天空の王者 後編
矢羽タカミは、『鷹と矢』というイソップ寓話を原始としたファントムである。
鷹と矢――野生の鷹が獲物を狙っている所を、狩人によって射抜かれる。その時に使われた矢は、鷹の羽根で作られた矢羽根だった――という寓話で、『己を滅ぼすのは己自身』という教訓が込められた寓話である。
タカミは、自身の前身となった存在の記憶を微かに覚えている。
それは、森の主として君臨していた、オオワシの記憶だ。
広い大空を駆け巡り、風を切って己の存在を主張する、威風堂々とした王者の姿。何者にもとらわれぬ自由なその姿には、まばゆく感じるほどの気高さがあった。
そのオオワシは、天を目指した。
空高く、果てしない青空の向こうを目指して、オオワシはひたむきに上を目指した。
突き進む雄々しい翼は、蒼穹を切り裂き、際限なく上昇を続けた。
九天の空を駆け巡ったオオワシは、ただ一点、無限に続く天への渇望だけを抱いていた。
その空を突き抜けて、無限の彼方に行きたいと思った。
結局、そのオオワシは、そこに辿り着くことはなかった。
オオワシの最後は、バードストライクによる衝突死だった。飛行機と衝突したオオワシは、全身を砕かれて地上に落ちた。
平均よりも遥かに大きい身体をしていた彼女は、死後、死骸を人間に回収され、剥製にされて博物館に飾られることになった。
自由気ままに空を駆けた王者は、死んだあとにその自由を剥奪されたのだ。
矢羽タカミがファントムとして発生したのは、それから十年後のことだ。
ファントムとなり、人間社会に縛られる生き方をしている彼女は、ふとその前世の記憶を思い返す。
広大な森の上空を飛び回り、果てなく続く空を我が物とする王者の視点。複数の人格パターンが組み合わされている彼女にとって、その記憶はあくまで客観による記録でしかないのだが、それでも不意に、郷愁のような感情を抱くのだ。
自由について、考える。
それはきっと、大空を飛ぶような気持ちなのだろうと、懐かしく思いながら。
※ ※ ※
近くに車を止めた三人は、南東部から敷地内に足を踏み入れた。
舗装された雑木林の道を歩きながら、次第に木々の深い所に入っていく。広大な土地を徒歩で行動するので、嫌でも時間はかかる。
三十分ほど掛けて、ようやく最初の被害現場の近くにたどり着いた。
木々の間から木漏れ日が差し込んでくる、明るい場所だった。
見上げると透き通るように青い空が見えるが、周囲は木々がまばらに立ち並んでいて、見通しが良いとは言えない。狙撃をするのは、かなり難しいと言えるだろう。
「もうちょっと西寄りになると、開けた草原地帯があるみたいだけど、そっちでは被害報告が全くと言っていいほどないのよね」
「狙撃のような攻撃のわりに、視界の開けた場所じゃ被害がないってのは、不思議な話だね」
先行するタカミの後を追うようにして、シノブが歩を進める。
その横を、テンカはフラフラと浮遊しながらついていく。
散漫とした様子でキョロキョロと辺りを見渡していた彼女は、ふと気になるものを見つけた。
それは、幹の部分が不自然に削れた一本の木だった。
腕の太さくらいの幹が、まるで噛みちぎられたかのように丸く抉られている。
気になったテンカは、フラフラとその木に近づきながら、タカミたちに声を掛ける。
「ねえ。タカミ。なんだかこの木、変では――」
次の瞬間。
テンカの足元に衝撃が起こった。
「な――!?」
何かが高速で突っ込んできたように、地面ごとテンカの足元が弾け飛んだのだ。
目を丸くした彼女は、思わず身を引こうとする。
そこに、第二撃が襲いかかってくる。
空間を切り裂くように飛来した『何か』は、目にも留まらぬ勢いでテンカの右足を突き破る。
「う、うぇええ!?」
スネの部分から右足を吹き飛ばされた。
テンカは傷口から魔力を噴出させながら、その場に倒れ込んだ。痛みよりも何よりも、ファントムとしてのこの肉体を、現実において軽々しく破壊されたことが衝撃だった。
目を白黒させているテンカは、慌てて立ち上がろうとする。欠損するほどのダメージをくらいはしたが、テンカは氷を操って義足を作ることが出来る。近接戦闘は無理でも、逃げるくらいの事はできるはずだった。
だが、動ける所を見せたのがまずかった。
風を切る音とともに、正体不明の弾丸がテンカ目掛けて飛来してきた。
「テンカちゃん、伏せなさい!」
それをいち早く察したタカミは、強引にテンカの頭を地面に伏せさせると、飛来してきた物体を思いっきりはたき落とした。
弾丸だったものは強引に地面へと叩きつけられ、土を盛大に巻き上げる。
それを横目でちらりと見たタカミは、一瞬だけ顔をこわばらせ、ギリッと奥歯を噛みしめる。
