涙を流すところ、好きだったわ」

「……わたくしも。全てを手にしていたはずのその子は、本当は、ライバルがいなくてずっと寂しかったんですよね」


 意外な取り合わせの二人の会話をききながら、結依は、昔のドキュメンタリー映画で見た名古屋エイトミリオンの黎明の物語を思い返していた。さかえに君臨した月と太陽、豊橋レナと春日ジュリナ……一説には不仲だったとも伝わる彼女達だが、仲の良し悪しは別としても、二人はきっと互いにとってなくてはならない存在だったのに違いない。


「最後はどうなるの? そのお話」


 結依が聞くと、あいりははにかんで答えた。


「全力でぶつかり合った二人は、その後もずっと同じグループで競い合って、グループを一緒に支える戦友になるんです」

「……素敵なお話だね」


 心の底からそう思った。あいりの肩越しに瑠璃も頷いてくる。

 戦いの炎が自分の中で一際強く燃え上がるのを感じた。自分もいつかきっと、エイトミリオンの伝説の女神達のように――。


「さあ、ユイちゃん。もうすぐ本番よ」


 瑠璃が手招きしてきた。瑠璃色ラピスラズリのその瞳との間に火花を散らし、結依は武者震いを押さえて立ち上がった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 16時に開演したライブは、「Marble」のエースの完全復活を喜ぶ観客ファンの歓声に包まれていた。

 冴子や鈴奈、そして瑠璃の名を叫ぶ声援が、VRレイヤーの視界に次から次へと溢れかえる。ゲストとはいえ完全にアウェーの状況だが、それでも、結依が見回した華子達の目には、自分と同じ熱い炎が燃えているように見えた。

 誰一人として怖気づいている者はいない。なればこそ、自分も恐れるわけにはいかない。

 この先に待っているのがどんな険しい戦いだろうと、自分達五人で、日本一のスクールアイドルグループを作るとマユに誓ったのだから。


「さあ、続いては、わたし達の新たなライバル、『ELEMENTS』の皆さんに登場してもらいます――」


 冴子のアナウンスと観客の歓声。結依は眼鏡グラスを取り去り、溢れ出すメロディと狂騒にしばしの別れを告げる。


「行きますよ!」


 華子と、マリナと、怜音と、あいりと頷き合い、練習と寸分違わぬフォーメーションで結依はステージへと躍り出た。

 瞬間、客席の熱気が肌を煽る。五人で磨き上げた「愛しのスコーンジャム」――日本中の誰もが知るその振り付けに思いを込めながら、結依は無意識に複数の撮影カメラの位置を把握していた。

 リアルタイムに動画配信されている「Marble」のライブ。あのカメラの向こうに、指宿いぶすきひとみが、指宿リノがいる――


 ――違う!


 ついカメラに吸い寄せられそうになるの本能を、の意志が引き戻した。

 今視線を送るべきは瞳でもリノでもない。目の前のお客さん達だ!


「愛しさ――スコーンに乗せて――あなたと――アフタヌーンティーを――」


 0番センターに戻ってサビに入る瞬間、結依は客席に視線を振った。そこに知った顔がいくつかあることに気付いた。この街で自分と握手をしてくれた、名前も知らないアイドルファン達だった。

 身体に覚え込ませた振り付けを踊りながら客席を見渡すと、これまでは聞こえなかった観客達の声が、視線を通じて心に響いてくるような気がした。

 会場は先程までと同じ熱狂の渦の中にあった。退屈している人など誰もいない。あらゆるアイドルに使い古された練習曲エチュードレベルの一曲にも。「Marble」と比べると人気も知名度も無いに等しい「ELEMENTS」のパフォーマンスにも。

 五人で覚えた最初の曲が、この「愛しのスコーンジャム」だったのも、今思えば何かの運命だったのかもしれない。


「今までずっと気付かなかった――人生の奇跡初めて知った――」


 まさにその歌詞が語る通り、春の大会の時には気付かなかった、この曲の真の力を思い知らされるようだった。

 振り付けが簡単で、曲調がゆったりで、誰でも覚えやすい一曲。それはただ初心者の練習に向いているという意味ではない。女王・指宿リノがエイトミリオングループに残したこの「スコーンジャム」は、日本中の皆がアイドルと一緒になれる歌――!


