Track 02. 隠れた太陽

 小さなスタジオに溢れる熱気と音響。汗びたしの床を踏み鳴らすステップの音。揃いのレッスンウェアに身を包んだ仲間達の息遣い。

 今日だけで何度繰り返したかわからないその振りを今、華子はなこは初めてマリナ達と合わせて踊っていた。一人では踊れるようになってきたが、目まぐるしくポジションが入れ替わるこの曲の振りは、皆と合わせるのはまだ難しい。

 結依ゆい抜きの四人でのフォーメーション。サビに向かって盛り上がるメロディに乗り、怜音レオンとあいりが横方向に散開する。フロントに立つマリナの背中を見て、華子も腕を振りながら所定の位置に歩を進める。

 できた、と思った瞬間、出し抜けに曲が止まった。


「違う。華子ちゃん、あいりちゃん、それじゃダメ」


 羽生はにゅうマユが小さく首を振って華子達の前に歩み出てくる。肩で息をしながら、華子は彼女に向き直った。


「他の子の姿を見て動くの、やめよっか。ポジション移動のタイミングは身体で覚えるの。全員が正しく動けばぶつからないでしょ?」


 凛とした声色を柔らかな空気で包んだ歴戦の女神の言葉が、優しくも鋭い響きで華子の意識に染み込んでくる。一緒に名指しされたあいりだけでなく、マリナと怜音も真剣に息を呑むのがわかった。


「まだ練習なんだから、ぶつかっちゃってもいい。それより大事なのは、お客さんを見て踊るクセをつけること。フロントにいるときはもちろんだけど、自分がフロントにいないときも、視線は常に客席に振るの」


 四人に万遍なく視線を配りながらマユが言う。華子はハッとして思わず彼女の目を見つめ返していた。それは間違いなく、これまでに誰からも聞いたことのない角度からの教えだった。

 中学のアイドル部の頃から、ポジション移動は決して得意ではなかった。加えて、高校に上がってからはずっと一人だったので、練習を積む機会もなかった。だが、マユが今言っているのは、そんな次元の話ではない。


「エイトミリオンの公演でもそれが出来てない子がたくさんいる。曲中でもMCでも。あさっての方向見て突っ立ってる子と、自分が主役じゃないときでもずっとお客さんに目を向けてる子……そのちょっとの違いが二年、三年と積み重なって、干されと人気者ランカーを分けるんだよ」

「……はい」


 荒い息を抑えて華子は返事していた。一度はエイトミリオンの頂点にまで上り詰めた人の言葉だ。有無を言わせぬその言葉の重みに、背筋が伸びるような思いがした。

 この場所は……シンクロ・プロダクションは、本来なら自分達のような部活生アマチュアが足を踏み入れることは許されないプロの聖域。ガラス窓の向こうの大スタジオでは、今も現役の研究生達がダンスの先生にしごかれている。この空間の主、羽生マユと同じ「神」の栄光を掴むために。

 レッスンの疲れだけではない心臓の高鳴りを感じる。こんな凄い人が自分達を教えてくれていることにまだ実感がわかず、思わず頬を引っ張りたくなる。


「みんな疲れてるね。終わりにしよっか」


 ぱん、とマユが優しく手を叩いた。その途端、隣に立っていたあいりの身体がふらりと崩れた。華子が手を出そうとするより先に、怜音が後ろからその身体を支えていた。


「あいりちゃん!」

「大丈夫? あいりちゃん」


 マリナと二人、慌てて声をかけると、あいりは汗だくの顔にそれでもどこか楽しそうな微笑を浮かべ、切れ切れの声で答えてくる。


「はい……。ユイちゃんも頑張ってますから……」


 あいりは華子の肩越しにその向こうをじっと見ていた。華子が振り返ると、ちょうどマユが「しっかり見てて」と言わんばかりに身を引き、を手で示していた。

 スタジオの入口側の空気は、華子達のレッスンより一段も二段もぴりりと張り詰めていた。


「全然ダメ。やる気ないなら帰る?」

「あります!」

「じゃあはい、スリー、フォー」


 そこで向き合っているのは、補聴眼鏡グラスを掛けたままレッスンウェアに汗を染み込ませた結依と、私服にポニーテール姿の東馬あずま有以ゆいだった。

 東馬有以の手拍子に合わせ、音響なしでステップを踏み始める結依。そのキレのある後ろ姿に華子がごくりと息を呑んだ瞬間、有以が小さく首を横に振る。


「ダメ。肩が上がりすぎ」


 動きを止めた結依の両肩あたりをくるくると指差し、有以は涼しい口調で言う。


「ムダに力入れすぎて、余裕がなくなって軸がブレてる。そのブレを腕の振りで戻そうとするから、ますます上半身がぎこちなくなる。ユイちゃんのダンスは全部そう。そんなんじゃ、素人のお客さんは騙せても、審査員の目はごまかせない」


