第29話 時は流れ、移ろいゆく



 ――――


 その映像は、昨年度のインターハイ準決勝の様子だった。


 種目はソーサラーシューターズ。

 マリナ院の代表選手がフィールドを駆け巡っている。司祭服を模した制服に、十字架型のデバイスを手首に下げたその少女は、カラスが擬人化したファントムとともに空中から次々とクレーを撃ち落としている。


 それに相対するのは、オリエントの代表である龍宮クロアだった。


 クロアは銃身の長い拳銃型デバイスを使って、クレー射撃に応戦している。その精度は半ば異常なほどで、中央エリアをゆっくりと歩きながら、的確に射出直後のクレーを撃ち落としていた。その落ち着いた歩みは、余裕とともに相手にプレッシャーを与えていることだろう。


 そんな中、空を飛び回るカラスのファントムに、一つの影が迫っていた。

 袈裟を着崩したような、肌が赤黒い男だった。目元をバイザーで隠したそのファントムは、建物を足場にして飛び上がると、空中にいるカラスのファントムを勢いに任せて殴り飛ばした。


 龍宮クロアのバディ、遠見センリ。


 彼はカラスのファントムを地上に叩き落とすと、すぐさま着地して更に踵落としを叩き込む。そのたった二発で、相手のファントムは消滅を余儀なくされた。


 画面越しからでも分かる、相変わらずの強さ。

 二年半前、コウヤとテンカは、このファントムによって何も出来ずに敗退した。


 キサキの持つタブレットに頭をくっつけながら、固唾をのんでその後の試合の流れを見守る。片方のファントムが脱落した状況は、昨日の模擬戦を思い出すシチュエーションだ。こうなってしまえば結果は決まったようなものだが――意外なことに、この試合は龍宮クロアの敗北で幕を閉じた。


 聖マルグリット魔法学院、通称マリナ院は、宗教や信仰をもとにした魔法の研究を中心とした魔法学府である。


 いくつもの宗派が一堂に会するその学院内では、宗派による激しい争いが常に起こっており、オリエントとはまた違った意味で派閥争いがなされているらしい。そんな学院から排出される代表選手というのは、歴戦の猛者であると言える。


 朱雀院すざくいんカトリーナ


 当時二年生の彼女は、この年のシューターズの優勝者でもある。また、今年の一月にあったユースカップでも、マリナ院の代表選手として出場しているような強豪選手だ。


 そんな彼女は、龍宮クロアとの試合において、あえて自身を攻撃させるという方法でマイナス得点を引き出し、勝利にこぎつけていた。


 おそらくは何かしらの魔法式が使われていたのだろう。クロアは途中でそれをレジストして踏みとどまっていたが、バディである遠見センリが不意を討たれて攻撃を繰り出してしまっていた。

 センリの一撃はカトリーナの霊子体を粉々に砕き、一瞬で消滅させる。その一瞬前に彼女は魔力弾を放っており、ファントム射撃点ももぎ取っていた。


 昨日模擬戦をしたヨハン・シュヴェールトに比べれば、遠見センリの立ち回りは大雑把だったため、不用意な攻撃を誘うことが出来たのだろう。

 しかし――得点差を計算しつつ、ファントムとあえて事を構えるその胆力は、さすがと言えるものだった。



 ―――――――





「と、まあ。これが、去年のインハイの準決勝の試合映像なんだけど」

「これ、放送の映像か?」

「ううん。自分で撮った。霊子庭園の外からのアクセスだから、どうしても全部の見せ場は追いきれてないんだけどね」


 そう言いながら、はにかむようにキサキは頬を掻く。


 場所は公園のベンチ。

 どこかの店よりは外の方がゆっくり話せるだろうということで、三人は街中にある公園に寄っていた。


 時刻は六時前。日も長くなりまだまだ周囲は明るく、そばの道には人がたくさん歩いているのだが、公園内だけは閑散としている。

 それもそのはず、公園に到着するやいなや、キサキと協力して簡易的な結界を張ったからだった。人が寄り付かない程度の簡単な意識結界だが、無許可の魔法行使なのであまり長く続けると警察が飛んでくるかもしれない。


 そんな中、三人は一つのタブレットを囲って試合の映像を見ていた。


「クロアさんだけじゃないよ。去年インハイに出場した選手の分は、タカミと手分けしてできる限り撮影している。学内の予選についても、めぼしい生徒の試合は必ず一回は記録するようにしていたんだ」