 ――見てください、リノさん。


 決定的に足りないものがあると言われたときの、指宿リノのあの漆黒の圧力を乗り越えるように、結依は熱狂の客席に全身全霊で笑顔を振りまいた。


 ――これが、今のわたしの――わたし達の力です!


 最後に0番センターに立って、マイクを突き出すポーズを決めたとき、観客達は一斉に拍手に転じた。目で見るだけでなく、聞こえるはずのないその喝采までも結依の心に届くようだった。

 感動を味わういとまもなく、照明の色が切り替わり、けた華子達に代わって瑠璃がステージに姿を現す。彼女の歩みで曲のタイミングを測り、結依はステージの中心で瑠璃と背中合わせに並び立った。

 瑠璃の鼓動が空気を通じて自分の鼓動と共鳴する。決して仲良くはなかったという二人の女神が、それでも息を合わせて踊っていた一曲――


「そう、君は薔薇だから――」

「その美しさだけを――」


 ステージの中心からすっと二手に分かれ、結依は瑠璃と呼吸を合わせた。

 観客達はもちろん、共に歌う瑠璃でさえ、結依が無音の世界の住人であることは知らない。勘付かれてしまうようでは話にならない。聴こえないことを言い訳にだけは、絶対にしたくないから。

 曲が終わり、客席からまた割れんばかりの拍手の波が襲ってくる。結依がそれを身に浴びて微笑んだのは僅か一瞬。次の瞬間には、「Marble」のメンバー十数人が一斉にステージに飛び出し、結依達と合流していた。

 だだん、だだん、と勢いのある前奏が結依の頭の中に流れる。瑠璃と二人、センターで振りを決めると、観客の熱狂が最高潮に達するのがわかった。

 軽やかなスキップを交えたフォーメーション移動、友情の始まりを告げるその歌詞。新学期の不安をサビで一気に吹き飛ばす、名古屋エイトミリオンの初めてのオリジナル公演のタイトルにもなったその曲は――


「そっと、手と手をつないで――」

「ふふっと、笑いかけてきた――」

「その日、出会ったばかりの――」

「同じ道を行く友よ――」


 共に立つ瑠璃と、ぎゅっと手を繋ぎ合い、結依は歌う。「手と手を繋いで」――その一曲に込められた意味を、その歴史の重みを、全身で噛み締めるように。

 身体が熱い。精神こころが熱い。太陽のような瑠璃の微笑みに、自分の中の炎が一層激しく燃え上がるように――


「いつか、この道の先で――」

「夢に辿り着けるはず――」

「だから、恐れずに行こう――」

「小さな勇気の光――」

「二人ぶん、持ち寄って――!」


 歌い終えたそのとき、客席からの喝采がびりびりと結依の肌を震わせた。

 瑠璃が汗の滲んだ顔で結依に笑いかけ、マイクを手に何か言ってくる。唇の動きを読むまでもなく、彼女が何を言いたいのかは目を見ればわかった。


「ユイちゃん。わたしに手を差し伸べてくれてありがとう」

「……わたしの方こそ。一緒に歌ってくれてありがとう」


 結依も皆に聞こえるようにマイクを通して答えた。まだバクバクと心臓が高鳴っている。今の自分達の感動を、この会場の、そして画面の向こうの皆に伝えたかった。

 拍手はいつまでも止まなかった。瑠璃ともう一度手を握り合い、結依は観客達と笑顔で向き合った。


「皆さん。夏の大会を楽しみにしててください」

「――」


 自分の言葉に続いて隣の瑠璃が何を言ったのかは、もうわからなかったが――


「皆さんの期待を超える戦いをお見せします」


 握り合う手に込められた意志ちからの強さが、瑠璃のそんな決意を語っているように思えた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 終演後、名残惜しそうに解散してゆく観衆の奥にハル先生の姿を見つけ、結依は仲間と労をねぎらいあうのも早々に彼に駆け寄っていた。


