Track 03. 試練の時間


 ◆ ◆ ◆



『今のあなた達には、まだまだ決定的に足りないものがある。だから――


 息もできない真空に、絶対女王の

 結依ゆいの意識を金縛りにするのは、芽生えかけた希望を容赦なく押し潰すような、ブラックホールの如きその瞳。


『今日はわたしを覚えて帰ってくださいね。歌います、「Venus+ヴィーナスプラス」――』


 その背に光の翼を広げ、神の申し子が天に舞う。地上の全てを睥睨へいげいする銀河の重力を纏って。


 ――


 くさびのように心に食い込む女王の宣告を振り切るように、結依は全身全霊を込めて炎を噴き上げる。持ち得る力の全てを懸けて、大人達の定めた運命を覆すために。

 だが――。


『みんな、受け止めて! わたしの炎を!』

って、誰だよ……』


 客席の誰も自分を見てくれない。それは自分が誰のことも見ていなかったからだ。カメラの向こうの「みんな」に笑顔を振りまくことしか知らず、生身のお客さんと視線で言葉を交わすすべを知らなかったからだ。


 ――行かないで。わたしを見て!


 結依の心の叫びも虚しく、客席の声援は結依から遠ざかってしまう。自分を応援してくれていた人達がみんな敵側に回ってしまう、これまでに味わったことのない喪失感と絶望感。


 ――


 それが脅しでも吹かしでもない、厳然たる事実の告知であったことを、結依は身震いの中で思い知る。客席の喝采を浴びて微笑む敵を前に、結依は力無く立ち尽くす。

 夢を閉ざされたあの日と同じ絶望が、じわじわと胸中を侵掠しんりゃくしてくる。

 僅か数分の対決でわたしの全てを否定された。この三年間、信じて積み重ねてきたものの全てを。

 勝てない。どんなに歌とダンスの練習をしても。どんなに可憐さを磨いても。どんな衣装を纏っても、どんな歌詞を紡いでも、どんな想いを背負っても、あの子には一生勝てない――。



 ◆ ◆ ◆



『思い出した。せっかく選抜入りしたのに、何も結果残せないで消えちゃった子だ』


 僅かな希望を胸に立ち上がりかけた結依を再び打ちのめすように、頭上から冷たい


『きっとあの子、選抜に入れただけで満足しちゃったんだよね』

『わたしの言葉を否定したかったら……力ずくで倒してみなよ』


 結依の目指す遥かな高みの世界の住人。激流の気勢を纏った現役プロの歌声が、在りし日の雪平ゆきひら美鈴みれいの持ち歌をいとも容易く侵奪カバーする。

 故人の尊厳を踏みにじったその口で、結依の大事な思い出をあざ笑うかのように。


 ――ユイちゃん、もうMV観てくれたんだ。どうだった?――

 ――ミレイちゃんの風を感じる。すてきな歌……――

 ――嬉しい。この曲を武器に、きっとわたし、エイトミリオンのトップに立ってみせるからね――


 譲らない。わたしより上手くは歌わせない。

 先輩だろうと選抜だろうと――ミレイちゃんの持ち歌だけは、誰にも渡さない!