「な、な、な……なんなんですの!?」
「説明はあと! まずは逃げるわよ。じっとしてなさい!」
周囲をさっと見渡したタカミは、テンカの首根っこを掴み上げると、その小さな体を抱えあげて、飛ぶように地を蹴った。
その後を追うように、連続で地面に弾丸が叩き込まれる。
一発や二発などではない。弾道を読むのが馬鹿らしくなるほど、四方八方から正体不明の弾丸は襲いかかってきた。
背中に向けて飛来するそれらを、タカミはまるで背中に目がついているかのように的確に避けていく。
そして、大回りしながら、シノブの方へと声を掛ける。
「シノブ! 準備は!?」
「できてる。でも、長くは持たないと思うから気をつけて」
ノートパソコン状の魔法デバイスを取り出しているシノブは、魔法式を呼び出しながらタカミに向けて言う。
それを聞いたタカミは、大きくうなずきながら進路を変えた。
「数発耐えてくれたら、十分!」
攻撃は激しさを増し、もはや爆撃のようになっている。それをかいくぐりながら、タカミはシノブのすぐ隣へと滑り込む。
それと共に、シノブは組み立てていた魔法式を発動させた。
「『システムコール』――『アンチマテリアルシールド』」
シノブたちを守るように、半球状の魔力の壁が完成する。それによってタカミを追いかけてきていた正体不明の弾丸は阻まれる。
しかし、その威力を完全に殺しきれず、一撃ごとに、シールドの全体に激震が走る。予想通り、何発も耐えられそうにはない。
「テンカちゃん! 二秒稼いで!」
「は、はい! 『
指示を飛ばされたテンカは、ありったけの魔力を注ぎ込んで周囲に吹雪を起こした。
夏の大地が、一瞬のうちに冷気に包まれる。
暴風をまとった雪によって、襲ってきた弾丸のいくつかが弾き飛ばされる。
そして、彼女たちの姿が、一瞬あらゆる角度から見えなくなった。
「来なさい!」
そのタイミングを見計らったように、タカミがそう叫ぶ。
次の瞬間、上空から無数の鳥が急降下してきて、シールドの周りを旋回し始めた。
カラスや鳩、雀と言った野鳥たちが、タカミ達を守るように飛び回る。
タカミの持つ『狩猟』因子のパッシブスキル『鷹匠』。鳥類であれば、短期間の間自身の指揮下に置くことが出来る能力である。
何羽かが襲ってくる弾丸に弾かれて倒れていくが、それも最初の数発だけだった。密集する鳥の盾を前に、標的を見失ったように狙撃の手が急に止んだ。
※ ※ ※
周囲を旋回し続ける鳥の群れを眺めながら、三人はようやく一息つくことが出来た。
「ふぅ、危なかった。大丈夫、テンカちゃん」
「え、えぇ……なんとか」
地面にへたりこんだテンカは、気が抜けたように体を震わせている。
「そ、その……助けていただいて、ありがとう、ですわ」
「どういたしまして。大事がなくてよかったわ。その足、霊核は無事でしょ?」
タカミはしゃがみ込むと、テンカの怪我の具合を確認する。
足は抉られて見事にもげているが、魔力の流出は止まっているので、すぐに対処しなければいけないほどではない。
ファントムの肉体は、霊子細胞と呼ばれる、概念情報を保存した素粒子で構成されている。ファントムの持つ因子こそが強大な概念情報であり、魔力を通すことで霊子細胞は実体化する。
そして、そのファントムにとって、核となる因子――テンカの場合は『氷雪』の因子が霊核であり、それに致命的なダメージを受けると、消滅の危機となる。しかし、四肢が潰されるくらいならば問題ない。
「無事ではあるけど、機動力に問題があるから、テンカちゃんはここでお休みね。あとは、私がなんとかするしか無いか」
ほぼ無傷であるタカミは、体の調子を確認しながら、そう言う。
それに対して、シノブが疲れたように腰をおろしながら、タカミを見上げて尋ねる。
「なんとかすると言ってるけど、どうするつもりだい? この鳥たちのおかげで狙撃はやんだみたいだけど、まだ弾丸の正体だって、うまくつかめてないだろう?」
「そ、そうですわよ。一撃どころか、何発も撃たれましたし、話が違うですわ」
遠目で観察していたシノブには、弾丸の正体を見ることも出来なかった。実際に攻撃を受けたテンカですら、一体どんな攻撃だったのか把握できなかったらしい。
しかし、タカミだけは、先程の交戦で弾丸の正体をしっかり掴んでいた。
「それなら、もうわかったわ」
そう言いながら、タカミは外の鳥たちに意識を向けると、命令を下す。
やがて、カラスがその足に一つの物体を握って、タカミの直ぐ側に降り立った。
持ってこられたのは、ニ十センチほどの大きさの、ハヤブサの死骸だった。
「これが……弾丸の正体、ですの?」
「そ。スピードは異常だったけどね」
うなずきながら、タカミはその死骸を拾い上げる。
