7
熱い蒸汽を浴びた「導師」は、両手で顔を押さえ、苦悶していた。
「うぐぐぐぐぐっ!」と呻き、くるりと背を向ける。
どたどたと「導師」は逃げ出した!
「どうなってんだ? あいつ、逃げ出すぞっ!」
市川は操縦席のスクリーンを見て、呆気に取られ、叫んでいた。
この展開は、予想していなかった。もっと激しい戦いがあるものと、完全に思い込んでいたのである。小さなスクリーンに映る、全員の顔は「当てが外れた」と言わんばかりである。
今の蒸気の噴出は、プロレスで言えば、最初の小競り合いみたいなものだ。ちょっとお互い、様子見にビンタの応酬をし合って、「さあ、やるぞ!」と本気になる寸前である。
それが、あっけらかんと、尻に帆を掛け、逃げていく。まったく信じられない。
「追いかけましょう」
三村が司令席から、平板な、まるで抑揚のない口調で命令する。
山田は唇をへの字に曲げ、頷き、ロボを進ませる。
「導師」は王宮を目指している。顔を覆い、背を丸め、王宮へ続く大通りを、まっしぐらに駈けていく。
王宮の正門は、「導師」が通り抜ける際、目茶目茶に破壊され、悲惨な状態だ。「導師」は脇目も振らず、がらがらと瓦礫を掻き分け、王宮に飛び込んだ。
「何だか、あいつ、小さくなっていないか?」
新庄が両目をぎろぎろと光らせ、呟いた。
市川は同意していた。そうだ、最初「導師」は、頭が王宮の門につかえていたはずだ。ところが、今は半分も背は高くない。
山田は王宮の正門前で、ロボを停止させた。
このまま王宮を突っ切る訳にはいかない。蒸汽ロボが通りすぎたら、今度は完全に破壊してしまうだろう。
ロボットは上半身を前方へ傾け、両手を地面につけ、人間で言えば、土下座の格好になる。
ぱくん、とロボットの胸が開くと、全員の操縦席が顕わになった。地面に向け、タラップが伸びて、全員は地面に無事に降り立った。
逃走した「導師」を追いかけ、市川たちは足音も高く、王宮の大広間に駆け込んだ。
いた!
「導師」は、一同に背を向け、蹲っている。もはや、通常の人間と同じほどだ。
「「導師」様……」
片隅から、恐る恐る、大公以下バートル国の人々が姿を表す。大公の横には、エリカ姫が付き従っている。
ゆっくりと「導師」が立ち上がった。ゆらりと、市川たちを振り向く。
「あんたは……!」
呆然と「導師」の顔を見て、市川は叫んでいた。「導師」の顔は、すっかり様変わりしていた。
「木戸さん……」
新庄が信じられないと言うように、首を振りながら呟く。
「やあ……」
少し照れくさそうに、「導師」の衣装を身に纏った木戸純一は挨拶をする。
もはや、そこには「導師」の姿は欠片もない。『タップ』の演出部屋で最後に見かけた木戸の姿があった。
いや、違っていた。木戸は市川たちと同じ、アニメのキャラクターになっていたのだ。
「やったぞ! おれも『蒸汽帝国』の世界へ来られたんだ!」
木戸は両拳を握りしめ、感動に打ち震える様子で呟いている。さっと木戸の視線が、大公の横に立っているエリカ姫へ向けられた。
「絵里香……」
エリカ姫の顔が、蒼白になった。
三村が無言でエリカ姫の側に近寄る。エリカ姫は無意識に三村の腕に自分の腕を預け、じっと木戸の凝視に耐えていた。
木戸の肩が僅かに下がった。
市川は呼びかけた。
「木戸さん、どういう訳だ? なぜ、あんたがここにいるんだ?」
木戸は、ゆるゆると首を振る。
「ずっと演出部屋で絵コンテを切っていた……。長かったなあ……。最初は、自分で絵コンテの内容を考えていたと思っていたんだが、そのうち、おれの考えじゃなく、あんたらの冒険をおれは書き写しているだけじゃないか、と思い始めて来たんだ!」
市川たちは、思わず顔を見合わせた。山田はゆっくりと話し始めた。
「それは、おれたちも同じだ。おれたちの冒険は、あんたの描いた絵コンテそのままに、動かされているんじゃないかと、思っていた。が、どちらも違うようだな……」
洋子が鋭く声を掛ける。
「それで、どうして木戸さんが、ここにいるわけ? 木戸さんは演出部屋にいたって、言っていたわよね?」
「そうなんだ」
木戸は軽く頷いた。
「コンテを描いているうち、おれもこっちに来たくなってね……。君たちが羨ましかった……。で、おれは考えた。絵コンテの内容を変えたらどうか、と! おれの考えは正しかった! おれは、ここにいる!」
木戸がエリカ姫に顔を向けると、姫はさっと顔を背ける。
新庄が同情した表情で話し掛けた。
「諦めろよ。あのエリカ姫は、今はもう……」
「判っている」
木戸は未練たっぷりに頷き、言葉を続ける。
「けど、新しいキャラクターを作ったらどうだ? 例えばエリカ姫の双子の姉妹がいて、そのキャラクターが、おれに惚れるなんてストーリーを作れば……」
市川は木戸の身勝手さに、ほとほと呆れていた。
──あんたら、いい加減にしなはれ! ほんまにもう……。やってられんわ!