 灼熱の炎を白銀の吹雪に変えて、結依は解き放つ。この身体に宿った美鈴の魂を。己がこの世に生きている理由を。

 しかし――


『何それ?』


 結依の人生を一笑に付すかのように、瞬時に噴き上がる青い炎がその吹雪を溶かし尽くす。


『ミレイちゃん本人でも物足りないって言ってるのに、素人のコピーなんかお呼びじゃないんだって』


 その目が冷ややかに結依を見下ろしている。あなたの全力など、子供の遊びに過ぎないのだと――


『じゃあね、ユイちゃん。お遊戯はおしまい』


 ひらひらと手を振り、その華奢な背中が遠ざかる。故人への侮辱を撤回することもなく。

 怒りと悲しみと悔しさの泥沼の中で藻掻もがきながら、結依はその背中に手を伸ばす――


「――!!」



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「――ッ!」


 くうを掴む右手の感触とともに、結依は暗闇の中で目を覚ました。

 目尻に伝う生温い涙。パジャマに染み込んだ冷たい汗。止まらない胸の動悸と喉の渇き。、はぁはぁと音を立てて吐き出されているのであろう自分の荒い息遣い。

 何も聴こえないのは、夢の世界から現実に戻ってきた証だ。

 ベッドの上で身体を起こすと、湿布の匂いがツンと鼻をついた。深夜3時を示すデジタル時計の僅かな光源が、腕や足首に貼られた真白いそれを浮かび上がらせる。


『打ち身と軽い捻挫だね。しばらくはダンスの練習はしない方がいい』


 研修医の男性の言葉が結依の脳裏に蘇る。東馬あずま有以ゆいとの私闘の末に倒れ伏した結依の手当てをしてくれながら、その彼――「ハル先生」は言ったのだ。


『大事なものを背負っているのはわかるけど、無理しすぎだよ』


 端正で柔和なその顔立ちに、結依への同情と憐憫の表情をありありと浮かべて。


『途中で止めに入らなかった僕も、医者としては失格だけどね。負けると知って挑むキミのパフォーマンスを、もう少し見ていたかった』


 負けると知って――。眼鏡グラスに浮かぶその文字こえがさっくりと結依の心を刺す。負けるつもりなんて決してなかったのに。目の前で美鈴の尊厳を汚したあの人にだけは、負けるわけにはいかなかったのに……。


『ユイちゃん、明日は学校何時に終わるの?』


 ハル先生の肩越しに、羽生はにゅうマユが問いかけてくる。


『学校なんて……。休んででも練習します。マユさんに鍛えて頂けるなら』

『だーめ。ユイちゃんはスクールアイドルなんだから。学業は大事にしなさい』


 仕方なく火曜日の時間割を思い浮かべ、結依は答えた。


『3時半には終わりますから……4時にはここに来れます』

『うん。じゃあ、スクールアイドルとしての全戦力を揃えて、ここにおいで。電車代は出してあげるから』


 どこか楽しそうな笑みをマユが浮かべるのを見て、結依の心は震えた。

 明日からマユさんの教えを受けられる。どんな特訓が待っているのかはわからないが、秋葉原エイトミリオンの伝説のOGが自分を鍛えてくれる。絶望の暗雲を吹き飛ばす道が、きっとその先にある――。


 マユとの約束を思い返し、汗に濡れた拳をベッドの上で握っていた結依の目に、枕元の補聴眼鏡グラスのライトがちかちかと明滅するのが映った。それは部屋の扉がノックされていることを示すものだった。


「はぁい」


 眼鏡グラスを掛け、結依は扉の向こうの父に返事をする。扉がそっと開かれ、父が心配そうに顔を覗かせた。


「大丈夫か? 随分うなされてたみたいだけど」

「……ううん。もう大丈夫。ちょっと……色々、思い出しちゃっただけだから」

「そうか……」


 父の顔に重なるようにして、緑色の文字こえが結依の視界に走る。


「辛かったら、やめてもいいんだよ」


 それは、この三年間、父が何度も掛けてくれた言葉だった。そのたびに結依は父の優しさに安心し、感謝し、それでも、結局は首を横に振ってきた。

 今回も、それは変わらない。


「ありがとう。でも……死んでもやめない」


 レンズ越しに結依が言うと、父はどこか安堵したように、穏やかに口元を緩めた。


「おやすみ、結依」

「おやすみなさい。お父さん」


 ぱたん、とか、かちゃり、とか、多分そんな音を立てて、静かに扉が閉まる。

 眼鏡グラスを外し、結依は再び暗闇に身を横たえた。

 結依の夢を応援してくれる一方、いつでも普通の女の子に戻っていいんだとも言ってくれる父の暖かさは、子供の身の結依には有難い。だけど、やっぱり、こんなところで夢を捨てるわけにはいかない。

 自分は必ず秋葉原エイトミリオンに入って、美鈴の分まで歌って、総選挙でトップになって――

 沢山のファンが見守ってくれる中、満員の卒業コンサートでマイクを置くのだ。11年間走り続けて伝説となった、あの羽生マユのように。

 普通の女の子として生きるのは、それからでいい。

 ぎゅっと胸の前で拳を握ったまま、結依は再び暗い眠りの世界へ落ちていった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「……だから、わたし、放課後はマユさんのところに行ってきますね」


