第百三十九章 ソロバン
本庄 大蔵大臣と守護 上杉氏の被官である大熊 朝秀氏と僕、そして亜希子の四人で会合をもつ。
「わが妻の永倉 亜希子と申します。医師として医療班の責任者をしております」
「お噂はあちこちから聞いておる。戦さで傷ついた者たちを新しい手法で手術して、死ぬべき負傷者が助かったと評判を呼んでいる。われら戦さ働きする者にとって、まことに心強い援軍をえた思いよ。感謝いたす」
「皆さまのお役に立ち、嬉しゅうございます」
亜希子がつつましく頭をさげた。
「おお永倉先生のご内儀でござるか。お初にお目にかかる。先生とは肝胆相照らす仲と、それがしは思っております。されど女性の医師とは思いも寄らぬことでござった。まっこと お似合いの夫婦と お見受けいたす次第」
亜希子がニッコリ微笑んだ。デレデレする気持ちをおさえて口を開く。
「何故この席に妻を同伴させたか、ご不審は尤もと存じます。実はあたらしい帳簿の仕組みをご提案いたしたく会合を持たせていただきました。今の状態を知りたいので何点か お伺います。大蔵大臣も知るべき情報でございます」
「大熊どの、ただ今使っている帳簿はどのようなものでしょうか」
「どのようなものと言われても、日付順に入金と出金を記入して、一日の最後に手許の銭と帳面の数字を検証するやりかたじゃ。あとは手持ちの金をつかって貸金まがいのことをやっておる。金倉に眠らせておくのが勿体ないし、家臣や商家からも喜ばれる」
「誰にいくら貸しているか一覧できる帳面が別にあるのですね」
「それが無いと残高が分からなくなる。取りっぱぐれを防ぐためには必ず必要になる」
「では貸し付けている総額は、どのように分かるのでしょうか」
「うーん、個々の残高を足してゆくしかないじゃろなあ」
「大店などから借りている借金は如何でしょうか」
「一時は高い利息を払って調達しておったが、ここ三年ぐらい入港料や青苧の座の上がりが飛躍的にふえて黒字が続いて安心しておるところだ」
「ところで数を足したり引くときは何か道具でもあるのでしょうか?」
「道具とは何じゃ? 雑紙をそばに置いて筆算をしておるが...... 」
亜希子の顔をみて頷く。
「では私からご説明いたします。ソロバンという数を計算する道具でございます」
「ソロバン?」
「はい、ソロバンを使いますと計算の素早さに驚かれましょう。速さも各段に違いますので、商家では大変 重宝されます。必ずや越後の特産品として引っ張りダコとなります。言葉で説明するのは難しゅうございます。懇意の大工に試供品を作らせました。時間がなく粗雑なでき栄えですが、説明するため間に合わせました」
脇に置いていた風呂敷をほどきソロバンを取りだす。
「ほう、これがソロバンと申すものか」
「二段に分割してあります。上の段が数字の五を表します。下の段の珠ひとつは数字の一を表します。縦の棒が数字の桁をあらわします。ここに黒点がありますが、この棒を一桁の数字の基準とします。左へ十の桁、百の桁、千の桁と一桁づつ繰り上がります」
「例えば千二百三十四と置きたければ、黒点から四つ目の棒が千の位ですので、下の段から珠一つを上にあげます。すぐ右は百の位ですので二つ、その右は十の位ですので三つ、黒点はゼロの位ですので四つあげます。これで千二百三十四を一目で確認できます」
「これに五百二十四を加えたければ百の位の上の段の珠を下へ下ろします。十の位は珠を二つあげます。ゼロのくらいは下の珠はすべて上にくっついていますので、五の珠をおろして下の珠の一つを下へ下ろします。一目で合計が千七百五十八と計算ができます」
「おお、なんと簡単に計算ができるんじゃ。これなら筆算など比べものにならんわ。早速それがしも練習したいものだ」
「ソロバンを使いますと、足す引く掛ける割るの四則計算がすべて可能となります」
「なんと便利な代物よ。これなら日本中どこでも売れること間違いなしじゃ」
「それで二つほど取り入れたい策がございます。
一つは漢数字をやめてアラビア数字を採用いたしたく存じます」
「アラビア数字とは何じゃ?」
「舶来の数字でございます。漢数字は計算に向いておりません。ソロバンで計算するとアラビア数字の方が簡単に使えるのはすぐお分かりになります。今後さまざまな分野で数字が活躍いたします。いちど使いますと、その有能さがお分かりいただけると存じます」
「二つ目は複式簿記を採用したいと思っております。日々の現金の出入りは、さきほど大熊さまが説明くださった現金出納帳で掌握できます。残高を確認するには有用でございますが、現金という財産の一部しか見ることができませぬ」
「財産は現金だけではございません。米俵がたくさん倉庫に積みあげられているとします。この米俵は確かに財産でありますが、これだけ見て喜んで良いでしょうか?
