第一章 鏑木コウヤの帰還

第1話 約束の時 十六歳 春



 セットしていたアラームが鳴るのを聞き、洗顔中の顔を慌ただしく拭う。


 帰国して二日が経った。


 仮の住まいであったホテル暮らしも今日までで、荷造りもバッチリ。チェックアウトの時間まで余裕がある。時差ボケも問題なかったものの、新学期に遅刻するわけにもいかないので、念のためアラームは十分置きに予約してある。

 少し早めに起きることが出来たので、余裕を持って登校できるだろう。


 と思ったところに、買ったばかりの携帯端末が着信を主張し始めた。


 着信相手の名前を見ると、『龍宮ハクア』と表示されている。


『ハロー、コウヤ。二年ぶりの日本の居心地はどう?』


 電話越しに、軽快な声が響く。

 数週間ぶりの龍宮ハクアの声は、この二年で慣れ親しんだものだった。


「快適も快適、最高だよ。やっぱ祖国の空気はうまいな」


 気安く答えながら、コウヤは電話片手に登校の準備を進める。と、用意したはずの靴下が見当たらない。しかたなく、荷物ケースをひっくり返すハメになる。


 チラチラと時間を確認しながら、コウヤは電話に向けて文句を言う。


「それよりお前、この朝の忙しい時間にかけてくんなよ。時差の事忘れたのか?」

『時差? だって今、そっち夕方じゃないの?』

「バリバリ朝だよ。今から登校するとこ」


 とぼけたようなハクアの回答に、若干乱暴に返す。

 すると、少しだけ考える時間を取った後、ハクアは素直に謝ってきた。


『ドジッたわ。ごめん、私今、ロンドンなのよ』

「ロンドン? なんでまた。こないだまでロスだっただろうが」

『仕方ないじゃない。アンタもいなくなるんだし、ロスに居続ける理由なんてなかったんだもん。魔法士のライセンスも手に入ったし、また武者修行の旅でもしようかなって思って』


 きまりが悪いのか、言い訳を募らせるハクアの様子に思わず失笑する。声色こそ不機嫌そうだが、それが彼女なりの甘えであることは、この二年でよく分かっていた。


「ジュンさんは知ってんのか? またひとりで無茶してんじゃないだろうな」

『大丈夫。ちゃんとジュンも一緒よ。……心配しなくても大丈夫。ちゃんと親類の所に泊まってるし、定期連絡も忘れてないわ。そうじゃなかったら、こうして電話なんてしてないでしょ。私だっていつまでも子供じゃないんだから、程度はわきまえてるわよ』