「にしても、この容量……何試合分入ってるんだよ」


 キサキが持ってきた記録メディアは大容量で、軽く中を覗いただけでもフォルダいっぱいに動画が入っている。一日や二日で集められる量ではない。


 しかも、それだけではなかった。


「こっちには、生徒とバディのステータスと、分かる限りの戦法の記録。あたしの個人的な考察だから間違っている部分もあると思うけど、参考にはなると思う」


 事前に公開されているステータスのデータだけでなく、得意な魔法や、取っている専門課程、ファントムとの連携のパターンなど、記録の内容は多岐にわたっていた。おそらく、これを学院側から提供してもらおうとしたら、かなりの金額がかかるだろう。


 それを、キサキはコウヤに渡そうとしていた。


「来週からのバディ戦でも、対戦相手に絞って対策を取れば今からでも十分活用できると思う。だから、コウちゃんに使って欲しいんだ」

「でも……これ、キサキが集めたもんだろ? そんなの、俺がもらって良いのか?」

「いいんだよ。だって、今のあたしが持ってても仕方ないもん」


 そう言いながら、キサキはどこかさびしそうに目を伏せる。


 確かに、データを集めていた頃ならいざしらず、目の障害によって再起不能になった今の彼女では、このデータを活用することは出来ないだろう。


 けれど――

 それを聞くと、キサキは曖昧な表情を浮かべながら答えた。


「習慣って怖くてね。もう必要ないって分かってるのに、自然と偵察しちゃってる自分がいるんだ。未練って言うほど強い感情じゃなくって、ほんと、反射的にね」


 キサキはタブレットをギュッと握りしめる。小刻みに揺れる拳の震えは、どんな感情を映し出しているのか。


 その様子を見ながら、コウヤはポツリと呟いた。


「なんでだ?」


 胸のうちに渦巻くのは、割り切れない感情だった。


 怒りとも悲しみともつかない、飲み下せない感情が渦巻いている。

 キサキのこの提案は、言ってしまえば選手であることを放棄したものだ。だからこそ、腹立たしいし、悔しい。


 その気持ちは、二人にも伝わったのだろう。

 コウヤの言葉を代弁するように、テンカが尋ねた。


「キサキ。わたくしも疑問ですわ。何故貴女は、今になってこんなものを渡してくるんですの?」


 その問には、友人としてではなく、選手としての立場からの意味が込められていた。


 もちろんこの提案は、キサキの好意からのものだと言うのは十分に理解している。けれども、コウヤにとって比良坂キサキという少女は、友人であるとともに常に意識し続けた好敵手でもあるのだ。だからこそ、彼女から戦術の要とも言える情報を譲られるのは、軽々に見過ごせる問題ではなかった。


 ちょっと対戦相手についてアドバイスを貰う、なんて話とは全然違う。


 対戦者の考察や戦術の考案を無条件に渡すというのは、もはやプレイヤーとしての財産を譲るに等しい行為だ。

 ウィザードリィ・ゲームが個人競技である以上、いずれ対戦する可能性のある相手には、伏せなければいけない情報というのが存在する。


 研究を明かすということは、手の内を明かすことにつながる。



 ――思い出すのは、アメリカで龍宮ハクアに指導を受けた時のことだった。


 ハクアは、本格的にコウヤの指導をすると決めた時に、こう宣言した。


『これからしばらく、。だから、私ができることは、全部できるようにしてあげる』


 あの時は上達を優先にしたため、なりふり構わずにあらゆる手段をとった。ハクアもそれを承知で、あらゆる手を尽くしてくれた。

 ハクアが実家や武者修行で得た知識は全て教えこまれたし、考え方や感性について共有し尽くした。互いの手の内はすべて晒し、その上であらゆるパターンを試し続け、それを実践に投入した。


 そうした中で素人だったコウヤは実力をつけたが、逆にハクアは研鑽してきた技術の殆どを


 今、コウヤはシューターズに置いてハクアに勝ち越している。


 それは、彼が実力をつけたというのも確かだが、それ以上に、ハクアの手の内を理解してしまっているというのが大きい。


 彼女が修行の前に『敵にならない』とわざわざ宣言したのは、敵対しないという意味ではなく、という意味だったのだ。


 それを理解したときには、コウヤはハクアにシューターズで勝ち越すようになっていた。

 だから、コウヤはハクアとの約束を守って、関係を一度清算してオリエントに復学した。


 もしまたハクアと対等に戦いたければ、それぞれ別の道を歩むしか無い。ハクアとの距離感はとても心地の良いものだったが、その関係を続ける限り、コウヤは二度と全力のハクアと勝負することが出来ないだろう。