 翌日のランチタイム、結依はアイドル部の皆に食堂カフェテリアに集まってもらって、事情を説明した。昨日の全てを目にしていた華子はなこは既に承知してくれていたが、マリナやあいりは、結依が羽生マユに稽古を付けてもらうという話にまず目を丸くしていた。


「羽生マユって言ったら、レジェンド中のレジェンドじゃない。あたしだって知ってるくらいよ」

「わたくしも。あの方にお稽古を付けて頂けるなんて……ユイちゃん、すごいです」


 和希かずきの母親がマユだったという話は、きっと本人は隠したがっているのだろうから、結依の口からは言わずにおいた。

 ブラックコーヒーのカップを片手に、怜音レオンが言う。


「確かに、ユイちゃんのレベルに見合う練習場所となると、いっそプロに混ざってレッスンするというのは名案かもしれないな」

「……いいえ、レオンさん」


 結依は小さく首を振った。東馬有以に手も足も出なかった昨日の自分の惨めさが、結依の心に影を落とす。


「今のわたしじゃ、プロと肩を並べるなんてとても……。でも、夏の大会までには、きっと今より強いわたしになってみせます。だから、みんなも腕を磨いて待っててください」


 仲間達の顔を見渡し、結依は告げた。皆と一緒にレッスンできる時間が少なくなるのは辛いが、この自分が羽生マユのもとで強くなることが、結局はチームの力を引き上げることにも繋がるはず。今はそう信じて、それぞれの場所で鍛錬に励むしかない。結依のその考えは、既に華子には伝えてあった。


「うん……わたし達も負けないように頑張るね。離れてても、チームだから」


 華子の声にきっと寂しさの色が混ざっていることは、その顔を見ればわかる。マリナも、怜音も、あいりも、心から納得はしていないだろう。

 それでも仕方がない。チームのエースたる自分がこんなに弱いままでは、春日かすが瑠璃るりを擁する春暁しゅんぎょう学園の「Marbleマーブル」相手に地区予選突破も難しいだろう。まずは自分が強くならなければ……。


「ユイちゃん」


 食事を終えて華子らと別れ、一年生のフロアに戻る最中、横に並んだあいりがそっと言ってきた。


「わたくしは……寂しいです。ユイちゃんと一緒に練習したい」

「……ごめんね、あいりちゃん」


 彼女の気持ちは痛いほどわかるが、和希が作ってくれた折角のチャンスを自分は棒に振るわけにはいかないし、さりとて、その特訓に皆を巻き込むこともできない。ただでさえ自分の夢に付き合ってもらっているのに、これ以上、自分の弱さのツケを皆にまで回すわけにはいかない。


「絶対、何かを掴んで帰ってくるから」

「……はい」


 あいりはそれ以上言い返してはこなかったが、しゅんと落ち込んだようなその横顔は結依の心に痛く染み込んだ。自分を追ってアイドル部に入ってくれた彼女のためにも、無様な姿は見せられないと思った。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 そして、放課後。練習着とレッスンシューズ、そして華子が今までに仕立ててくれた二着のステージ衣装をスポーツバッグに詰め込んで、結依は羽生マユの待つシンクロ・プロダクションの門を叩いた。二着も衣装を持ってきて使い道があるのかはわからないが、「スクールアイドルとしての全戦力」を揃えてここに来るようにというマユの指示には、きっと何か意味があるのだと思った。

 着く時間を事前に連絡していたからか、マユは一階のロビーで結依を待ってくれていた。


「こんにちは、ユイちゃん」

「こんにちは。お世話になります。よろしくお願いします!」


 結依がしっかりお辞儀をすると、マユはくすりと笑って、結依の荷物をさっそく指差してきた。


「何持ってきたの? 見せて見せて」

「はいっ。これ、華子さんが作ってくれた衣装で……」


 どうあれマユが自分の持ち物に興味を示してくれているのが嬉しくて、結依ははやる気持ちでバッグから衣装を取り出す。スプリング・アイドライズの地区予選で着た、制服調スクールルックに数色の宝珠オーブを散りばめた「ELEMENTSエレメンツ」の揃いの衣装と、先日のトーナメントで披露したキュートなピンクの新衣装。マユはふんふんと頷きながら説明を聞いてくれた。