「……とか言いながら、年末にスラム街に単身で乗り込んだのを、俺は忘れてないぞ」

『アレはそもそも、あのキチガイ女に関わったアンタが原因じゃない。私は悪くないわ』


 相変わらずな物言いに、やっぱり変わってねぇじゃないかと笑う。


 靴下を履き、一通り荷物もまとめ終わった所で、時間を見ると八時過ぎだった。

 まだ余裕はあるが、慣れない通学路になるので早めに出ておきたい。


「じゃあ、急がないといけないから、そろそろいいか? 詳しいことなら夜……えっと、ロンドンなら、時差は八時間だっけか? そっちが夕方くらいにかければいいか?」

「あ、待って。言わなきゃいけないことがあるのよ」


 どうやらちゃんと本題があったらしく、慌てたようにハクアは言った。


、どうもオリエントに入学したみたい」

「……マジ?」

「マジ」


 二人の間で、名前を言うのを憚れるほどの女と言えば、一人しか居ない。


 しかし、彼女絡みの面倒事はとりあえず三ヶ月前に収束したはずだ。すでに彼女にはそれほどの影響力はないはずだが……。


「私も又聞きだから詳しいことはわからないんだけど、謹慎が解けたとかで、実家に出戻りになったみたいよ。どうもお家問題があって、そこに上手く入りこんだみたい」

「ってことは、今度は家の権力使ってくる可能性があるのか、あいつ」

「その可能性もあるけど、何よりあの女の怖い所はその精神性でしょ。用心しなさい。ただでさえアンタは、流されやすいんだから」

「それだけ聞くと、主体性のないクズみたいだが……まあ、目をつけられたことを考えると否定はできないな。わかった。気をつけるよ」


 この二年間のあれこれを思い出しながら苦笑いする。コウヤとしては平和に生活をしたいのだが、どうも周りがそれを許してくれないのだから仕方ない。

 そこで話は終わりかと思ったが、まだハクアは言いたいことがあるようだった。


「あと、それと……」

「うん? なんだ。まだあるのか」


 聞き返すと、ハクアにしては随分とはっきりしない物言いが返ってくる。


「……その。別に、会えなかったら言わなくても良いんだけど」

「なんだよ、歯切れ悪いな。良いんなら切るぞ」

「ま、待ちなさいよ。……はぁ」


 気持ちの整理でも付けたのか。

 非常に言いづらそうにしながら、ハクアはその一言を言う。


「兄さんに会ったら、よろしく伝えておいて」

「りょーかい。首を洗って待ってろって伝えとく」

「……もうそれでいいわよ」


 軽口を叩き合ってから、電話を切ろうとする。

 そこに、不意打ち気味に最後の言葉が送られた。


「それじゃあ頑張って。応援してるわ。……この私に、んだから、無様な真似はやめなさいよね」


 通話がぶつんと切られる。


 余韻もへったくれもないが、耳元に残った応援の声だけでも、気分が良くなるのだから、男というのは得だと思った。


 八時十分。

 登校の時間だった。



※ ※ ※



「本日から復学することになりました、鏑木コウヤです。よろしくお願いします」


 オリエント魔法研究学院の教室に、実直な声が響く。

 階段状の講義室には、2年3組の生徒たちがまばらに座っており、深く礼をしたコウヤに向けて、パラパラと拍手を送る。


 講堂を見上げると、五十人近い生徒がこちらを見下ろしている。もう一年近く魔法学府に通っている生徒たちは、制服を着こなし、一端の魔法士としての自覚を持った顔つきをしている。


 それらを見上げながら、ついにここまで戻ってきたのだと、コウヤは実感した。


「鏑木コウヤくんは、入学こそしていましたが、今までご実家の都合で海外に居ました」


 クラス担任である伊勢いせ木伊香きいか教諭が、生真面目そうな口調でそう言う。


「一年間のブランクがありますので、初めのうちはわからないことも多いと思います。皆さん手助けをしてあげてください」


 それだけで、コウヤの紹介は終わった。


 オリエントの授業形式は、選択単位制だ。

 クラスという枠組みはあるものの、それはあくまで集団行動のためのクラス分けであり、この後は、各々選択した授業を受けに行く。


 バラバラと散り始めた生徒たちの横で、伊勢教諭がコウヤに話しかけてくる。


「初日の講義は、ほとんどが講義の進め方に関するオリエンテーションです。あちらのハイスクールと基本的には変わらないと思いますが、困ったことがあれば言ってください」

「分かりました。と言っても、自分が居たのは日本人学校だったんで、ここまで自由な感じじゃなかったですけどね」

「そうですか。なら、なおさら誰かについて回ったほうが良いでしょう。あとで、委員長に相談をしておきます。――それと」


 ちらりと視線を教室の外に向けてから、伊勢教諭は不愉快そうに息を吐いた。


「後ほど、教頭から話があるそうです。手続きに関してとは言っていましたが、大方は嫌味だろうと思いますので、軽く聞き流してもらって構いません」


 教師とは思えない言い方に、コウヤは思わず吹き出す。


「あはは。それ、先生が言っても良いんですか?」

「本音を隠しても仕方ないでしょう。少なくとも、好ましいものではありませんしね」


 生真面目そうな顔のまま、伊勢教諭は小さく嘆息をこぼしてみせる。


「とは言え、あなたが特別扱いを受けているのは確かなのです。その分の苦労を背負うのは、義務であることも自覚してください」


 それでは、と。伊勢教諭は会釈をして去っていった。


 年齢的には、四十代くらいだろうに、風格としては大御所の雰囲気がある女性教師である。

 復学までの手続きに際して、彼女にはかなり世話になった。その仕事ぶりから、かなり信用のおける教師であることは伝わってきているので、こちらも期待には答えなければいけない。