 華子はハラハラした思いでその光景を見ていた。腕を下げて有以と向き合う結依の表情は、こちらからは見えない。

 結依はどんな思いで東馬有以の教えを受けているのか。自身が打ちのめされるだけではなく、亡き美鈴みれいを侮辱され、決して彼女のことを快くは思えないはずなのに。


「……どうしたら、いいんですか」


 感情を殺したような声で結依が聞き返す。有以は「うーん」と口元に指を当て、首をかしげる仕草を見せてから続けた。


「ユイちゃんのダンスって、身体の動かし方が子供のままなんだもん。しょうがないんだよね、子供の内は筋肉が出来上がってないから、メチャクチャに身体を振るしかない。その頃のクセが残っちゃってるんだよ」

「でも、わたし、体幹トレーニングは……」

「もちろん、そのへんの新人さんより体幹はできてる。だからこそ、いつまでも子供みたいにドタバタ踊ってたらダメ。本当のキレっていうのは、全身の筋肉をしなやかに連動させて、緩急をつけて、こう!」


 ひゅん、と有以が腕を一振りする。その動きは結依の振りよりずっとゆっくりだったが、それでも、傍から見ている華子の目には、遥かに鋭く空気を斬り裂く一閃に見えた。


「やらないの?」


 有以の声にびくりと結依の肩が震える。ややあって、思い切ったように一閃する結依の腕の振りは、有以のしなやかな疾風とは全く異なる直情的な炎に見えた。

 有以がまた小さく首を振り、わざとらしく溜息を吐く。


「全身だって言ってるじゃん。腕にだけ力入れてどうするの。腰も膝も反対側の腕も、全部使って初めて、片腕の振りにを宿せるんだって」


 何気ない調子でもう一度腕を振ってみせる有以。そこで華子は初めて気付いた。決して腕だけを振っているのではなく、彼女はその言葉の通り、身体全体を緩やかに連動させて腕の動きの見栄えを引き立たせていたのだということに。


「表情……?」

「そう、表情。なーんか、ユイちゃんのダンスって表情がないんだよね。何踊っても『灼熱のユイ』になっちゃってるっていうか。だから、技術スキルはあっても芸術アートじゃないって言ったの。どんなにターンが素早くできたって、どんなに鋭くステップ踏めたって、曲の世界観を全身で演じられなきゃお客さんには何も響かないんだよ」


 様子を見守る羽生マユが静かに頷いている。初めて会ったときの彼女の言葉を華子も思い出した。精度が足りない、メリハリがない、テクニックに溺れすぎ――結依の欠点を矢継ぎ早に挙げていくマユの言葉の中にも、確かに、歌詞や振りの意味を考えていないという指摘があったはずだ。


「ミレイちゃんのマネしてる時もそう。あなたの中のミレイちゃんをなぞることで頭が一杯で、曲の世界が全然意識できてない。思い出してみて? 『You'reユア Myマイ Windウィンド』のミレイちゃん、ほんとにあんな踊り方してた?」

「っ……!」


 結依がぐっと拳を握り締める、まさにその瞬間、有以はぱちんと指を鳴らして音響をスタートさせていた。「Tamerテイマー Tamerテイマー」の蠱惑こわく的なイントロを眼鏡グラスで捉えたのか、慌てて結依が振りを合わせる。


「ユイちゃんの悔しがる顔は見飽きちゃった。そろそろわたしを唸らせてみてよ。こっちもヒマじゃないんだから」


 結依の前で器用に左右逆の振り付けを演じてみせる有以に、結依の華奢な背中が必死に追いつこうとする。その勢いを遮るように、有以が「ダメ」と声を発する。


「その熱さが違うって言ってるの。そういう曲じゃないでしょ。これは先生に恋しちゃう女の子の歌。思い描くの。その感情を」

「……わたし、先生に恋なんて」

「したことなくても、なりきるの。スーパー子役でしょ? ユイちゃん。そんなんじゃ17位だって夢のまた夢だよ」


 有以の言葉に煽られ、結依はその背中から一際激しいオーラを立ち上らせたように見えた。

 羽生マユの唇が小さくほころぶ。マリナ達とともに見守る華子の眼前で、結依の纏う炎の揺らめきが形を変える。激しく噴き上がるだけの炎から、指先を伝ってしなやかに虚空へ溶けだす炎に――