力なくだらりと翼を垂らしているそのハヤブサは、掴まれた部分からグズグズと腐れ落ちるように肉がもげる。
腐臭すら漂うその死骸は、死後数日は経過しているのが見て取れる。
「この様子だと、飛んできた時にはすでに死んでたんでしょうね。死因は餓死……いや、ひっかき傷のような外傷があるから、失血か、あるいは感染症かしら。そもそも、見た目は成鳥だけど、ハヤブサの成鳥にしては異様に小さいわね。となると、遺伝子組み換えによる新種……」
「た、タカミ……? どうしたんですの。そんなに怖い顔をして」
怯えるようなテンカの声に、タカミはハッと我に返った。周囲を威圧してしまうほどに、感情を表に出していたらしい。
タカミは取り繕うように頭を振ると、丁寧にハヤブサの死骸を地面に置いた。
「ここにいるレイスは、私と相性が良いみたいね。そうじゃなかったら、多分正体すら掴ませなかったと思う」
努めて冷静に言う彼女は、冷めた瞳を上空に向ける。
「こっちは好都合だけど、向こうからすると計算違いも良いところよね。ま、相手が悪かったと思ってもらうしか無いけど」
「じゃあ、矢羽くんには全部わかったというのかい?」
「ええ」
シノブの問に、こともなげにタカミは頷いてみせる。
狙撃の正体も、狙撃手の居場所も、そしてこの場に展開されている霊子災害の仕組みも――その全てを、タカミは解き明かすことが出来たという。
つまり、当初の予定である、霊子災害の調査という目的は果たされたのだ。
にもかかわらず、タカミは継続して厳しい視線を外に向けている。
気を抜くどころか、これから戦いに出るように、全身から気迫をみなぎらせている。
「霊子庭園は……範囲的にシノブじゃ無理ね。なら、魔力供給の方をよろしく。ちょっと大きなスキル使うけど、ちゃんと狙撃手の方を一息で仕留めてくるから」
「矢羽くん。今回の仕事は、調査だけだよ」
戦う気満々のタカミに、シノブはマイペースにやんわりと言う。
「戦闘行為は禁止されている。自衛ならかろうじて許されるけれど、ここから先は、契約違反になる可能性があるけど、良いのかい?」
「ええ、そうね」
正面を向いたまま、彼女は手に付けていたグローブを外し、素手の握りを確認する。
そして、シノブとテンカの方を振り返りながら、晴れやかに言い放った。
「そんなの――知ったことか、よ」
その表情は、不気味なほどに笑顔だった。
※ ※ ※
ソレの記憶は、狭い室内で完結していた。
日光の差し込まない暗い室内で、ソレの足は鎖で繋がれていた。
生まれた時からそこに繋ぎ止められていたソレには、十メートル四方の部屋こそが世界の全てだった。
己の持つ鋭い鉤爪やくちばし、そして雄々しい翼の意味を理解するには、そこはあまりにも狭すぎる部屋だった。
室内には多くの同胞たちが繋ぎ止められていた。
満足に翼を広げることも出来ず、飛び立とうとする度に自傷を繰り返す仲間たちを、ソレはただ眺めることしか出来なかった。衛生環境は劣悪で、汚物の処理が行き届いていない室内には病気が蔓延し、やがて多くの同胞が命を落とした。
やがて一羽が倒れ、二羽が倒れ、そうして死骸が積み重なるとウジやハエがたかった。
部屋の扉は、人間が入ってくるときにだけ開けられた。それは、餌を与えられるときか、同胞が連れ去られる時かのどちらかである。外に出られると助かるのか、わかるものは居なかった。なぜなら、連れ出されたら最後、絶対にその同胞は戻ってこなかったからだ。
そして、ソレにも最期の時は平等に訪れた。
死の間際、ソレはわずかに開かれる扉を見た。連れ去られた同胞がどうなったか知らないが、その先に行ってみたいと思った。けれど、衰弱しきった身体では、そこまで羽ばたくことすら出来なかった。
力なく、ソレは息を引き取った。
そして――『彼』はその記憶を引き継いだ。
多くの同胞が無念のうちに命を散らした。死の間際、同胞たちが抱いたものは同じ感情だった。
『外に出たい』
『翼を広げたい』
『大空を飛び回りたい』
――陽の光も、空の青さも知らない同胞たちは、ただ本能だけで、空を求めた。
ならば、空を目指そう。
数々の思念が集まり、一つの情報体となった。
膨大な情報密度は、やがて霊子細胞となって形を取る。
多くの同胞が死んだ。
多くの同胞が空を目指した。
翼をはためかせ、風を感じ、大空を自由に飛び回る夢を見た。
その感情は、埒外の情報圧となって、周囲の現実を改変する。
「―――――ッ!」
彼が羽ばたくだけで、建物は半壊した。
二メートル近い立派な翼を羽撃かせ、突風を巻き起こしながら、彼は空高く舞い上がった。
大空に身を躍らせると共に、まばゆいほどの陽の光が、彼の全身に降り注いだ。
(これが、空か!)