「それから、これです。カズキ君がわたしのために書いてくれた勝負曲の歌詞……」


 続いて、直筆の歌詞が綴られたルーズリーフをクリアファイルごと渡すと、マユは「あ」と文字こえを弾ませた。


「これ、トーナメントで歌ってた曲でしょ? ふぅーん、ちょっと歌詞が康元やすもと先生っぽいなって思ってたんだけど、カズ君が書いたんだ、これ」


 マユは数秒ほどその内容を流し読みしていたかと思うと、さらっとそれを結依に返して、顔を寄せてきた。


「他には他には? ユイちゃんの武器、まだあるでしょ」

「えっと……」


 憧れのアイドルの輝く瞳に見据えられ、結依はどきりと身を強張らせる。

 正直、スクールアイドルとしての戦力で思い当たるものはもうなかった。当たり前のように「まだあるでしょ」と言ってくるマユを前に、たちまち溢れ出す焦燥を悟られないように、結依は急いで答えた。


「あとは、この身体に覚え込ませた秋葉原エイトミリオンの曲と、ミレイちゃんから受け継いだ夢。それが今のわたしの全てです」


 スクールアイドルとしての力を示せと言われているのだから、子役アイドル時代のキャリアのことを口にするのは違うと思った。


「……そっか。わかったよ、ユイちゃん」


 作ったような笑みを落として、マユがソファに腰を下ろす。自分を見つめるその目がどこか冷めた色に変わった気がして、結依は背筋に冷たいものを感じた。

 何か気に触ることを言ってしまっただろうか。それとも――。


「足は痛くない?」


 立ち尽くしたままの結依の視界に、マユの文字がさらりと走る。


「は、はい、もう大丈夫です。でも、ダンスを教えて頂けるのなら、一応テーピングを――」

「何言ってるの。ハル君が言ってたでしょ、ダンスの練習はしばらくダメって。お医者さんの言うことは守らなきゃダメだよ」


 そわそわとした結依のやる気をぴしゃりと遮ってから、マユは続けた。


「それに、今のユイちゃんに歌やダンスを教えても意味ないもん」

「え……?」


 なんでもないように告げられたその言葉に、結依の心と身体は一瞬で硬直した。真空の宇宙に放り出され、息ができなくなるようなこの感覚。指宿いぶすきリノに漆黒の瞳で見据えられた、あの時のように――。


「それより、ユイちゃんには一つの試練を課します。今から秋葉原アキバに行ってきて?」


 膝が笑うのを必死に抑える結依の前で、マユはすらすらと「試練」の内容を告げていく。


「やり方はなんでもいいから、秋葉原の街にいる人をつかまえて握手してくるの。握手会の1部がだいたい握手券500枚分だから、500回って言いたいけど、300回でいいよ。数えるのズルしちゃダメだからね。ウチのスタッフをボディガード兼見張り役で付けるから。期限は今日の夜8時まで。それに合格したら、レッスン見てあげる」


 結依は目をしばたかせながら頷くのがやっとだった。

 夜8時まで……。今から移動すれば5時までには秋葉原に着けるだろうから、猶予は3時間といったところか。


「……もし、できなかったら?」

「明日も同じことするだけー。まあ、でも、大丈夫だよ。ユイちゃんなら余裕余裕。本気出せばすぐ終わるよ」


 雲の上を行くような明るさで笑って、マユは最後に付け加えた。


「ちなみに、知ってると思うけど――リノちゃんもわたしも、一日5,000人はさばいてたからね」



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 駅の化粧室でピンクのステージ衣装に着替え、バッグをコインロッカーに預けて、結依は恥ずかしさを胸の内に押し込めながら秋葉原の駅前に歩み出た。カメラの前やステージ上で着るのなら恥ずかしくも何ともないのに、日常の雑踏の中にこの格好で足を踏み入れるとなると、途端に顔から炎が噴き出しそうだった。

 フリフリのアイドル衣装を着ているのに眼鏡グラスを掛けたままというちぐはぐさも、結依の恥じらいを一層煽る。学校の制服のままの方が良かっただろうか。いや、しかし、衣装を着ていなければ、誰も自分をアイドルだと思ってくれないだろう。