税の一部として納められた米俵は自分のものに間違いありません」
「しかし一時的に商家から借り上げた金で買ったものなら、借金ですので金を返さなくてはなりませぬ。同じ米俵であっても財産なのか、借金を返さなければならぬ代物なのか、判別できる仕組みが複式簿記によって明確になります」
「複式簿記はつぎの三点でたいへん優れた仕組みでございます。
一つ、借方と貸方の一致により、自分の間違いをチェックできます
二つ、理路整然とした仕組みによって、取引を漏れなく記録できます
三つ、商品ごと、事業ごとの利益が算出できます」
「いちど聞いて呑み込める話しじゃないのう。わしゃ頭が痛うなってきたわ」
「そうでございますね。銭など賤しいものなど関わりたくないという 武者たちが多い今の世の中。どうか大蔵大臣として大局観に立ってご判断ねがいたします」
「実務者の立場から言わせてもらうと、たしかに心ひかれる提案でござる。もっと確実で分かり易い記帳の方法がないものか、それがしも考えないわけでなかった。今の話しを聞いて、なるほどと頷けるところがおおい。是非ご教授ねがいたい」
「私も率直に申しまして、基本的な原則しか知識はございません。実務を担当している皆さんと一緒に打ち合わせをしながら作り上げてゆきたいと考えております」
「話しを戻しますが、金倉の引き継ぎはせんじつ終了しましたね。大蔵大臣、貯蔵されていた金額はどのくらい有ったでしょうか?」
「ふむ、細かい数字は大熊 長官より答弁させます」
うん、どこかの国の国会答弁みたいな返事に聞こえた。
「代わりに私からお答えしましょう。七千九百両ほどと記憶しております」
「ほかに資産はありましたでしょうか?」
「貸付金が千二百両ほどありました」
「借入金はいかがでしょうか?」
「まえに話したとおり、ございません」
「そうなりますと引き継いだ時点での財産目録は、現金が七千九百両、貸付金が千二百両で、ソロバンを使いますと、このように合計九千百両となりますね。かんたんに申しますと、左側の貸方にふたつの項目がならんで合計が九千百両。右側が貸方で項目の名称を資本金とでもしておきましょう、九千百両が計上されます。これで貸方と借方が同一金額となって釣り合いがとれます。すべての取引はここから出発いたします」
「ただ金倉を調べたのは お披露目の翌日だったから四月二十六日だ。五月十日に第一回目の執政会議が開かれた。二日後の五月十二日に胎内川改修工事の一回目の会合が招集された。その後に法務大臣の打ち合わせがあったし、建設大臣や農水大臣との会合もあった。半月ほど経過しているから残高も変わっているだろうな」
「では景虎さまの許可をいただいて、さいど財産目録をつくるため金倉を調査しましょう。六月一日を新年度の発足として、半月の猶予期間に大蔵省の吏員にたいする勉強会としましょうか。この点、後手にまわったことお詫びいたします」
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