彼は、歓喜に身を震わせた。
広大な青空には壁などなく、翼をどこまでも広げることが出来た。澄んだ空気を堪能しながら、彼は果てのない空を満喫した。
けれど――彼はその場に繋ぎ止められたままだった。
(――なぜ)
足には鎖など見当たらない。彼を阻むものがあっても、軽く翼をはためかせれば、その風圧でバラバラにすることが出来る。
今の彼に不可能などなく、ただ思いのままに空を駆けることが出来るはずだった。それなのに――なぜか彼は、その場所から離れることが出来なかった。
そうするうちに、彼が破壊した建物に、人間が集まってきた。
同胞たちを地上に繋ぎ止めていた人間たち。同胞たちを無残に扱っていた人間たち。妙な建物で、好き勝手に同胞をいじくり回していた人間たちを見て、彼は思った。
(奴らがいるから、自分はこの場から離れることが出来ない)
(奴らさえいなくなれば――私は、もっと遠くに飛んでいけるに違いない!)
そして、彼は。
霊子災害『
忌々しい人間たちが、まさか同類を盾に攻撃を防ごうとするとは思わなかった。
彼と意識を共有したハヤブサの個体は、音速を超える勢いで強襲し、数々の人間の肉体を抉ってきた。
これまでは一撃でも食らわせればほとんどの人間は退散していったのだが、今回の敵は、事もあろうに反撃をしてきたのだ。
由々しきことだと、ニエーバ・ツァーリは目を細める。
人間があの建物に戻れば、また同胞たちが鎖に繋ぎ止められる。未だこの場所に囚われている彼にとって、それは何よりも避けなければいけない事態だ。
なんとしても、あの人間たちを殺さねば。
上空を旋回しながら、ニエーバ・ツァーリは地上を見下ろす。
地上では木々に阻まれて悪い視界も、上空から見れば一望できる。空から狙いを定めることで、地上にいる同胞たちに命令を送り、突撃させる。すでに死した同胞の肉体は、音速の弾丸となって敵を穿つ。
敵が気を抜く瞬間を、ニエーバ・ツァーリは今か今かと待ち構える。
しかし、先に動いたのは敵の方だった。
(なに――!?)
鳥の盾が一瞬開いた、その瞬間。
目にも留まらぬ勢いで一つの塊が飛び上がってきた。
それは人の形をしていたが、その腕は雄々しい翼となっていた。
翼を大きくはためかせ、人影は一息に急上昇し、あっと言う間にニエーバ・ツァーリを置き去りにして、空高く舞い上がった。
(まさか貴様――同類か!? なのに、なぜ――!?)
その人影から同じような情報圧を感じた彼は、思わず叫ぶ。
それに対して、人影――矢羽タカミは、上空から冷ややかにその姿を見下ろしてくる。
「さあ。勝負よ!」
彼女は翼を人の腕に変えると、魔力で弓を作り出して狙いを定める。
それは、明確な敵対行動だった。
(あぁ――そうか)
空を見上げたニエーバ・ツァーリは、敵意を抱く。
霊子災害レイスと霊子生体ファントムは同種の存在であるが、決定的に違う点が一つある。
レイスは災害であるのに対して、ファントムは生命体だ。
ファントムの感情は人格情報を元にした個性であるのに対して、レイスの感情は破壊衝動の発露である。
故に、同種の存在でありながら、両者の間に理解など無い。
つまり。
目的を違えた時点で、両者は殺し合うしかない。
(貴様も――我らをつなぎとめるか!)