 やれやれと思いながら、まずは自分が選択するべき授業へ向かう。


「こっちはやっぱり温かいな」


 気候の違いを肌で感じつつ、慣れない制服に慣れようと努力する。


 オリエント魔法研究学院の校舎を見るのは今日が初めてだ。

 しかし、そこを歩く生徒たちは、誰もが日本人の同世代ばかり。その光景に、ようやく実感が湧いてくる。


「戻ってきたんだな……日本」


 ――日本を発ってから、二年が経った。

 十六歳。

 魔法学府高等学校第二学年という所属で、コウヤは今ここにいる。


「一年遅れちまってるからな。なんとか取り返さないと」


 そう自分に言い聞かせるように、気合を入れて、彼は授業に向かった。



 ※ ※ ※



 親に連れられ、海外に行っていた二年間。

 コウヤにとって、その二年は怒涛の日々だった。


 当初は、ちゃんと一学年から入学できるようにする予定だった。


 問題だった肘の治療も、予定通り一年で終わった。

 あとは経過観察だけだったので、常に医師のもとにいつづける必要はなかった。だからこそ、高校からは日本の魔法学府に通うために、オリエントの入学試験を受けたのだった。


 それ自体は合格出来たのだが、そこで問題が二つ浮かび上がってきた。


 まず、親との関係である。

 前々から相談はしていたものの、いざ合格が決まると、学費や生活費の面で騒動になった。

 親としては、まさかそこまでして魔法学府に通いたがるとは思っていなかったそうだ。戦争時代を経験している親からすると、息子が魔法界に嵌り込むのは危険だという意識もあったらしい。散々ひどい言葉を投げかけられた。


 自分の主張が話半分に聞かれていたことには腹を立てたが、怒ったところで話は解決しない。


 折衷案として、学費だけを出してもらい、寮費や生活費などは自力でバイトして稼ぐということで納得してもらった。

 学費にしても、実を言うと入試の結果がかなり良かったため、半額免除があったのも、かなり大きかった。


 これでなんとか通えると思ったところで、更に困った問題が、学費の入金期限が過ぎてしまっていたことだった。

 海外と日本の間にある反映時間の差のせいか、入学金が上手く振り込まれなかったのだ。


 これでは、入学したくても入学できない。更に間が悪いことに、引き落としがされなかったことを理由に、親は手のひらを返して、コウヤのオリエント行きにまた反対し始めた。


 こうなると、もう自棄である。


 コウヤはかつてのつてである久良岐魔法クラブに連絡を取り、更には久良岐家まで巻き込んで、なんとか入学資格だけは剥奪されないように動いた。

 結果的に、休学という形で対処してもらい、籍だけを置くことに成功した。


 そこからは、お金の問題である。


 親が資金を出さないというのなら、自分が全て負担すると言い切り、資金繰りに奔走した。

 バイトを掛け持ちしたり、賞金の出るウィザードリィ・ゲームの大会にいくつもエントリーし、一年間でなんとか入学金と一年分の学費を稼いでみせた。


 それを担保に奨学金を借り、そうして一年遅れでようやく、日本に帰ることができたのだ。


「まさか戻ってくるのに二年かかっちまうとは思わなかったけどな……」


 おかげで、親ともほとんど喧嘩別れのような形で帰国していた。


 一年を無駄にしたのはかなり大きい。

 形式こそ復学という形なので、学年は二年であるが、取得単位は圧倒的に足りない。一応、休学中でも取れる単位は、その都度学費を納入して通信制で取らせてもらったが、それにも限度がある。


 ただその中でも、実技系の単位に関しては、海外で参加したウィザードリィ・ゲームの大会での実績が評価されて、一部を取得できたのが助けとなった。それがなければ、復学のための単位も足りず、退学になっていただろう。