「ハル先生っ」


 額の汗を拭って眼鏡グラス越しに見上げると、彼は「お疲れさま」と優しく声を掛けてくれた。


「楽しかったよ。今日の君は、初めて見た時の君よりずっとよかった」


 面と向かって褒められ、どくんと心臓が大きく脈打つ。


「夏の全国大会の頃には研修も落ち着くだろうから、また観に行くよ。今日よりもっと成長した君をね」

「はい!」


 ハルの柔らかな笑みにつられるように、自分の口元もほころぶのがわかった。

 汗に濡れた髪を手でいて、結依は改めてぺこりと頭を下げる。


「ハル先生、色々ありがとうございました。わたし、先生と出会えて嬉しかったです」

「あはは。こちらこそ」


 彼と初めて顔を合わせてからの、ごく僅かな間の出来事が、熱演に疲れ切った結依の脳裏をぐるぐると巡っていた。

 最初に手当てをしてくれたときのこと。握手の試練に打ちひしがれた自分を迎えに来てくれたときのこと。美鈴みれいとの話を真剣に聴いてくれたこと。

 彼としばらく会えなくなると思うと、やはり寂しかった。

 こんな人が、ずっと味方にいてくれたら――


「ユイちゃんは高一かぁ。時間はたっぷりある」


 少し遠くを見るような目で、ハルは言葉を続けてきた。


「昨日より今日、今日より明日……。焦らず力を付けて、優勝できるといいね、全国大会アイドライズ


 彼が優しさからそう言ってくれているのはわかった。そんな彼にだからこそ、はっきり宣言したいと思った。


「ハル先生、いつかじゃないです。今年勝ちます」

「今年?」


 どこまでも優しい目をしたまま、彼は笑った。


「ははっ、それは無理だよ。今年はまだ――

「えっ――?」


 どくん――と、先程とは違う向きに心臓が跳ねる。

 そのとき、車のクラクションを示すアイコンが結依の視界に光った。


「おっと。迎えだ」


 ハルが振り向いた先には一台の乗用車が滑り込んでいた。運転席から白衣を着た女性が顔を出して、彼を呼んでいる。


壬生町みぶまち先生。時間ですよ」

「スミマセン、すぐに」


 車の女性に一礼してから、彼は結依の目を見下ろしてきた。

 刹那、結依の記憶に蘇る色――

 かつてネットの画面越しに見たの目と、同じ色の瞳で。


「じゃあね、ユイちゃん。楽しみにしてるよ。君達が全国に上がってくるのを」


 さっと手を振って車に消えてゆく彼の笑顔を、最後まで見つめながらも――

 金縛りに遭ったように、結依は何も言葉を発することができなかった。



「ユイちゃん、どうしたの?」


 追いかけてきた華子にとんとんと肩を叩かれ、やっと全身に血が戻ってくる。


「いえ……なんでも」


 かろうじて喉から声を絞り出しながらも、結依は華子の姿を見てはいなかった。



 ――僕の、歳下の従妹いとこが、ユイちゃんと同じようにアイドルを目指してたんだけどね――


 ――その従妹の子は、今、どうして?――


 ――元気に高校生をやってるよ。幸い、後遺症も克服して、――



 ハルの車の助手席で聞いたその話に、記憶の中の一人の少女の姿が重なる。

 かつて、、一人の少女の姿――



『この配信を見てくれてる世界中の皆に伝えたいんだ。わたしも諦めないから、あなたも諦めないでって』



 壬生町みぶまち紡姫つむぎ――


 全国のスクールアイドルの頂点に君臨するその少女の、底無しの明るさをたたえたその笑顔が。




(8th Single:手と手を繋いで 完)



【3rd Album「盛夏の陣」へ続く……】

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