「ユイちゃん――」


 結依が見せた変化は僅か一瞬。鋭いターンを交えた次の瞬間には、また結依のダンスはいつもと同じに戻ってしまったように見えたが――

 たった一瞬でも何かが変わった。息をするのも忘れて華子が目を見張っていると、いつのまにかサビは終わっていた。


「まだまだ全然ダメだけど、もういいや、今日はここまで」


 音響を止めて有以がふうっと息をつく。結依はすぐさま食い下がっていた。


「わたし、まだやれます!」

「だーめ。わたしも忙しいの。もうすぐ総選挙だし。じゃあ、さっきの一瞬を忘れないでね、ユイちゃん」


 ぺこりとマユに一礼し、有以は華子達にも軽く手を振って出ていってしまった。それから一秒と置かず、こちらに振り返ってきた結依の目は、いつになくギラついた熱意の炎に燃えていた。


「みんなで合わせましょう、華子さんっ」


 早く皆と一緒に踊りたくてしょうがない、という顔をしている。華子は咄嗟に皆を振り返った。あいりはもう体力が限界だったし、マリナと怜音も普段のレッスンの何倍も心身を酷使しているはずだった。自分だってもう満足には動けなそうだし、何より結依自身が……。

 華子が結依に視線を戻したところで、誰より早くマユがストップをかけていた。


「ユイちゃん、今日は頑張りすぎ。もう身体を休めなきゃ」

「でも、わたし、まだみんなと――」


 そこでスタジオの入口から「ユイちゃん」と彼女を呼ぶ声があった。黒のシャツの上に白衣を羽織った研修医のハル先生が、口元に柔らかな笑みを浮かべている。


「ダメだよ。闇雲に身体をいじめればいいってものじゃない。それがわからないユイちゃんじゃないだろう?」

「……はい」


 彼は五人分のスポーツドリンクを袋に携えてきてくれていた。頑張ってね、と言って大スタジオに移る彼の背中に口々にお礼を述べて、華子達はドリンクで喉を潤した。


「じゃあ、わたしもそろそろ、あっちを見てあげなきゃだから。しっかりクールダウンしてね」


 そっと席を立ったマユに、華子は改めて頭を下げる。


「マユさん、本当にありがとうございます。わたし達まで、こんなにして頂いて……」

「お礼はカズ君に言っておいて。でも、わたしもみんなの成長が楽しみになってきちゃったから。いい? 華子ちゃん達も、プロになるならウチに来るんだよー」

「……わたしはそんな、プロなんて、とても」


 笑顔でスタジオを出ていく女神に向かって、華子はぶんぶんと首を振っていた。自分の立ち位置はよくわかっているつもりだった。だが、同時に、結依がプロ入りを果たした後もマユに面倒を見てもらえるのなら、それほど素敵なことはないだろうとも思える。

 東馬有以と結依の関係だけが気がかりだったが、しかし、今の結依の前向きな表情は、有以をどう思っているのかと聞くのも憚られるほどキラキラしているように見えて――。


「華子さん。夏の大会は、絶対みんなで優勝しますよ」


 ドリンクのペットボトルをカラにしてしまった結依が、まだ少し乱れた息のままでずいっと身を乗り出してくる。その目の輝きに華子が一瞬圧倒されていると、マリナが「当たり前じゃない」と後ろから噛み付いていた。


「『Marbleマーブル』にも、指宿瞳にも、リベンジしてやらないと気が済まないわ。あたし達三年生には今年しかないんだし。ね、華子ちゃん」

「……うん」


 自分達にはもう今年しかない――。その事実を華子が噛み締めた直後、怜音がふっと笑って口を挟んできた。


「先輩、自分達にも今年きりしかないんですよ。この五人が揃った、この『ELEMENTS』は」

「……わたくしも、みんなで勝ちたいです」


 あいりも切れ切れの息で言葉を重ねてくる。皆の決意に当てられるように華子も自然に頷いていた。

 油断しているとまた涙がこぼれそうになる。去年まで一人きりだったアイドル部に今は仲間が集まり、本気で全国を目指している――その夢のような事実もさることながら、何より結依が皆の言葉をきいて笑顔を浮かべているのが、自分のことのように嬉しかった。