 そんな、裏道すれすれを縫うようにして、なんとかこぎつけた復学だったため、もちろんいい顔をしない者もいる。


 例えば、教頭がそうだった。


 言われたとおりに、中休みに職員室へと行くと、何度か聞かされた嫌味をまた言われた。


「魔法学府において、転入などというのは前代未聞なんだがな」


 オリエントの教頭、嶽本たけもと佐京さきょうは、粘着質そうな初老の男性だった。

 厭味ったらしく見上げてくる教頭に対して、コウヤは努めて軽い調子で答える。


「あはは。違いますよ教頭先生。転入じゃなくて復学です。ちゃんと一年、所属してましたし」


 値踏みするようないやらしい目が、舐め回すようにコウヤの全身を見ている。


 聞くところによると、コウヤの復学を最後まで反対したのがこの男だそうだ。

 一応は、正式な手続きを踏んでここまで来たコウヤだったが、その時に久良岐比呂人に頼んで権力などを使ったところもあるので、そうしたところが気に喰わないのだろう。


 じろりと睨めつける視線で、教頭はコウヤに嫌味を言う。


「貴様のように、未熟なうちから謀略を尽くす男は、すぐに手痛いしっぺ返しを食らうことになるぞ。せいぜい気をつけるんだな」

「やだな。別に悪いことなんてしてませんって。自分はできる限りのことをしただけです」

「ふん。それが姑息だと言いたいのだ」


 もはや敵意すら感じる視線で、睨めつけるように教頭はコウヤを責める。


「それと、海外においては、随分ゲームで活躍したらしいな。学校をサボって賞金稼ぎとは、いい度胸だ」

「それも誤解ですよ、先生。学校に通えない分、自己研鑚を詰んだだけのことです。この学校は、実力主義と聞いていましたから」


 歯の浮くようなセリフをスラスラと述べてみせるが、半ば事実である。


 オリエントは、日本最大の魔法学府ということもあって、魔法の大家や、各界の名士の子どもたちが多く集まる。事前に高度な魔法教育を受けた子たちも多く、ここに通うだけで一定のステータスとなるくらいだ。


 だが、そんなオリエントでも、毎年行われるウィザードリィ・ゲームのインターハイでは、優勝争いで負けることも多い。上位入賞は圧倒的に多いのだが、ここぞというところで負けてしまう辺りが、皮肉である。


 だからこそ、そんな学校の教頭に向けて、コウヤは胸を張って答えた。


「安心してください。他の競技ならともかく、シューターズなら、結果を出してみせますから」

「ふん。その言葉、よく覚えておくぞ。鏑木」


 そうして、教頭との面談は終わった。


 職員室を出ると、どっと疲れが襲ってくる。


 外面はよく見せていたものの、内心ではかなり緊張していた。せっかく掴んだチャンスを、こんなところで不意にしてたまるか。



 ※ ※ ※



 時間割を見ると、次の講義の時間まで少し時間があるようだった。


「さて、と。次の時間は……空き時間か。どうすっかな」


 こうした空いた時間は、自主鍛錬に当てるか、選択式の教養科目を取ることになるのだが、まだ学内に慣れていないため、どうすべきか考え込む。


 どうするべきかと悩んでいるところに、声をかけられた。


「よ、転校生。道に迷ったか?」

「転校生じゃなくて復学だよ……えっと」


 反射的に教頭へしたものと同じような返答をしてしまいながら、振り返った。


 そこに、見知らぬ男子が立っていた。

 スラリとしたメガネ男子。顔つきは生真面目そうだが、ニヤついている様子を見ると、冗談が通じるタイプのようだ。


 反応に困っているコウヤに、メガネ男子は楽しそうに笑った。


「クラスメイトだよ。佐奇森さぎもりヤナセ、クラス委員をやってる。よろしくな」

「鏑木コウヤだ。悪い、まだ名前と顔が一致してなくてな。よろしく」


 差し出された右手を握り返す。

 痩せている割にガッシリとした手のひらだった。


「伊勢ちゃんに頼まれたんだ。鏑木の案内をしてやれってな。講義が詰まってて挨拶が遅れちまった。悪い」


 爽やかに謝った後、「それで」と、興味深そうに聞いてくる。


「半日うちで過ごした感想はどうだ? 何か困ったこととかないか?」

「実は右も左もわかんなくて困ってた」


 肩をすくめて見せながら、コウヤは素直に弱音を吐く。


「実技室とトレーニングルームは別だし、実技と言いながらほとんど座学なのも納得がいかない。選択科目の申請方法も面倒だ。あと……」

「あと、なんだ?」


 不思議そうに小首をかしげるヤナセに、コウヤはいたずらっぽく言う。


「クラス委員って言ったら可愛い女子でも来るかと思ってたから、拍子抜けしたくらいだな」

「はは! そりゃあ期待を裏切って悪かった!」


 コウヤの回答に気を良くしたのか、愉快そうに笑いながら、彼は気安く肩を組んでくる。


「詫びというわけじゃないが、安心してくれ。副委員は女子がやってるよ。すぐにでも紹介してやるから気を悪くするな」


 どうやらかなり話の分かるやつらしかった。


 ヤナセとは、ものの数分で意気投合することができた。

 コウヤ自身、人間関係ではアメリカ暮らしでかなり揉まれたものだが、ヤナセはさらに人好きする性格のようで、コミュニケーションを取るのが楽だった。


 ヤナセの助けを借りて、コウヤはそこから残りの半日を有意義に過ごすことが出来た。選択単位制である以上、クラス単位での付き合いはあまりないそうだが、ヤナセのお陰で共通の友人の作ることが出来た。