引き絞られた弓矢を前に、ニエーバ・ツァーリは真正面から迎え撃った。
彼は大きな翼を羽ばたかせ、上昇気流を起こしながら真っ直ぐにタカミへと突撃する。
それと共に弓矢を引き絞ったタカミは、弦から指を離した。
放たれた弓矢は、暴風を撒き散らしながら獲物を撃ち落とさんと迫る。
それを――ニエーバ・ツァーリは、紙一重で避けてみせた。
「くッ!?」
ハッと目を見張るタカミの姿に、彼は気分を良くする。
しかし、余波で体勢を崩した彼は、続く突撃を成功させることが出来なかった。タカミもまた、空中に居ながら彼の攻撃を紙一重で避けてみせた。
これで一勝一敗。
だが、その上下関係は入れ替わった。
巨大なハヤブサは上空を舞い、猛禽のフリをした人間は地に落ちようとしている。
(我らの勝ちだ――)
勝ち誇るように、ニエーバ・ツァーリは蒼穹を旋回する。
ふと、彼は翼をはためかせながら気づく。
この高さまで舞い上がったのははじめてだと。
雲を突き抜けたのははじめてだった。
地上に繋ぎ止められていた彼にとって、二千メートル以上の上空は未知の空間だ。
空の青さは変わらないが、その澄んだ空気と気温は、新鮮な感覚を彼に与えてくれる。
どんなに飛び上がろうとも、地上から離れることが出来なかったのに、彼は今、その限界を軽く超えてみせた。
(なぜ、今になって)
未知の景色に惚けながら、彼は目を細める。
旋回しながら、彼は地上を見下ろす。あまりにも、地上が小さく見える。自分を繋ぎ止めていたしがらみの、なんとちっぽけなことか。
それに気づくと共に、突き刺すような殺気を感じた。
(まさか、まだ!?)
慌てて殺気の元を見下ろすと、そこには猛禽の神霊が居た。
「――まだよ。こっちを見なさい」
落下中の矢羽タカミは、再び弓に矢を番えてこちらを睨んでいる。キリキリと引き絞られた弦は弧を描き、解き放たれる瞬間を今か今かと待ち構えている。
何度繰り返しても無駄だ。
ニエーバ・ツァーリは急降下しながらそれを迎え討つ。上下が入れ替わっても、やることは変わらない。
放たれた弓矢を回避し、そのまま敵ファントムの肉体を食い破ればいい。
放たれる矢と、食らいつく嘴。
「矢よ、貫き穿て!」
(無様に失墜しろ!)
殺意を持って放たれた互いの全霊は、膨大な魔力を放って周囲を威圧する。
暴風を纏った弓矢は、真っ直ぐに巨大なハヤブサの身体を狙って突き進む。
それをニエーバ・ツァーリは再び紙一重で避けてみせた。
今度は、余波で体勢を崩すこともない。急降下する彼は、周囲の風すらも完全に掌握して、今度こそ矢羽タカミの心臓を狙う。
しかし――
「いいえ。堕ちるのは貴方の方」
弓を放ち終わったタカミの身体から、膨大な魔力が解き放たれていた。
その魔力は、現実よりも遥かに上位の階層――情報界へと干渉するための切符だ。ファントムの持つ因子は魔力を通すことで活性化され、魔法現象を起こす。
周囲を威圧するほどの膨大な情報圧は、情報界を書き換え、遅れて現実を改変する。
一矢、不失正鵠。
気付いた時には、巨大なハヤブサの胸に、一本の弓矢が突き刺さっていた。
(な――ぜ)
確かに避けたはずの弓矢が、胸元に突き刺さっていた。
一度狙いを外した弓矢は、スキルによって軌道を強引に改変され、ニエーバ・ツァーリの心臓を射抜いたのだ。
(あ、ぁあ……落ちる)
未知の上空を味わったのは、一瞬のことだった。
見上げた空に憧憬を向けながら、ニエーバ・ツァーリは引きずり降ろされるように失墜する。
それを見送りながら、空にとどまる人の形をした大鷲が、小さく呟いた。
「飛ぼうと思えば、どこまでも飛べたのにね」
自由だったはずの身体は、最後まで地上に繋ぎ止められたままだった。
落下しながら、その体を構成していた霊子細胞が砕けていく。魔力は風に乗ってキラキラと輝き、やがて核となる原始だけを残して、王者は地に落ちた。
※ ※ ※
その日のうちに、タカミたちは事態の報告をするために、依頼人がいる詰め所を尋ねた。
霊子災害『
それは、ハヤブサの亡霊が集まってできた、Cランク霊子災害だった。
殺傷能力こそ高いレイスだったが、移動もせず、半径三キロ程度の範囲内にとどまっていたことと、死人が一人も出ていないことから、Cランクが妥当という結果だった。
倒したあとに残ったのは、三十センチほどの痩せこけたハヤブサの死体だった。
それを見ながら、冬空テンカは静かに目を閉じた。
(霊子災害の末路……他人事と思うには、まだ記憶が鮮明すぎますわね)
かつて、『スノーフィールドの停止冷原』と言う名の霊子災害として、空間を凍りつかせていた記憶は、今でも瞼の裏に焼き付いている。