 日本一のチームを皆で作る。結依が辿り着いたその答えを、自分達の力で現実のものにするのだ。


「とはいえ、敵はあの『Marble』です」


 怜音が腕を組み、真剣な顔を一同に向けてくる。


「あちらにだってプロのコーチが何人も付いてる。贔屓目に見て、条件はやっと五分です。本当に本気でかからなければ、全国への切符は掴めない……」


 彼女の言葉に軽口を返す者はいなかった。鋭い眼差しに華子もごくりと息を呑む。

 結依と怜音を除けば素人揃いと言えるこの「ELEMENTS」にとって、夏の大会は春よりもずっと厳しい戦いになることは間違いなかった。なぜなら――


「わたくし達も、センターをやることになるんですよね……」


 あいりが神妙な声で呟いた通り、今回は結依と怜音に頼り切りというわけにはいかないのだ。

 スクールアイドル最大の大会であるサマー・アイドライズは、春の大会とは異なり、チームの五人全員が一度ずつメインを張るレギュレーション。初心者だろうと何だろうと、一度はソロなりセンターなりでステージの主役にならなければならない。


「何よ、ビビってるの? あたしは誰が相手だって構わないわよ。大宮おおみや冴子さえこだろうと小平こだいら鈴奈すずなだろうと、蹴散らしてやるってば」

「まあ、その二人のいずれかとマリナ先輩がマッチアップする確率はかなり高いでしょうね」


 そうだ。全国級のスクールアイドルとして知られるあの大宮冴子や小平鈴奈と、自分達の誰かが一対一ソロかセンターで向き合わなければならない。夏の大会に出るとはそういうことだ。

 そして何より、「Marble」にはがいる――


「大丈夫かな、ルリちゃん。無事に出てきてくれたらいいんですけど……」


 結依が静かな声でそう言った。

 七光、あかつきのルリ――春の大会で向き合った際のまばゆい姿が、華子の脳裏にもフラッシュバックする。先日のトーナメントを欠場していた彼女も、夏の大会には万全の調整で出てくるに違いない。


「何よ。あの子が出てこないなら出てこない方がいいじゃない」

「マリナさん、そんな言い方ないです。そんなラッキーで全国に進んだって意味ないじゃないですか」


 マリナの言葉を結依はさらりと受け流した。彼女が瑠璃の不在を喜ぶような子ではないことは、華子にも勿論わかっていた。


「そのラッキーが起きちまうかもしれないぜ」


 と、そこで、見計らっていたかのように、和希かずきが疲れた顔でふらりとスタジオに足を踏み入れてきた。


「カズキ君」

「やっとプロットが片付いたんだ。兼業作家もラクじゃねーよ。で、ユイ、お前見てないのか? 春暁しゅんぎょうの学祭の映像」


 結依が「ううん」と首を振ると、和希は華子達にも視線を向けてきた。マリナも、怜音も、あいりも、彼の言葉に心当たりはないようだった。

 一同をくいくいと手招きし、和希が携帯ミラホの画面を見せてくる。映っているのは動画サイトだった。既に六桁再生を記録しているその動画の中では、「Marble」の名がデコレーションされたきらびやかなステージの上で、青い衣装を纏ったキャプテンの大宮冴子が明るく声を張り上げていた。


『皆さん、お待たせしました。わたし達のルリが帰ってきました!』


 おおおっ、と観客達の声。舞台上のメンバー達が裏にけ、新たなイントロが鳴り始める。観客の大歓声に迎えられ、「真紅のドレスとプレジデント」の専用衣装に身を包んだ春日瑠璃が、悠然とスポットライトの中に歩み出てくるが――


『忙しいオジサマは――いつ会えるって……』


 歌唱に入った直後、瑠璃の目はさっと怯えの色に染まったように見えた。観客のざわめきの中、がくがくと足を震えさせ、両手で顔を覆ってうずくまる瑠璃。それは、華子達がこれまでに見てきた、太陽の化身のような自信満々の姿とはまるで別人のようだった。