 学内を歩く間、何度か『彼女』の姿を探そうとしたのだが、広い敷地内で限られた移動時間だったので、初日は会うことができなかった。


 そうして、初日の講義が一通り終わり、あとはクラブ活動や自習時間となった夕方。


 少しだけ気を抜いてリラックスをしていると、そこに、伊勢教諭が声をかけてきた。


「鏑木くん。あなた宛に、久良岐予備校からメッセージが届いています。詳しくは学内ネットのメールボックスを見てください」

「あ、はい。わかりました」


 言われたとおり、生徒端末を操作し、メールを開いた。

 文面は、『時間があるときに、クラブに顔を出しなさい』というものだった。


 オリエント学院から久良岐魔法クラブまでは、電車で一時間ほどの距離だ。

 今日はこれから寮で荷降ろしをする予定だったが、それくらいならいつだって出来る。帰国してまだ顔も出していないので、お礼がてらに行くことにした。




 ※ ※ ※




 二年ぶりに見た街並みは、ほとんど変わっていなかった。


 バス停から降りたコウヤは、魔法クラブまでの道を土手沿いに歩いて行く。


 懐かしさに高揚を覚えつつ、懐かしい景色を楽しむ。

 土手の下では、子供たちがボール遊びをしているのが目に入る。かつて自分も、そこで壁当てを繰り返していた。


「はは、俺が作ったマウンド、使ってやがる。今はバッターボックスもあるのか。隙を見て、ちょっかいでもかけてやるかな」


 楽しげな表情で、コウヤはその様子を見る。


 桜並木が花びらを散らしている。

 この道を通ったのは、たったの二年だ。野球をやり続けた六年間に比べると、他愛もないくらいに短い時間だ。


 それでも、その日々がとても心に残っている。


 幼馴染たちと遊んで歩いたときのこと。ひねくれた性格のファントムをなだめてかき氷屋に連れて行った時のこと。クラブの大人たちに、野外パーティを開いてもらったときのこと。悩みはあったけれど、無邪気な子供として楽しんだ二年間。


 ――海外での殺伐とした生活を思い返す。


 それに比べると、あまりの変わらなさに心が癒やされていくのを感じた。

 思わず小さく息を吐く。ここでは、緊張し続けなければいけない理由は、一つもない。


「帰って、来たんだな……」


 何度目かの言葉だったが、今までの反射的なものと違い、深い感慨のこもった言葉だった。

 懐かしさに気が遠くなりながら、ふと顔をあげる。



 ――そこに、白装束の女性が立っていた。



 見るだけで儚さを覚える女性だった。

 年の頃は、十代後半から二十歳と言ったところだろうか。

 色素の薄い肌は、白い着物とあいまって、初雪のように純真な雰囲気を醸し出している。その中で、烏の濡れ羽のような黒髪が、アクセントとして強調されていた。


 思わず、その姿に見とれてしまう。


 吹き付ける風に、桜並木が揺れる。

 風に飛ぶ桜の花びらは、まるで雪のように舞い、白い女性の周りを流れていく。


「――――」


 女性が顔を上げる。

 その上品な顔立ちには、かつての幼さの面影があった。


「――ぁあ」


 思わず、目頭が熱くなる。


 一年で戻るつもりだった。

 けれど、さらに一年かかってしまった。


 期待はしていたが、ダメかもしれないと覚悟をしていた。あの日の言葉に嘘はなくとも、気持ちが変わることはあるだろう。いっときの感情で覚えた永遠など、新たな出来事の前には、あっさりと消え失せてもおかしくない。

 もしかしたら、他の相手を見つけているかも知れないと、覚悟していた。例えそうなっていたとしても、恨むまいと思っていた。



 この思いは、自分だけが持っていればいいと。

 そう思っていたのに。


 その女性の表情を見るだけで、己の中の全てが安堵に包まれた。


「――ごめん。遅くなった」


 コウヤが謝ると、女性は頬を紅潮させた。


 見た目は随分と成長した。

 二十歳くらいの容姿をしたその神霊は、目尻に涙を浮かべる。


「本当に、遅いですわよ」


 彼女は歓喜に頬を染めると、震える声で返した。


「もう少しで行き遅れるところでしたわ。コウヤ」


 かつてのバディである冬空テンカは、何よりも上品さに磨きがかかったしぐさで、鏑木コウヤの帰国を祝ったのだった。



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