第56話 或る夫婦の別れ
まだ若い女の人が、自宅で息を引き取ろうとしていた。
枕元には、これまたまだ若いご主人が泣きながら奥さんの手にすがりついていた。
「@#",☆>々:%……」
「A[→>¥々◆◁#……!!」
「泣かないで、あなた……」
「死なないでくれ、お前が死んだら俺は……!!」
言語の乱れた世界では、勿論お互いの意思疏通が出来ない。今際の際の会話もままならない。
病院も役立たずだ。
奥さんは病院よりも自宅で過ごしたいと絵で伝えて、こうして最期の時を迎えようとしていた。
骨の癌だという事だった。
当然の事ながら往診も出来なかった。
ご主人は泣きながら俺達に向かって言った。
「おい、何だか分からんが君達は俺達の言葉が分かるんだろ!? 俺の言葉を妻に伝えてくれ!!」
「勿論です。まず、奥さんは、貴方に対して泣かないでほしいとおっしゃっています」
それを聞いたご主人はグッと溢れ出る涙を必死でこらえたようであった。
魔法では、怪我の回復魔法や生き返りの呪文があるが、『病気』を治す事は出来ない。
悪魔や魔女には、『病気』というものが無いから。
俺達に出来るのは、最期の時を援助する事くらいだった。
「私、あなたに言わなければいけない事があるような気がするの」
奥さんは苦しげにうめいた。
「だけど、それが何だったのか思い出せない……」
「つらいだろう。無理に話すな」
奥さんにはこの言葉が理解出来ていただろうか? ご主人の気遣いが届いていただろうか?
しかし、俺達がその場所にいたという事は、ご主人か奥さんのどちらかが『虫』を飲んでいるからに他ならなかった。
俺はなるべく静かに呪文を唱えた。
「フォルスン アベルトロルテイル ベル・ゼブブ……」
ーーすると、奥さんの口元から小さな小さな『虫』が這い出てきた。
俺達が今まで見た事もないような、ささやかで小さな、いつもはあんなに不気味なのに可愛らしくさえ見える『虫』。
『虫』は奥さんの唇の上でほどけて、やがてシュワリと消えていった。
それを見ていたご主人が、俺達の方を向き、藁をも掴むように言った。
「おい、君達、今何か呪文みたいなのを言ったな!? 今のは、妻のーー空子(くうこ)の病魔が外に這い出たって事なんじゃないのか!?」
俺達は黙っている事しか出来なかった。
何度でも言う。魔法では、『病気』を治す事は出来ない。
「頼む、頼むからそうだと言ってくれ!!」
ご主人の目からまた新たな光が流れた。
ーーすると。
まるで苦しみがなくなったかのように奥さんがかすかに微笑んで口を開いた。
「……思い出したわ。私、あなたに秘密にしていた事があったの」
「秘密……?」
「ダンボールの中にある本を探してみてちょうだい。私達の初めてのデートの時、遅れてきた私を待ってくれている間にあなたが読んでいた本」
ご主人は首をひねる。
「ウフフ、やっぱり覚えてないのね」
「初めてのデート……? 本……?」
ご主人はまだ思い出せないらしかった。
奥さんが俺達に向けて言った。
「ねえ、お嬢さん達には何か不思議なチカラがあるんでしょう? なんたって言葉が分かるんですもの。きっとそうよね。お願い、この人に思い出させて。お願い」
「……分かりました。リリィ・ロッド! この者をいつかの場所へ戻せ!!」
ご主人は6年前にいた。
公園の噴水際に座って文庫本を読んでいるかつての自分が見えた。
ーー手にしていたその本は、ゲーテの『ファウスト』。第2部だった。
「あ……」
「思い出してくれた?」
ご主人は、急いで古い本の詰まったダンボールを漁り、思い出の品を見つける事が出来た。
そして本の間に何物かが挟んであるのを見つけた。
ご主人はびっくりした様子。
「え? ……金……か?」
「そうよ。私のへそくりよ」
奥さんは可愛らしく、いたずらっぽく微笑んだ。
文庫本の中には、半分に折られた封筒が挟んであった。封筒の中には10万円入っていた。
「その思い出の本の事を忘れたってあなたが言って、ちょっと喧嘩したじゃない。私悔しくて、それからあなたが思い出すまでへそくりしてやろうと思ってたの。役にたったらいいけど」
「空子……」
ご主人は泣きながら、顔をクシャクシャにした。
奥さんは静かに微笑みながら、最後の言葉を呟いた。
「こんな世界で、あなた一人でやっていけるかしら。……でも大丈夫ね。あなたは強いもの。愛してるわ」
今際の際は苦しみも和らいでいたようだった。奥さんは楽園へと旅立った。
楽園……。そうだろ? ゼウス。
彼女も被害者なんだ。俺はそう思った。
紗里子は泣いていた。
人の生き死にを見慣れた魔法少女でも、いつまで経ってもこういう事には慣れなかったのであった。
そして、皮肉な事に言語の乱れは終わろうとしていた。
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