 そんな結依の恥じらいをよそに、アイドルもメイドもコスプレも散々見慣れた秋葉原の群衆達は、たまにちらちらと結依の方を振り返るだけで、何事もないように通り過ぎてゆくのだった。

 スタッフの男性は黒子に徹し、何歩か引いた位置で結依を見守ってくれている。結依はビルの壁面の大画面テレビに目をやった。時刻は17時を少し過ぎている。早く始めなければ、時間がない――。


「あ……あのっ」


 どんな大一番の前にも感じることのなかった類の緊張を覚えながら、結依は、カフェの前で携帯ミラホを見ていた、アニメキャラのシャツを着た若い男性に話しかけた。


「え?」

「わたしと握手してもらえませんか?」

「は……?」


 瞬間、訝しむような男性の目線が、結依の心をぐさりと刺した。

 怪訝そうな表情で首を振り、男性はそのまま早足で歩き去ってしまう。がつんと重たいハンマーで頭を叩かれたような衝撃が、たちまち結依の全身から血の気を引かせる。


「え……。あの……!」


 結依は無意識に男性の背中を呼び止めようとして、すぐに我に返って声を抑えた。振り返ってくれるはずがない――。

 気を取り直して次に行くしかない。だが――。


「こんにちはっ」

「はい?」

「あの、わたしと握手――」

「い、いいです、いいです」


 結依が次に声を掛けたチェックシャツの男性もまた、怪しいものを見るような目で結依に一瞥をくれたきり、すたすたと逃げていってしまった。

 そんな――。結依は助けを求めるようにスタッフの男性を見る。スーツ姿の彼は無表情を決め込んでいた。そうだ、頼っても仕方がない、と結依は思い直す。

 これは自分が羽生マユから課せられた試練だ。自分一人の力で突破しなければ意味がない。

 だけど……。

 たった二人に声を掛けただけで、早くも結依の心は折れかけていた。

 なんというか、自分からは口が裂けても言わないことだが、結依は自分の顔が可愛いのを客観的事実として知っている。子役アイドルとして多くの人に名を知られていた自負もある。アイドルにとってホームとも言えるこの秋葉原という街でなら、きっと喜んで自分と握手してくれる人は多いだろうと、心のどこかで期待していたのだ。