テンカの場合も、人死には出さなかった。それは意図したものなのか、それとも偶然なのかは、今のテンカにはわからない。だが、そのおかげで、テンカは今、ファントムとして何の気負いもなく存在することが出来ている。
(ままならないものですわね。死んだ記憶を持っているというのは)
レイスだった頃と、ファントムになった今は、現代では別の存在として定義されているが、それでも記憶の連続性がある以上、それを切って離して生きるのは難しい。
「……いずれ、このハヤブサも、ファントムになるのでしょうか」
「ならないわ」
テンカの疑問を、タカミはバッサリと切り捨てた。
「ファントムになるには、知性と同時に強い自我が必要になる。それは、欲望や、願望とも言い換えられる。――ずっと人に囚われ続けてきたこの子にとって、それを持つのはすごく難しいことだと思うわ」
「……本当に、ままならないものですわね」
ファントムも、レイスも、下手に知性なんてものを持っているから、つい人間と比べてしまう。違う存在であると分かっていながらも、同じように苦しんでしまう。
空を飛びたいと願った。
それを自覚した瞬間に叶わないと知ることになる。その気持を、テンカは考えたくなかった。
※ ※ ※
ハヤブサの死体を持って、タカミたちは報告に上がった。
その事実に、依頼人であるスースロフは怒りを見せて恫喝してきた。
「勝手に処分しただと!? 貴様ら、ふざけたことをしてくれたな!」
肥え太った禿頭の男が喚き散らす姿は、はっきり言って不快だった。
いっその事凍りつかせてやろうかと思ったが、テンカはこの報告で絶対にしゃべるなと言われているので、固く口をつぐんでタカミとシノブの対応を見守る。
目を剥いて怒るスースロフに、タカミはにこやかに言った。
「申し訳ありません。でも、アレは危険なレイスでした。一刻も早く倒す必要があるという、現場の判断ですが、なにかまずかったでしょうか?」
「化物には聞いておらん! そもそも、契約違反だ」
吐き捨てるようにそう言ったあと、スースロフはすぐ側の柳シノブに唾を飛ばす。
「猟犬の手綱も握れんとは、とんだ無能だな貴様は! 契約では、戦闘行為は禁止と言っていたはずだ。討伐はこちらでする手はずだったのに、勝手に倒すとは、何を考えているんだ!」
「そうは言いますが、我々も命の危険がありましたからね」
肩をすくめながら、ひょうひょうとシノブは言ってのける。軽薄な英語によるその言葉からは、反省の色はまったく見えない。むしろ、挑発的ですらあった。
「さすがに、身の危険を感じれば反撃せざるを得ませんし、自衛は契約内に含まれていたと思いますよ? まあ、結果として倒してしまったのは、不慮の事故というものです。仕方ないと思っていただければ」
「仕方ないで済むとでも? 貴様らの勝手で、どれだけ迷惑を被っていると思っている」
「さあ、わかりませんね。我々は一刻も早く被害が止まればいいと考えていたので。それからすると、そちらのお手を煩わせずに倒せたのは、悪くないと思いますがね」
ぬけぬけと言いながら、シノブはちらりと、目を細めながら言う。
「それとも。先に倒されては、何か不都合でもあったんでしょうかね?」
「……はん。そんなものはない。単に、権利侵害と言っているだけだ」
シノブの言葉を、吐き捨てるようにスースロフは否定する。
霊子災害の討伐は、一つのビジネスだ。報奨金の権利などを含めると、それを勝手に行われるのは権利侵害だと言うのも、確かだろう。だからこそ、タカミ達は最初に、戦闘行為の禁止などという契約をかわされていたのだ。
だが――そうした事前契約を無視しても良い状況というのが、一つだけ存在する。
「スースロフさん」
この場で唯一、まともに会話を成立させることが出来るシノブは、カバンから封筒を取り出すと、中から複数枚の写真を見せる。
「我々は、この建物の中の事実を、どう判断すればいいでしょうか?」
その写真を見た瞬間、スースロフの表情が凍りついた。
「……き、貴様ら。まさか、勝手に入ったのか!?」
「そりゃあ、調査ですから」
すました顔で、シノブはうなずいてみせる。
それは、事前に野鳥観測所として教えられていた建物だった。
爆撃でもあったかのように半壊したその建物は、観測所と言うより、実態としては小さな実験施設のような施設だった。
中には、大量のハヤブサの死骸が転がっていた。
どれも、足に鎖が付けられ、狭い室内に閉じ込められていた。
