第16話 教会(1)
納得がいかない。
どうしてミアと俺が異端審問官に狙われる必要があったのか。
いやそれより以前にだ、何故俺はコランタンに殺されなければならなかったのか。
いよいよ俺も死神に魅入られたか。
そんなことを考えている血糊が張り付いた俺の腕を、そっとか細い腕が撫でた。
湯を染み込ませた白い布が、土と血で汚れたそれを吸い取り、清めていく。
体の修復はできても、こういった細やかな所までは手が回らないのが、この俺の身に巣食っている呪いの実に嫌なところだ。
元より戦闘を継続するためだけのモノだ、血を拭う暇も惜しいという訳だろう。
「大丈夫ですか、痛く、ございませんか?」
「あぁ、実にいい具合だ。済まないな」
甲斐甲斐しく俺の体を拭き清めているのはヒルデでも、マヤでもない。
もちろんのことながらユッテやヘルマでもない。
うちの女子どもに、こんなことをする女性的な側面なぞ、求めてはいけないのだ。
夜の帳から風雨を防ぐだけの簡素な造りの教会その中。
薄っすらと茶化たベッドの上に横たわって、俺は修道女にその身を任せていた。
献身的なその指先は、触れる度に汚れだけでなく、殺気立っている俺の心を宥めてくれる。その指の持ち主は、今日の昼、偶然にもヒルデが再会した旧知の友人。
「驚きましたわ。まさか、貴方がこんな所で倒れて居らっしゃるなんて」
「助かったよ。神の思し召しとはこのことだな」
パウラであった。
昼間会った時と同じ、敬虔な女修道士の衣装を身にまとった彼女は、血で濡れた俺の体をその白磁の食器のような指先で繊細になぞっていく。
その姿は、ある種の神聖さを伴っており、女を見るとついつい口や手が出てしまう俺にそんな気を起こさせない品位があった。
聖女、聖母なんて言葉が頭を過る。
いや、うちの連中を見ているからそんなことを思っちまうのかね。
そもそも女ってのは、彼女くらいのしおらしさがあるものなんじゃないか。
まぁいい。
深く考えてどうにかなることでもない。
林檎の呪いによって復活した俺であったが、既に俺とミアに手をかけた男の姿はなく、手持ち無沙汰にそこに佇むよりなかった。そんな所に、件の騒ぎを聞きつけて、古馴染みのある教会から顔を出して、様子を伺って来たのがパウラだ。
顔を知られている相手でなければ、そのまま逃げるということも考えられた。
だが、なんとも運の悪いことに、それは俺の相棒の知人。
誤魔化すために、さも、襲われたという体を装った俺を、彼女は教会の中へと招き入れ、こうして手当をしてくれているのだった。
異端審問官に切りつけられおぞましい姿となったミアにしても、教会でその遺骸を引き取ることを許しただけでなく、手ずから筵を引いて教会の中へと彼女の体を運び込むことさえしてくれた。
「神父様が会議より戻られるまでの辛抱ですから」
目の端に涙を湛えて言った彼女の表情。
やむなしとはいえ彼女を謀っている俺の心をそれは存分に締め付けてくれた。
「明日から教皇会議だというのに通り魔だなんて。昼間の事故といい、どうしてこうも物騒なことが続くのでしょう。主は我らを試しておいでなのでしょうか」
「なに、こういう事もあるさ。聖戦中なんかは、敵対している国同士が、ここぞとばかりに仕掛け合うってこともあった、と、聞くしな」
こと俺自身に降りかかった事態だけを考えれば、物騒なことこの上ない。
だが、この街でこの時期に昔から繰り返されている因縁としてはよくあるものだ。
むしろ、教皇会議だからこそ、こういう物騒なことになるのである。
ただそれを抑える役目の、異端審問官にやられたというのは、予想外も予想外。
こればかりは神の思し召しがなかった、という事になるのだろうかね。
まぁ、そんなのが居ないのは、こんな体になった時から知っていた話だけれども。
「とにかく今日は安静になさってください。ヒルデ様には、明日の朝にでも、私から使いの者を出しますので」
「いや、これくらい大丈夫だよ」
「ダメです!! 目立った外傷がないとはいえこんなに血に濡れて、無事な訳がないじゃないですか。お医者様にちゃんと見てもらって。それでなくても、またいつ襲われるか分かりません。今日はどうか、ここにお泊りになってください」
俺の体の事情を知らぬからそんなことを言うのだろう。
どうしたものかね。
さっきのように。
附子でも飲んで嫌でも死ねないことを証明すれば、解放してくれるだろうか。
いや、せっかくこうして看病してもらっている手前、そんな彼女の気持ちを裏切るような行為、とてもじゃないができないな。
まぁ、部隊の面々も俺が居なくてどうなるようなタマでもない。
リヒャルトが事情を伝えてくれていることもある。
なにかあったのだろう察してくれることだろう。
明日の朝にでもひょっと出ていけば、ヒルデに小突かれる程度で済むに違いない。
マヤは一緒に寝る相手が居なくて寂しがるかもしれないがな。
「けどまぁ、血の匂いのする俺では一緒に寝られないか」
「え?」
「いや、なんでもない、ひとり言さ」
まぁいい。
ここは素直にこのお嬢さんの好意に甘えておくのが良いだろう。
ではそうするよと、俺が了承すると、彼女は微笑んだ。
「お湯を変えてきます」
そう言ってパウラは立ち上がる。
足元に置いていたオケに、先ほど、俺を拭いていた布切れを優しく落とす。
パシャリ、と、温かい音がしたそれを抱え上げると、彼女はのっそりとした動きで俺に背中を向けると部屋を後にした。
木造の戸が夜の静寂の中に軋んだ音を立てる。
静謐という言葉の似合う部屋
寝ている俺の足元、腰ほどの高さがある古ぼけた木目をした置台が見える。
その上に隙間風に揺れているのは蝋燭の炎だ。
もう殆ど溶けてしまっているそれを、大事に使っているあたり、外観に反して、あまりここの教会は財政状況がよろしくないのかもしれない。
そして先程の発言を見るに、彼女、ここに来てまだ日が浅いのだろうか。
この手の政争のやり取りはこの辺りに住んでいれば、当然に知っているというか、あまり不思議に思わない話である。
まさかとは思うが。
実は、先ほどの異端審問官と彼女がグルで、俺をここに拘束するために一芝居打っている。なんてことを邪推をしてしまう。
ありえない。
彼女、そんな器用なことができるような娘ではないぞ。
なんと言っても、あのヒルデの知人なのだ。
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