 その決意を聞いた時、ハクアは驚きに目を丸くした後、泣きそうな顔で笑いながら言った。


『せいぜい頑張りなさい』


 それは、何よりの激励だった。


 ハクアにそんな選択をさせたことを、コウヤは後悔していた。結果的に実力をつけて強くなったからこそ、ハクアに対して負い目を感じてしまうのだ。



 もしコウヤが一人で強くなれていれば――ハクアは、あんな決意をしなくてよかった。


 もしキサキも同じような決意のもとにデータを渡すというのなら、その理由を問いたださないわけには行かなかった。


「キサキ。どうしてアドバイスじゃなくて、データごと渡すようなことをするんだ? その意味がわからないお前じゃないだろ?」

「……はは。ほんとに、コウちゃんは競技者になったんだね」


 コウヤの真剣な問いに、キサキは諦めたような笑い声を漏らす。

 彼女は一度顔を伏せた後、気持ちを落ち着けるように小さく息を吐く。それから、眼鏡の位置を調整するように、何度かピンクの縁を触った。


 そうして、意を決して顔を上げた彼女の表情は、どこか決意したものだった。


「コウちゃんはさ。認識学教師の明里あけさと先生って知ってる?」

「一個、呪術史初級の講義を取ったことがあるくらいだ。その明里先生がどうしたんだよ?」

「昨日ね、偶然見かけちゃったんだ。その明里先生と、神夜先輩が密会してたのを」


 眼鏡越しに片目を覆うようにしながら、キサキは淡々と語る。


「厳重に結界を張って、周りに聞こえないようにしてたんだけど、あたしの今の『眼』はそういうのを見通せるんだ。だから、全部聞いちゃったの。その二人が、コウちゃんをバディ戦からリタイアさせる相談をしている所を」


 最初に意識結界を公園に張ったのは、どうやらこの話をするためのようだった。

 キサキは思いつめた表情で真剣に訴えかけるように言う。


「バディ戦で組まれた対戦相手は、ほとんどが自然派の息がかかった相手だよ。スケジュールが詰め込まれている日には、消耗させるために全力で時間稼ぎに来ると思う。神夜先輩自身もコウちゃんとの試合が組まれているし、対策を立てるに越したことはない。それに――神夜先輩は、現実での襲撃計画も提案していた。明里先生は、それは最後の手段だって言って難色を示していたけど」

「襲撃、か」


 思い出すのは、五月に霊子庭園内に拉致されて攻撃されたときのことだ。


 結局その襲撃の主犯が誰だったのかはまだ分かっていないが、チハルの懸念や、今のキサキの話を聞くに、神夜カザリが一枚噛んでいる可能性は高いだろう。そこに教師まで絡んでるのだとすると、厄介なんてもんじゃない。


「……そっか。だから昨日、『無事か』なんて聞いてきたんだな」

「うん……」


 キサキは深刻そうな顔で顔を伏せる。


 それだけではない。公園に結界を張りながらも、周囲の人通りが多い場所を選んだのも、襲撃を警戒してのものだろう。ひと目さえあれは、たとえ襲撃を受けたとしても証拠を押さえやすい。今日のデートで、彼女は一日中気を張ってきたのだ。


 それだけの覚悟で、キサキはコウヤの力になろうとしている。


「あたしに出来るのは、試合に協力することくらいだから。もう、コウちゃんが傷ついたりするのは見たくないよ。だから、お願い。あたしに協力させて……」


 キサキは弱々しく言いながら、タブレットごと差し出してくる。


 助けてもらうのはコウヤの方だというのに、これでは立場があべこべだ。

 もはや、つまらないプライドを抱えているのは自分だけのようだった。


「……ありがとな、キサキ」


 言いながら、コウヤは大きく息を吐いて空を見上げる。


 今のコウヤにとって、シューターズは生活の中心にあるといっていい。


 それは、キサキにとっても同じだったはずだ。

 彼女ほど、ソーサラーシューターズという競技に入れ込んだ人物を他に知らない。コウヤにとって、比良坂キサキという少女は憧れであり目標だったのだ。


 だからこそ、彼女がそんな風に、研究データを渡してもいいと言い出したことに驚いた。

 その真意を知った今、あとはコウヤ自身がどうするかだけだった。


「……本当に、いいのか?」


 念を押すように、コウヤは繰り返して尋ねる。


「俺だって、曲りなりに大会優勝なんかしてない。選手研究の重要性は理解しているつもりだ。キサキが集めたこのデータは、自分のために集めたものだろ? それを誰かに――俺なんかに譲って、本当に良いのか?」