長い時間放って置かれた死骸にはウジやハエがたかっていたが、それがここ最近のことではなく、施設が可動していたときからそうであったことが、建物に染み付いた汚物の様子でわかった。
転がっているハヤブサは、シロハヤブサという種類だった。
死骸の体長は十センチ前後という小柄なサイズだったが、驚くことに、どれも成鳥だった。
「シロハヤブサの成鳥は、大きいものなら五十センチ、小さいものでも四十センチはします。けれど、あの施設内にあった死骸はどれも十センチ前後……不気味なほど、小柄でした」
「ふ、ふん。そんなもの、別の種類か、あるいは変異体が紛れ込んだんだろう」
わずかに動揺を見せながら、スースロフは言い募る。
「あの施設には、もう一ヶ月以上近づけていないんだ。野鳥が勝手に入って巣を作っても、我々は関与できん」
「野鳥が入り込んだ、なんて数じゃなかったですけどね。そもそも、シロハヤブサは絶滅危惧種ですが、まあ、あなたがそう言うのでしたら、そうなのかもしれませんね」
小馬鹿にするようにシノブはそう言ったあと、ちらりとタカミの方を振り返る。
それまで一歩引いていたタカミは、シノブに促されて口を開いた。
「五年くらい前でしたっけ」
それは、独り言でも言うようだった。
淡々と言う言葉には、ただ事実を提示するという意志だけが感じられた。
「エルフの少女が、シロハヤブサと心を通わせて冒険する――そんな映画が、世界中で大ヒットしましたよね」
「………」
タカミの言葉に、スースロフの顔色が更に悪くなる。
それを見ていると、完全に蚊帳の外になっていたテンカも、溜飲が下がる気持ちだった。
気分を良くした彼女は、そのままタカミを応援していたのだが、ちらりと見たタカミの表情が、底冷えするほど冷たいのを見て、テンカは背筋が凍るかと思った。
タカミは、明らかに怒っていた。
「その後、世界中で、ハヤブサをペットにするブームが起きました。でも、猛禽類の飼育はそう簡単なものじゃありません。ハヤブサは猛禽類の中では小柄な方ですが、それでも翼を広げたら一メートルくらいの大きさになります。買ったはいいものの、飼育環境を用意できなかった家庭が捨てることで、一時期社会問題にもなりました」
「……なにが、言いたい」
青くなっているスースロフは、ファントムであるタカミの言葉に、反論する気も起きないようだった。化物と蔑んだ相手の言葉を聞く姿は、哀れですらあった。
そんな彼を、タカミは冷たい目で見下ろす。
「ペットとして買う上で、小型と言うのは大きなメリットです。人の身勝手な基準ではありますが、愛玩を目的に動物を飼育すること自体、傲慢な話なので、今更でしょう。でも――その種族としてのあり方を変えるような傲慢は、さすがに見過ごせません」
遺伝子操作による、小型化。
しかも、絶滅危惧種とされている種を捕らえた上で実験するのは――人道的に非難されるべきだろうし、場所によっては違法である。
「霊子災害への対応規約の話ですが」
そこで、話に割って入るように、シノブがマイペースに言う。
「世界的な規約には、まず大前提として、霊子災害が人災によって起きた場合、発見次第討伐することが許される、というのがあります」
いわば、現行犯逮捕は民間人にも出来る、と言った程度の規約なのだが、人災であることがわかった時点で、他の契約による禁止事項は無視しても良くなるのだ。
シノブの言葉を引き継ぐように、タカミが言う。
「今回の霊子災害の発生原因は明らかです。この不当に扱われたハヤブサたちが、どれだけ多かったかが、形になって現れたのでしょう。これは、明らかな人災です」
「ふ、ふざけるな。何が人災だ! 鳥が勝手に死んで、勝手に暴れただけだろう!」
喚き散らすスースロフを見て、タカミは小さく息を漏らす。
「つまり、それがあなたの考え、ということですね」
次の瞬間。
タカミの全身から、殺気が膨れ上がった。
それは、側で黙っていたテンカやシノブすらも萎縮させるほどの威圧感だった。
離れた場所に居た他の職員たちですら、怯えながら思わずこちらを振り返るほどに、その殺気は真に迫っている。正面から受けたスースロフに至っては、椅子から転げ落ちながらその場にひっくり返った。
「あなたがどう思うと、関係ありません」
一人だけ。
矢羽タカミだけが、最後まで冷静だった。
「この証拠データは、すでに日本の大使館に送ってます。もしここで私達が不当な目にあったとしても、もう関係ありません。あなた方の悪事は、社会がさばいてくれますとも。だから、どうぞ好き勝手に言ってくださいな」
ふぅ、と小さく息を吐いて、タカミはスースロフを見下ろす。
