第百二十三章 天下布武

 景虎さまが懐から短冊のような紙をとりだした。


「先日、墓参りにいった帰りに、林泉寺に寄って大和尚に会ったのじゃ。そのおり大和尚から『如何なる世をつくる積もりか』と問われた。『戦さのない平和な国をめざしたい』と申し上げた。しばらく考えておったが、スラスラと書いてくれたのが、この短冊でな」


 そこには「天下布武」と認められていた。


「ええっ! 信長が稲葉城を攻めおとしたあと地名が気に入らず、よき名前がないかと沢彦和尚に問うた。和尚が岐阜は如何と返答し、信長が快諾した折りですよ。たしか朱印状におす判の文字を何にするか相談をうけて、この言葉を打診したら、いたく信長が満足した曰く付きの代物ですよ」


「そうだわねえ、日本人なら誰でも知っている常識みたい言葉ですもね」

「それがしは由来について分からぬが、天下を武で布く、とは良い四文字でござるな」

「大和尚の話では字面のうらに深い意味があるそうじゃ」

「ほう、武力で天下を治める、としか読めぬが...... 」


「そもそも『武』という文字はほこを止める意味が込められているそうじゃ。古典の『春秋左伝』のなかに『武の七つの目的をそなえた者が天下を治めるにふさわしい』とあるそうだ。七つの目的とは次の通りだ。

一つ、暴力を禁ずる

二つ、戦さを止める

三つ、大国を保つ

四つ、功績を成し遂げる

五つ、民を安心させる

六つ、大衆を仲良くさせる

七つ、経済を豊かにする

つまり天下泰平の世を創る決意を表明するものだ。どうじゃ、まさに『われの理想に合う言葉である』と思わんか」


「そういう奥深いものとは、わたしも初めてきいたわ。言われてみると景虎さまにピッタリの文言ね」

「まあ、著作権があるわけでなし、先につかった者が勝ちではあるな。印判だけでは勿体ないから、戦さで掲げる大旗のひとつにしたら如何でしょうか?」

「そうじゃのう、戦さの赴くところ常に軍営の中心で翻っておる姿が目に浮かぶようじゃ」


 その光景をそれぞれの胸で思い浮かべていると、景虎さまが切りだした。


「古今をとおして名君といわれる人はどのような人物であろうか? わしに名君の資格があるか不安なのじゃ」


「そうですねえ、唐の二代皇帝の太宗は名君で、唐の全盛期を築きました。その治世のあり方は『貞観政要じょうかんせいよう』の本に凝縮しております。平安時代の初期に伝来し、政治を担う権力者に愛読されてきました。この本は林泉寺の書庫で見つけました」


「そうじゃ、大和尚が講義なされた本の一冊だった。それほど大事なことが書いてあるとは知らず聞き流しておったのか。余の心構えの甘さがいたすところじゃ」

「頼朝公の妻、北条 政子は印刷して配布しようとするほどの信奉者でした。源氏が三代で途絶えたとき、後鳥羽上皇が承久の乱で、権力の復権を狙います。動揺する御家人をまとめ上げ、勝利するのは政子の的確な政治的な判断が大きかったのでございます」


「曲がりなりにも武家の政権が続いておるのは、この本にも一因があると申すのか」

「女性の政子が、誤りなく御家人たちを導いた陰に、この本が少なからず貢献したと確信しております」

「では、本では どのように記されておるのじゃ」


「一つは、まず自身の身を正すこと。欲望をおさえて奢侈しゃしに走らず、万民の手本となる私生活を送ることであります」


「越後の国はいまだ貧しい。われは贅沢をする気もないし、放縦な生き方など、する積もりもないわ」

「中国は人口もおおく、財物も豊かであります。国中の美女を侍らして放逸な生活に明け暮れる暗君をまず戒めたものでございます。皇帝がにぎる絶対権力に対して自制を訴えたのでしょう」

「わしも民のくらしを安寧にする道から外れぬよう心いたすぞ」


「二つ目は部下の諫言をよく聞き入れる度量でございます」

「たしかに耳にいたい忠告は、誰しも聞きたくないものよな」

「暗君はお気に入りの臣下の言葉しか信じませぬ。広く臣下の進言に耳を傾ければ、いちぶの側近に耳目をふさがれることがありません」


「国主といえども人間に変わりはない。ときには過ちも犯すであろう。そなたらが何時も傍にいて、きびしく問い糾してくれと願うぞ」

「はっ、そのお気持ちだけは お忘れなくお持ちくだされ」


「三つ目は人材の登用をはかり、適材適所に配置して使いこなす能力が不可欠になります。時には自分に敵対した陣営に属していた人物であっても、有能と見極めるなら積極的に取り立てる器の大きさが求められます」


「まさしく人材を得るのは至難のわざじゃのう」

「どんな時代であっても、人材は必ずおります。われらの方が、それに気付かないだけと戒めるのみでございます」


「有名な『かいより始めよ』の隗が人材招致の極意を語っております。礼をつくして相手に仕え、謹んで教えを受ける。これなら自分より百倍すぐれた人材が参ります。相手に敬意をあらわし、その意見にジッと耳を傾ける。こうすれば自分より十倍も優れた人材が集まってきます。相手と対等に振る舞う。これでは自分と似たり寄ったりの人間しか集まりません」


「いろいろ勉強になった。こんど大和尚をたずねて、その本を書写してみる。ただ読むより書くことで一層、身につくであろう。少年老い易く学成り難し、と言うではないか」




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