 そうやって尋ねるのは、ハクアの時の後悔を繰り返さないため。そして何より、キサキ自身の気持ちに迷いがないかを確認したいからだった。


「なあ、キサキ」


 コウヤは必死に感情を堪えながら尋ねた。


「お前は――もう、シューターズを諦めたのか?」


 コウヤは端的に尋ねる。

 俺はもう、お前のライバルではないのかと。




※ ※ ※



 同時刻。

 自室で休むとある少年のもとに、一通のメールが届いた。


「誰だ? このメール」


 メールの差出人の名前を見て、少年は首をかしげる。学内ネットのアドレスを利用したメールは、学籍番号と名前がセットでついてくる。その名前自体は、下級生のもので見覚えがあるが、しかし面識はない相手だった。


 険しい表情でメールの文面を見る少年に、バディであるファントムが尋ねる。


「どうした、そう剣呑な顔をして」

「……なあ。お前はどう思う?」


 メールの文面を見せると、そのファントムは「カカカ!」と笑い声を上げた。



※ ※ ※




 お前はもう諦めたのかと。

 その質問は、再会してから今日まで、ずっと避けてきた言及だった。


 そこをはっきりさせてしまうと、鏑木コウヤと比良坂キサキの関係は大きく変わってしまう可能性がある。だからこそ、できれば向き合いたくなかった事実。


 試合中の事故で眼に後遺症を患ってしまったキサキ。

 海外での経験で一気に実力をつけて帰国したコウヤ。


 その関係は、もはや目をそらすことの出来ない要素となって二人の間に横たわっている。


「…………」


 そのコウヤの問いに、キサキはしばらく黙っていた。

 やがて、空元気のように出された声は、少しだけ震えていた。


「困っちゃうよね、ほんと」


 声の震えは、徐々に収まっていく。

 感情の波が落ち着いていくように、キサキの声はどんどん穏やかになっていった。


「諦めるの? とか、辞めちゃうの? って、みんなから何度も聞かれたんだ。そりゃあさ、眼がこんな状態なんだし、続ける訳にはいかないじゃん? だから、本当は諦めなきゃいけないんだろうけど……諦めるってのが、あたしにはわかんないんだ」


 それはおそらく、彼女の本音なのだろう。


 キサキは困ったように笑う。

 それは、迷子の子供が心細さを誤魔化すような笑みに見えた。


「だって、気がついたらシューターズのこと考えてるんだよ? 諦めるなんて、考えたこともなかったし、言われて初めて『諦めなきゃ』って思ったくらいだよ。でも、諦め方なんてわからなかった。ただ、出来もしない競技のことをずっと考えて、対策を立てて、戦術を組んで――唯一の不満は、それを試せないことだけだった」


 辞めようなんて思わなかったし。

 諦めるなんて考えもしなかった。


 あまりにも生活に根付きすぎた習慣は、もはや血肉の一部のように体に染み付いてしまっている。振り払おうとしても、切り離そうとしても、積み重ねてきたものは常に意識の片隅にひっそりと溶け込んでいる。


 その感覚は、コウヤにとっても他人事ではなかった。


「……分かるよ」


 今は何の異常もない左腕を思わず触ってしまう。

 五年前、当たり前だと思っていたものを奪われて、自暴自棄になった。小学六年生の冬、シューターズに出会うまでのコウヤは、出来もしない野球に囚われ続けていた。


「それが当たり前だったんだもんな。そりゃあ、忘れるわけないよな」

「うん……そう、なんだよ」


 二人の声は震えていた。


 湧き上がる感情が同じかどうかわからない。

 けれども、二人にとってその感情は共有できるだけの重みがあった。

 まるで好きだった事実だけを遠い夏の日に置き去りにしたような空虚感。胸にポッカリと空いた穴は、いつまでも埋まることはない。


 コウヤは、シューターズという競技に出会って夢中になった。

 けれど、それは野球を諦めたからではない。諦めるには、あまりにも記憶が鮮明すぎる。ジジジリと照りつける太陽に、熱に揺れる空気。にじむ汗にカラカラに乾いた喉。今でもあの小六の夏のマウンドが夢に出るくらいに、野球をやっている自分というのは身近なのだ。


 ああ、だから。

 たとえ二度と競技に参加できないとしても、それと繋がり続けたいと思う気持ちは、痛いほどよくわかった。


「諦めたわけじゃない、よ」


 歯を食いしばり、涙をこらえながら、キサキは言う。


 競技を禁止され、魔力を使うのにも神経を使う現状を考えると、それはあまりに空っぽな言葉だ。その言葉がどれだけ空虚なものなのかは誰よりも彼女自身がよくわかっていることだろう。