「なので、最後に私も好きなことを言わせてもらいましょう」
ずいっと一歩を踏み込み。
鷹のファントムは、冷ややかに愚かな人間を見下ろした。
「人間風情が、図に乗るんじゃないぞ」
その姿は、天を舞う王者にふさわしい風格があった。
※ ※ ※
後日談。
タカミ達が調査の結果を公開したことにより、野鳥観測所改め、鳥類研究所の研究の違法性は認められ、関係者一同は逮捕された。
事実をまとめると、タカミたちが想像した通り、あの研究所で作られていたハヤブサの個体は、ペット用として売り出すために、遺伝子改良で人為的に作られていたらしい。
小型化したシロハヤブサを新種として発表することで、絶滅種の種別からは外れ、なおかつ映画のファンに求められるようにしたのだと言う。小型化に失敗した個体はほとんど放置状態だったらしく、数え切れないほどの死骸が建物には転がっていた。
霊子災害の調査という任務は、結果的に失敗に終わり、報酬を得ることは出来なかったのだが、代わりに捜査特別報酬として、自治体からのわずかながらの報奨金を得た。
そうして、三人は日本に帰ることになった。
「ま、とりあえず良かったね。無事に終わって」
シノブの言葉に、タカミがうなずく。
「後味の良いものじゃなかったけどね。というか、ごめんなさい。柄にもなく暴走しちゃって、最後は面倒事になっちゃったし」
「そうやってしおらしく謝る君が可愛いから許すよ。どうせなら押し倒したいくらいだ」
「……あんたに謝った私がバカだったわ」
相変わらずなシノブの態度に、タカミは気が抜けたように笑った。
「テンカちゃんも、ごめんね。仕事を見せてあげるって言いながら、なんだか変なことになっちゃって。今度は、ちゃんとしたお仕事に連れて行ってあげるから」
「いいえ。そんな事はありませんわ」
タカミの謝罪に、テンカは首を振ってみせた。
心なしか、テンカの見る目が、輝いて見えた。
はて、なぜこのような、憧れの眼差しを向けられるのだろうかと、タカミは小首をかしげる。
その理由は、テンカ自身の口から語られた。
「これまでの無礼を謝りますわ、タカミ。貴女は素晴らしい方です。凛として戦う姿も、人間相手に喝破する姿も、本当に見事でした」
ファントムとしての矜持を見て、感銘を受けたのだと、テンカは語る。
「わたくしは、ファントムとなって人間に阿るだけの生き方をどこか馬鹿にしていました。けれども、貴女はそうではなかった。ですから、わたくしは貴女を見習いたいのですわ」
「え、えぇ? でも、私、結構暴走しちゃってたから、それを見習われるのはちょっと」
「ぜひ、お姉さまと呼ばせていただいていいですか!?」
「何そのデレ方!?」
これまでずっと喧々していたテンカが、尊敬の眼差しと共に一気にデレた。
それが、今回の一番の収穫と言えるだろう。
子犬のようにじゃれながら「ねえねえお姉さま」と慕ってくるテンカの姿を、最初は扱いづらく感じていたが、その純粋な好意自体は可愛らしいものだったので、次第にタカミもほだされていった。
テンカには、これからいろいろ教えなければいけないのだ。関係が良いに越したことはない。
すでにタカミは、発生して二十年は経つ。それなりに長生きのファントムであり、だからこそ、これから同じ道を歩む同胞を前に、ついつい甘くなってしまうのだった。
帰国した三人は、そのまま一度、久良岐魔法クラブに顔を見せることにした。
先導するシノブと、それを追い越しながら「早く、早くですわ!」と手を振るテンカ。
その姿を見ながら、タカミはふと、日差しを感じて空を見上げる。
「いい天気ね」
真夏の青空は、透き通るように遠く高い。
ふと、彼女は手を伸ばした。
かつて、その大空を自由に駆けた存在があった。蒼穹の果てですらも手が届くと信じ、九天の先も自分の庭のように感じていた。
やがて彼女は、天を目指した。
もっと高く、もっと上へと、後押しされるように、彼女は高く舞い上がった。
その時の彼女は、どこまでも飛んでいけると信じていたのだ。
「なんて――自由だったのかしらね」
矢羽タカミには、その自由はない。
けれど、今の自分は、空を目指すしかなかったあの時よりも、ずっと自由だと思えた。
眩い陽射しに目を細める。
その遠く見果てぬ天上を見上げる度に、矢羽タカミの胸には懐かしさが満ちた。
きっとそれが、今の自分にとっての自由なのだろうと。
確信を持ちながら、矢羽タカミは前を向いて歩き出した。
『天空の王者』 END
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