『ルリ、大丈夫!?』

『鈴奈、ルリを裏に!』

『は、はいっ!』

『ごめんなさい、皆さん。あの子、まだちょっと体調がダメみたいで――』


 ステージと客席の混乱を引きずったまま、画面がブラックアウトする。華子も結依も、誰も口を開くことができなかった。


「……ってこと。ネットじゃもう、春日瑠璃は再起不能とまで言われてる。全国で壬生町みぶまちユーコの娘に一蹴されたのが相当ダメージになってるらしいな」


 和希の解説を聞くまでもなく、華子はトーナメントの日に大宮冴子から聞かされた話を思い返していた。マリナ達も一緒に聞いていた話だ。

 春の全国大会スプリング・アイドライズ本戦で、壬生町みぶまち紡姫つむぎ率いる千城せんじょう学園「DOLLSドールズ」に挑み、返り討ちに遭った上に無理して怪我を負ったという春日瑠璃。華子はその日のテレビ放送は見逃してしまったが、後から気になってネットで動画を見ていた。「Marble」と「DOLLS」の……「暁のルリ」と「波濤はとうのツムギ」の対決は、およそ全国大会の準決勝とは思えないほどの一方的なワンサイドゲームだった。

 それでも、あの春日瑠璃なら、敗北を糧にしてさらに闘志を燃やすのだろうと思っていたが……。壬生町が瑠璃の心に植え付けた闇は、傍から見ている者の想像を遥かに上回るほど深かったらしい。


「……わかるよ」


 結依がぽつりと口を開いた。


「わたしも、何度も、瞳ちゃんに負けた時のことを夢に見たから……」


 顔を上げ、和希から皆へ、結依はゆっくりと視線を巡らせていく。華子達を信じて弱みを共有したいのだと、その目が言っているように思えた。


「今も怖いの。マユさん達に色々教えてもらって、わたし、みんなと一緒に強くなってるはずだけど……それでも怖い。また瞳ちゃんと戦ったらどうなるんだろうって。……ルリちゃんのことだって、本当はずっと怖いの。あのルリちゃんが同じ手で二回も勝たせてくれるわけない。今度は、ミレイちゃんとみんなから力をもらっても届かないかもしれない……」


 彼女は汗に滲む右拳を左手でぎゅっと握っていた。そんなことない、と華子が口を開こうとすると、和希に先を越された。


「こんな言い方はナンだが、よかったじゃねーか。その春日瑠璃と戦わなくて済むかもしれないんだ」

「……でも」


 結依は小さく首を振っていた。何か、自分の中で納得できないものと戦っているような顔だった。


「……本当にそれで、いいのかな」

「いいも悪いも、相手が勝手に潰れてくれたんだ。お前が気にすることじゃない。こんなこと、プロになってからだっていくらでもあるさ」

「そうだけど……」


 目を伏せる結依の姿に、華子は何も声を掛けられなかった。マリナも、怜音も、あいりも、複雑な顔で結依の次の言葉を待っていた。

 全国優勝という険しい目標を思えば、地区予選最大のライバルとなる「Marble」のエースが倒れてくれたことは有難い。その幸運は甘受すべきだと誰もが言うだろう。だが……。


『――わたしは、名古屋エイトミリオンに入る前に、対等な相手と互角の勝負がしてみたかったのよ』


 春の大会で結依と向かい合った瑠璃の、あの自信に満ちた笑顔と――


『――あの子達の世界に、所詮、わたし達素人は入っていけない。どんなに寄り添ってあげたくてもね』


 瑠璃の敗北を語ってくれた際の、大宮冴子の寂しげな顔が、華子の脳内でぐるぐるとリフレインする。


 春日瑠璃を蘇らせられる者がいるとすれば火群結依しかいない――ふと頭に浮かんだその恐ろしい考えを振り払うように、華子は頭を振った。

 自分は、自分達は、結依を全国で優勝させるためにここにいるのだ。五人共通のものになったその夢を叶えるために。

 そこに向かって皆を引っ張るのが部長の自分の使命だ。結依が滅多なことを言い出そうものなら、自分はそれを止めなければならない。

 だが――


「華子さん」


 再び顔を上げた結依の、はっきりと紡いだ言葉を――


「わたし、ルリちゃんに会いに行きます」


 本気の思いを乗せた言葉を聞いた瞬間、華子の小さな決意は灰になって吹き飛んでしまった。

 

「ユイちゃん……」

「まあ、そう言うんじゃないかと思ってたぜ」


 やれやれといった調子で和希が小さく溜息を吐く。諦めきったような彼の口調は、この炎を消せる者が誰もいないことを、悔しいけれど華子達よりもわかっているように聞こえた。


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