 でも、それは決意だ。

 また一度立ち上がってみせるという、彼女の虚勢混じりの覚悟だった。


「だからさ。せっかく集めたんだから、有効活用したいなって思うの。それに、コウちゃんのことは応援しているから、どうせならコウちゃんに勝って欲しいし」


 涙を振り払うように、空元気でいうキサキを見て、コウヤは頭をかいた。


「悪い。好意を無下にするようなことを言っちまって。――そういうことなら、遠慮なく使わせてもらうよ」


 ここまで腹を割って話したのだから、これ以上の問答は不要だった。


 コウヤはタブレットからデータの入ったメモリを譲ってもらう。


 その様子を、テンカがどこか満足そうな表情で見つめていた。気のおけない関係でありながら、どこかよそよそしかった二人が、ようやく通じ合ったのが分かって、昔から二人を知っている彼女は安心したのだった。



 ※ ※ ※



 それは、三人全員が気を抜いたタイミングでもあった。


 コウヤとキサキが張った意識結界は、簡易的なものだが比良坂家の使う特殊なものである。人の意識を反らすことを目的としたそれは、本来は『展開している事自体』を気づかせないたぐいのものだ。


 その弱点は、長時間の展開。

 そして――術者の気の緩み。


 コウヤも、キサキも、そしてテンカも――誰一人として、その影の接近に気づかなかった。





 その声は、ベンチに座るコウヤたちの目の前から聞こえた。


 ヌラリと立ち上る影法師。日本人形のように美麗なその影は、しかし黒塗りの影になってその外見を認識できなくなっている。年頃の少女のような背格好のその影は、まるで気配を感じさせずに、唐突に目の前に現れた。


 そして――その黒塗りの右手を振り上げた。


「あ――」


 一瞬早く、テンカが気づいた。


「――ぶない、コウヤ!」


 立ち上がりざまに着ていた衣服を全て情報体に分解し、いつもの白装束を纏う。

 彼女の霊具である『白雪湯帷子しらゆきゆかたびら』。冷気を生むだけなら不要だが、これがなければ、テンカは氷雪を自由に操ることが出来ない。その精度を気にしての一瞬の判断だった。


 そこから冷気を噴出させるまで、一秒もあればこと足りる。

 しかし――コンマ秒の差で、それは叶わなかった。


「よそ見をしたな、雪女」


 それは、全身に包帯を巻いたミイラ男だった。


 横から現れたミイラ男によって、テンカの体が大きく吹き飛ばされる。

 包帯を束ねて作った巨大な腕が、彼女の細い体を乱暴に殴り飛ばしたのだ。テンカはそのまま、公園の端にある公衆トイレに叩きつけられた。


 ミイラ男は、包帯を回収しながらゆらりとその場に立つ。


「テンちゃん!」


 状況についていけず、驚きの声を上げるキサキ。

 そこに、最初に現れた影法師が迫る。


「――『四季折々ときはながれ千変万化うつろいゆく』『花鳥風月』――『風化』」


 影の腕には、長物が握られていた。

 夕刻にきらめく白銀は、鋭利な日本刀だった。


「キサキ!」


 かばうように、コウヤがキサキの体を突き飛ばした。


 影法師の前に飛び出たコウヤは、瞬時に脳裏に魔力弾の魔法式を組み立てる。デバイスを通さない素の魔力弾だが、その生成速度は直接殴るよりも遥かに早い。


 だが――その程度の魔力弾では、ファントムには傷一つ負わせることが出来ないのが、覆しようのない事実だ。


 魔力弾が影法師に着弾するが、のけぞること無くその影は腕を振るう。

 そして――


「ぇ」


 二の腕から切断された左腕が宙を舞う。


 瞬間的に全身から血の気が引き、それとともに切断面から赤い血が噴出する。

 大量の血液が飛び散り、意識が急激に遠くなる。


「こ……コウちゃん」


 その様子を、起き上がったキサキはほうけたような顔で見上げた。


 撒き散らされた血がキサキの顔に降りかかる。


 左腕。

 コウヤが野球をやめるきっかけになった、左腕。

 切断され、血が舞う。赤、どろり、ぬめる、赤い、こびりつく、鉄さびの匂いが鼻をつく。


「あ、ぁあ……」


 フラッシュバックする過去の記憶。お前が悪い。殺し合いをする親族。お前さえ居なければ。飛び散る血。黒ずみ、砕けて死んだ伊賦夜坂の男。侵食する呪い。死を撒き散らす眼。風化する景色。弱体視。もろく砕ける肉体。赤い血。ドロリと手に張り付く、腐食した肉――



「い、いやぁあああああああああああああああああああああ!」



 コトリ、と。

 地面にコウヤの左腕が落ちた。




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