 しかし、蓋を開けてみればこの現実だ。オタク寄りの男性を選んで声を掛けたはずなのに、二人が二人とも、結依に見向きもしてくれなかった。


 ――これが今のあなたの立ち位置――


 昨日の羽生マユの言葉が脳裏に蘇る。プロのアイドルの前には、握手を望む人達で長蛇の列が出来るのに。自分はたった一人に握手を交わしてもらうことさえできない――。


「……負けるもんか」


 それでも闘志を奮い立たせ、結依は次の人に声を掛けて回った。落ち込んでいる時間はない。3時間で300人と握手しようと思えば、一人あたり1分もかけられない。


「わたしと握手しませんかっ」

「え? は、はあ。いいですけど……」


 初めて握手に応じてくれる男性と出会えたたのは、十人近い人達に断られた後だった。

 やっと。やっと一人目……。なんだか涙が出そうになるのを堪えながら、結依は頭にバンダナを巻いたその男性の手をそっと握る。

 子役アイドル時代にも接触系のイベントは無かったので、こうして知らない人の手を握るのは、考えてみれば生まれて初めてのことだった。


「……?」


 結依の手を握り返しながら、その男性が僅かに首を傾げる。結依はハッとした。そうだ、何か会話をしないと――。


「あ、あの……わたしのこと、知ってます?」

「いや、知りませんけど。どこのお店の人ですか?」

「あ……」

「……もういいですか? 僕もちょっと用事あるんで」


 すっと手を離し、男性は去っていく。結依が何者なのかを気にする素振りすら見せずに。


「あっ……。ありがとう、ございました……」


 結依が小さく呟いたお礼は、きっと彼の耳には入らなかったに違いなかった。

 今度こそ抑えきれず、目の端から涙がこぼれた。メイクを崩さないように慌てて指先で涙を拭い、結依はこみ上げる嗚咽を飲み込む。

 街の人達と笑顔で握手を交わす指宿いぶすきひとみの写真が、握手会で何千人ものファンを捌く東馬有以の姿が、結依の脳裏に浮かんでは消える。

 勝てるはずがない。こんなことを日常的に繰り返している相手に、テレビの中にしか居たことのない自分が勝てるはずがない。


 ――わたしの娘には勝てない――

 ――素人のコピーなんかお呼びじゃないんだって――


 遥か高みの世界で生き続ける強者達の言葉が、結依の心を絶望の色に塗り潰していく。


「……でも」


 それでも結依は挑み続けた。美鈴の生命いのちを背負っている限り、逃げることなどできはしないから。


「あの、わたし、ユイっていいます。昔テレビに出てて、今はスクールアイドルをやってて」

「そうなんだ。ふうん、ありがと」


 何度冷たくあしらわれても、結依は次の相手を探し続ける。

 時刻はもう18時を回っている。握手できた人数は、まだたった12人……。


「あの、もう離していいかな?」

「え?」

「いや、だって、ずっと目合わせてくるから、照れるっていうか」


 VRレイヤーに浮かぶ相手の文字こえに、明らかな戸惑いの色が混ざっていることも少なくなかった。

 間の取り方も距離の詰め方も、初めての結依には全くわからない。プロのアイドル達は、一体どうやって限られた時間の中でお客さんとの間合いを測っているのだろう。


「あの、わたしと握手――」

「ユイちゃん!? ユイちゃんだよね!? うっわあ、本物だ」


 結依が新たに声を掛けた肥満体の男性は、結依の差し出した手をテンション高く握ってきた。初めて自分のことを知っている人に会えたのが嬉しくて、結依もその手をぎゅっと握り返す。


「ありが――」

「こないだのテレビ見てたよ。ひとみんと戦ってたやつ。自分、前からユイちゃんのこと応援してたからさ、すっごい嬉しくて。ていうかスクールアイドルなんかやってたんだ、ユイちゃん。芸能界はどうしたの? エイトミリオンには入らないの?」

「あの、わたし――」

「ユイちゃんの可愛さなら絶対エース級だと思うけどな。ほら、冬にドラフト会議もやってるしさ、試しに出てみたら? 多分ユイちゃんなら一番人気間違いなしだって。入る気ないにしても、絶対話題になるし。指名かっさらうだけかっさらって契約辞退カマしちゃえばネットでバズるよ。いいと思うけどな、炎上マーケティング」

「えっと――」

「あれ、そういえば、なんでメガネ? プライベートではメガネなんだ? それとも何かのコスプレ? ていうか、今高一だよね。どこの高校行ってるんだっけ。学園祭とかないの? あったら遊びに行ってあげるよ。オタ仲間でユイちゃんのこと好きだった連中が他にも居るしさ」

「それは、ちょっと――」

「ていうか、最近の本店マジでだらしないからさ、やっぱユイちゃんが入ってテコ入れしてよ。東馬有以なんかセンターにしてるようじゃダメだって。神田かんだアキバ一強体制にしっかり若手が牙を剥かなきゃ、本店に未来は無いよ。自分、嫌いなんだよね、親が凄かったから子供も聖域にしてやろう、みたいなの。神田アキバとか、やる気もないし可愛くもないし、ただ親が神田アツコってだけじゃん。その点、東馬はチーム・ドライブの生え抜きだった頃は期待してたけど、もうダメだね、あんだけ運営に推されてるくせに、七姉妹セブン・シスターズの手前を何年ウロウロしてるんだって話だよ。やっぱ、本店のフロントはユイちゃんみたいな子が引っ張るべきだよ。若いし、実績あるんだしさ。どうなの、ぶっちゃけユイちゃんの方が東馬とかよりダンスも上手いでしょ」

