第106話 内部
いくつもの大きな窓が幾筋もの光を迎え入れていた。
だだそこにすこしだけクレゾールのニオイが混ざると、とたんに病院の中だとわかる。
それを裏づけるように各部屋の前には等間隔で消毒用ハンドジェルが備えつけられている。
二条は大きな個室のある廊下を悠々と歩いていく、とある病室の前で歩みを弱めやがて足を止めた。
中に誰がいるのかもわからない病室のドアをじっと見つめている。
(VIPの病室か。アフターエフェクト……)
「こんにちは~」
ピンク色のスクラブの看護師が二条に軽く会釈をして足早に通り過ぎていった。
二条は忙しなく歩くその女性に向かって――こんにちは。と挨拶を返した。
「あの、すみません」
二条はその看護師を呼び止めた。
「はい?」
とっさに振りかえった看護師はその場からでも愛想よく笑みを返した。
看護師はいつどんなときでもこの笑みを求められる。
「社雛は今も?」
「あの、そういう個人情報は……」
看護師は断りの口調だったが二条の右胸につけられている「MK」のバッジを見て
表情がキリっと引き締まり優し気だった顔が消えた。
「すみません。当局のかたでしたか。ええ、雛ちゃんはまだ……もっと詳しいことが知りたければ事務室でお尋ねください」
看護師は
「あっ、ごめんなさい。いいの。いいの」
二条は否定の意味で左右に手を振って申し訳なさそうに苦笑いした。
どことなく高圧的だったかもしれないと自省もする。
「ちょっと気になっただけだから。それに専門的な魔障のことをきいても私じゃなにもわからないし。呼び止めてごめんなさい」
「いいえ。とんでもありません」
看護師は最敬礼ほどのお辞儀した。
「あなた。高度魔障専門担当ナースなのね?」
「はい。そうです。でもどうしてそれを」
「この病院には魔障の患者しかいない。なにより社雛の存在を知っていた。さらにVIPが入院するフロアを行き来している」
「おっしゃるとおりです。さすがは当局のかたですね?」
「あの、九条に今度の
「えっ、九条先生にですか? わかりました。九条先生いつも忙しそうなので助かると思います。では失礼いたします」
「ありがとう」
二条は高級感のあるオーダーメイドの
看護師の胸元には「
「えっと。戸村さん?」
二条は感謝を込めてそう呼んだ。
「はい」
戸村は凛とした顔になった。
「よろしくね」
「はい。きちんと伝えておきます。それでは失礼いたします」
戸村はふたたび歩きだすとすれ違う患者すべてに声掛けをしていった。
小さな女の子の患者には――
二条はそんな様子を黙ってながめていた。
アニメのキャラクター柄のパジャマを着た女の子はテラスの外で咲いているピンクの花を見て小さくうなずき、まるで花が咲いたような笑顔になった。
「うん」
「あの花は
「きれ~い」
戸村は不安を押し殺すように廊下を歩いていた女の子を笑顔にさせた。
それは直接的な看護ではないかもしれないけれど立派な心の看護だった。
「でしょ。それにね葵ちゃんと同じ名前だよ」
「へ~」
『
女の子が発したとは思えない邪悪な
「……」
葵という女の子の表情が瞬く間にかげっていった。
涙を堪えるように口を固く結んで、無言のまま自分の右膝に手を当てた。
戸村は女の子のパジャマのズボンを膝までそっとめくりあげた。
葵の膝には小さな窪みが四つあって、その窪みはちょうど人の目、鼻、口のような配置だった。
「残念だけど葵ちゃんは来週末には完治するのよ。最新の魔障医療をみくびらないでくれる?
戸村は葵の膝と会話をしている。
『
葵は自分の膝の窪みの中でいちばん大きな穴が動くたびに不安に襲われた。
「……」
「いい加減にしなさいよ」
葵は小さな体を震わせながら戸村のスクラブを強く掴んだ。
戸村は怯える葵の頭をなでた。
「
「うん。葵。がんばる」
『
「葵ちゃん。
「うん」
二条はそんな光景を微笑ましく見たあとにそっと歩きはじめた。
(ここは本当に優秀なスタッフが揃ってるのね。医療従事者が”絶対”なんて言葉を“絶対”にいっちゃいけないのに。職業生命をかけてまで患者の不安を和らげるなんて。これが当局にいる私に欠けているものなのかもしれない……)
※
オレンジ、グリーン、ピンクなどファッショナブルなスクラブの看護師たちはカルテのようなものを小脇に抱えてフロアを足早に歩いていく。
二条はその様子をチラリと見ながら自分に向かって一礼していく、ひとりひとりに会釈して足を進めた。
(そういえば社雛があの怪我の前に心血注いで調べてたのって……たしかシリアルキラーのデスマスク。まっ、関連があるとも思えないけど。でもバシリスクが現れた日も黒い絵画を見たって六角市の教育委員会経由で報告書を送ってきてたのよね……。六角市で忌具がチョロチョロ動いてるのは間違いない。それと美子と社雛が退治したリビングデッドの中にグールが混ざっていたって話……)
二条は頭の中でいくつものピースを埋めながら、まるで竜が大きく口を開いているような連絡通路へと入っていった。
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