広間に〝声〟が響いていた。
ぎくりと一同は顔を挙げた。〝声〟がどこから聞こえてくるのか、きょろきょろと視線を彷徨わせる。
〝声〟は苛立っていた。
──やめや、やめ! これで「導師」は、あんたらの活躍で退治され、目出度し目出度しのエンディングや! 木戸はん。あんたの勝手には断固させへんで……。絵コンテは描き終わったんや。これから、あんたらは、『蒸汽帝国』ちゅうアニメのシリーズを、きっちりと最後までお仕事してもらうからな!
市川は叫んだ。
「それは、どういう意味だ? おれたち、帰れるのか?」
──そうや、あんたら、これから、とっとと『タップ』に戻ってもらう。時間も、あんたらの出発した時間や。つまり、現実では何事も起きなかった、ちゅうこっちゃ。
〝声〟は不機嫌そうに答えていた。
どこからか、風が吹き始めていた。現実世界に一同を連れ帰る、風のようだった。
「待って下さい!」
凛とした、三村の声が、その場を支配していた。
「僕は帰りません! この世界に留まります!」
「三村君!」
市川たちは仰天して叫んだ。
「今はもう、三村健介ではない。僕はアラン王子だ!」
三村は──いや、アラン王子は、王族の威厳を保ち、きりっとした表情で答えていた。
一同の凝視を浴び、不意に三村の顔に、以前の気弱げな表情が浮かぶ。
「御免なさい。でも、僕はこの世界がぴったりくる……そんな気がしてならないんです。僕は以前は、自分は誰か、なぜここにいるのか、ずっと迷っていた……。生きているだけで、他人に迷惑を架けている……そう感じていました。でも、こっちへ来てからは、本当に生きていると感じている!」
三村は再び固い決意の表情になった。
「ぼくは帰りません! ここで、アラン王子として生きていきます!」
市川は宙に視線を向け、叫んだ。
「どうすんだ? 三村は帰らないと言っているぜ!」
──しょうがおまへん。まあ、三村はんがおらんでも、何とかなりまっさ。それは、方便ちゅうもんで……。
ごおごおと、風は大広間を荒れ狂う。真向かいから吹きつける風に、市川は目を半ば閉じざるを得なかった。
「市川君……。努!」
洋子が手を伸ばしてくる。市川は、洋子の手を握りしめた。
「宮元さん?」
「洋子でいいわよ……」
洋子が耳もとで囁く。新庄が二人を見て、妙な表情を浮かべた。
──さあ、あんたら、『タップ』へ御帰還や。ただし、あんたらの記憶は、消去させてもらいまっさ!
今度こそ、全員が唖然呆然となった。
「何だと?」「そんな勝手な……」「記憶を消すってのか……?」
〝声〟は、あっさりと答える。
──しゃあないやないか! この世界での冒険の記憶を持たれたまま帰られたら、わてが干渉した、ちゅう事実が残るやろ。それは、まずいよってな……。ほな、皆様がたも、ご苦労はん……。
記憶を無くす……。
市川は思わず、洋子の身体を引き寄せ、全力で抱き寄せた。
この思いも消えてしまうのか?
風は益々びゅうびゅうと強まり、市川は意識を薄れさせていった……。
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