「……」

「知ってる? 東馬有以。聖域メンの中でもぶっちぎりでやる気ないよ。ダンスもヘッタクソだし歌も適当だしバラエティでも使えないし、とっくに賞味期限切れてんのに、いつまでも運営が失敗を認めたがらないからさ。さすがにあれがセンターは無いよ。ゴリ押しにも程があるっていうか、あんなのが選抜に居座ってるから本店は落ち目とか言われるんだよ。ユイちゃんが本店入りしてセンターやった方が絶対売れるって。……あ、でもそうか、落ち目のエイトミリオンなんか今更入りたくないか。そりゃそうだよな。じゃ、日本橋にほんばし吾妻橋あづまばしに行ったら? ユイちゃんの可愛さなら橋でもやっていけるって。ぶっちゃけ新井あらいマイとか目じゃないでしょ。……ねえ、さっきからどこ見てんの?」

「……ごめんなさい」


 VRレイヤーに高速で流れる文字を追いきれず、結依は視線をふらふらと彷徨さまよわせてしまっていた。男性の言葉に「はい」とも「ありがとう」とも答えることができないこの時間が、ただただ辛かった。本当の自分は、彼が言うほど大した存在ではないのに……。

 男性に決して悪気はなく、そもそも結依の方から望んで握手してもらっているのに、どうやってこの時間を打ち切ったらいいのかなどと考えてしまう自分が情けない。


「あの、そろそろ……。わたし、夜までに300人の方と握手しなきゃいけないんです。だから……」

「何それ、テレビの企画的なやつ? 同じヤツが2回来てもいいんでしょ? ダメなの?」

「わ……わかんないです」


 見張り役のスタッフも「剥がし」の役目まではしてくれない。ごめんなさい、と続けて頭を下げて、結依はやっとその男性に手を離してもらった。後ろにスタッフがいることくらいは当然彼にも見えているようで、彼は名残惜しそうにブツブツ言いながらも最後はその場を去っていった。

 色々と勝手なことも言われたが、こちらの事情を知らないファンのことを結依が責められるはずもない。むしろ、あれだけ持ち上げてくれる人もいるのに、指宿瞳にも東馬有以にも勝てない自分がただただ不甲斐ない。


「すみません、わたしと握手……」


 8時までに300人が無理なのはもうわかりきっていた。それでも結依は、秋葉原のメインストリートを歩き回り、一人でも多くの人と握手を続けようと試みた。たとえ見張りが付いていなかったとしても、「間に合わないとわかったので残りの時間は諦めてサボっていました」なんて報告をマユに聞かせるわけにはいかない。


「ああ。子役のユイちゃんか。懐かしいね、うちの子が好きだったよ」

「ありがとうございますっ。わたし、今は――」

「そんな格好させられて大変だろうけど、まあ、頑張ってね」


 59人目の男性を見送って、結依が見上げた壁面テレビの時刻は19時58分。……結局、マユに課された300人には遠く及ばなかった。明日は。明日はどうすればいいのだろう――。


「やあ、ユイちゃん」


 結依が肩で息をしていると、昨日登録したばかりの声紋こえがふとVRレイヤーに走った。顔を上げた先では、ジャケット姿のハル先生が、スタッフの男性と軽く会釈を交わし、ふらりと結依に歩み寄ってくるところだった。


「マユさんに事情を聞いて来てみたんだけど……。何人と握手できたの?」

「……59人、です」

「そっか。じゃあ、はい、僕で60人目」


 彼の差し出してくれる手を結依が喜んで握ったとき、ちょうど、大画面の時刻表示が20時00分に変わった。


「……相当、こたえたみたいだね。事務所まで送るよ」


 彼はすぐそばに車を停めているようだった。「じゃあ、私はこれで」と退散するスタッフの男性にぺこりと頭を下げてから、結依はロッカーの荷物を回収し、ハルの赤いスポーツカーの助手席に乗り込んだ。

 ハルは結依のためにスポーツドリンクを買ってくれていた。丁重にお礼を述べ、結依はそれで喉を潤す。心地良い震動とともに、車は夜の街路を走り抜けてゆく。


「ユイちゃんは、なんでエイトミリオンのトップに立ちたいなんて?」


 首都高速に乗り入れた直後、ハルの文字こえが尋ねてきた。


「いや、昨日の東馬ユイユイとの話から、大体のことはわかってはいるんだけどね。ミレイちゃんって子のこと……。ただ菩提ぼだいとむらうだけでは足りない何かが、キミにはあるんだろう」

「……ミレイちゃんを生かしてあげられるのは、わたしだけですから」


 嗚咽を押さえ、喉の底から絞り出すように結依は言った。

 自分の思いを知ってくれる人がここにもいる……。怜音や華子達に美鈴のことを打ち明けたときと同じ感情が、じわりと結依の心に温かい炎を灯してくる。


「……ハル先生は、どうしてお医者さんに?」


 ハンドルを握る彼の横顔を見て、結依は尋ねた。研修医であるということ以外、彼に関して結依はまだ何も知らなかった。


「僕? 僕はね……アイドルになりたい子の、助けになってあげたいからさ」


 ちらりと流し目に結依を見て、彼はすぐまた視線を前に戻す。


「僕の、歳下の従妹いとこが、ユイちゃんと同じようにアイドルを目指してたんだけどね。僕が医大に入ったばかりの頃、その子が重い病気にかかって、夢を諦めざるを得なくなったんだ」


 淡々とレイヤーに表示される彼の言葉は、きっと重たい響きを纏っているのだろうと結依は感じた。


「その子の涙を目の当たりにした僕は、少しでも早く医者になりたくて、飛び級ができるアメリカの大学に渡った。幸い、あっちに親類が居るからね。もちろん、その子の治療には間に合わなかったけど……なんとか22歳でIMLを取って、今は日本こっちの病院で研修医をやりながら、マユさんのとこでスポーツドクターの真似事をさせてもらってるってわけさ」


 彼の言葉にある「IML」に、結依の眼鏡グラスのAIは「国際医師免許」と注釈を付けてきた。若い人だとは思っていたが、飛び級でアメリカの医大を出るほど優秀な人だったのか……。


「その従妹の子は、今、どうして……?」

「元気に高校生をやってるよ。幸い、後遺症も克服して、今は部活動を頑張ってる。高校を出たらバリバリお金を稼いで、親に恩返しするってさ」

「よかった……」


 顔も知らないその子の快復にホッとして、結依は胸を押さえた。

 先行する車を何台かまとめて追い越してから、ハルがふいに問うてくる。


「ユイちゃんの耳は……後天的なものなのかい」


 先天性か後天性かということより、彼は、治療の手段はないのかと聞いているのだろう。


「電磁パルスで神経を焼かれてます。脳ごと取り替えなきゃ治りません」

「そうか……。辛かったね」

「いいんです。こうなったおかげで、わたし、沢山の人と出会えましたから。マユさんや、ハル先生とも」


 決して強がりで言ったのではなかった。運命を恨む段階などとうに越えている。瞳や有以に勝てないのは聴覚を失ったせいではなく、単に自分が弱いだけだ。仮に今、聴力が戻ったとしても、自分が彼女らに歯が立たないことは何も変わらない。


 それからしばらく走り、車は30分足らずでシンクロ・プロダクションに帰り着いた。羽生マユは、レッスンスタジオの片隅でちょこんと椅子に腰掛けて、研究生達がダンスの先生にしごかれる様子を見ているところだった。


「お帰りなさい、ユイちゃん」


 ハルにもお礼を述べながら、マユがふわりと立ち上がる。


「握手、どれだけできた?」

「……60人です」


 結依がおずおずとマユの顔を見上げて告げると、彼女は「うーん」とあからさまに首を傾けた。


「全然ダメだね。ひょっとしてユイちゃん、本気出してないでしょ。スクールアイドルとしての全戦力で、って言ったのに」


 数時間前と同じ震えが結依の全身を襲う。現に課題に応えられなかったのだから仕方がないが、やっぱり稽古を付けるのは無しだと言われてしまうのではないかと、結依は気が気でなかった。


「ごめんなさい……」

「謝る必要は全然ないけど……。明日もやる?」

「やります。やらせてくださいっ」


 うん、とマユが頷く。ひとまず今日限りで放り出されなかったことに結依は安堵した。しかし――。


「遠慮しないで、ユイちゃんの持ってるもの全部使っていいんだよ。そう、全部」

「全部……」


 結依は無意識の内に衣装のスカートの裾をぎゅっと握り締めていた。自分を試しているようなマユの視線を、直視するのが怖かった。

 これ以上、何を使えというのか。

 制服に着替えて事務所を出てからも、結依は答えを見いだせないまま、星の見えない空を力なく見上げることしかできなかった。

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