第百二章 北国船

 四月三日、二艘の北国船が柏崎湊を出航した。自分が乗りこまないと、砂鉄を掘る場所を指示できない。側近衆から金津 新兵衛を主将、小島 彌太郎を副将として任命した。旗本として崖虎さまの側近として仕え、信頼もあつい。


 自分はあくまでスタッフの立場で、直接 部下の指揮命令は取らない。教練の指揮官として二人は、常に部下とせっし気心も分かっている。当初の計画通り百名が二艘に分乗した。九郎殿の手代も今後の事があるので同乗している。


 砂鉄を掘る日数はあるていど予測がつくが、往復の航路の日数が見当もつかない。凡そのめやすとして、最大で三か月を予定している。それと麻袋はあと二百袋を予備として追加した。


 亜希子や子どもと別れるのは辛いが、致し方がない。お土産といっても何も思い浮かばない。港まで見送りに来てくれた。両手に子どもたちを抱え上げて別れを惜しむ。互いの視線をからませる、顔がぼやけるのは涙目のせいか。


 九郎殿とお銀さんも盛んに手を振っている。夫婦仲がよろしいのは自分としても大変うれしい。平六の軍資金から一部をまわしたが、九郎殿には今回も大きな貸しができた。


 船首は丸みを帯びて尖っていて波切りは良さそうだ。左右の弦には波よけ板をたて、櫂を漕ぐ穴が開いている。船尾が大きく上へ反り返っている。


 昨年、九郎殿にチャーター船を頼んだときに、特別装備をしてもらった。大がかりな改装でなく、櫂をこぐ本数をふやすよう指示した。漕ぐ人数は有り余っている。三十分ずつのローテーションを組めば、バテることはないだろう。


 順風ばかりと限らない。全航路を帆走できるとは期待できない。漕ぐ機会がおおいと予測される。とくに津軽海峡を横断するさい、海流は西から東へ流れている。


 往路は潮の流れに乗ってスピードは速いが、復路は逆流となる。函館の手前にある恵山あたりから海峡を横切って下北半島をめざす航路を取らざるを得ない。


 潮のながれを考えると黒マグロで有名な大間町を目的地とするくらいで丁度よいかもしれない。大間原発工事で函館が三十キロ圏内で反対運動が起きたとニュースを記憶していた。すると海峡の幅はもっとも短いところで二十キロくらいか。


 ともかく横断するときは順風と人力がともに必要だ。風待ちをする場面が生まれるかもしれない。海峡を渡ってしまえば沿岸反流で、岸辺に近づくと東から西の海流に乗れる。


 帆柱は船体の中央に直立し、二本の支持索は船尾からしか取っていない。船首から支持索を取っていないのは向かい風を考えず、順風しか帆を張らぬからだろう。逆風の時は帆をおろして櫂を漕ぐしかない。


 舵は固定されておらず吊り下げ式で、水深にあわせて引き上げて浅い港に入港できる仕組みになっている。荒天のときは荒波に打たれて舵が故障しやすい欠点があり、遭難する主な原因の一つになりそうだ。


 帆は一枚の大きな横帆を上げている。横三尺縦一間のムシロを、縦に十段横に十九列を上下の棒に結びつけている。上下についている帆桁ほげたでムシロを緊結している。


 ムシロの一列を一反とよんで、船の大きさと帆の反数はほぼ比例していた。五百石では十九反、千石では二十五反、千五百石では二十九反となる。帆の反数を数えれば船の石数を当てることができる。この船は二十二反なので七百五十石ほどの船になる。


 船尾の左右から上下の帆桁に綱がはられ、一方をゆるめ片方を引くことで帆の向きを変える。材質は苧綱、日本麻で張力につよいので多くの箇所で使われていた。


 西洋の帆船はフレームと外板が構造体となる。和船は西洋の帆船とちがって、大きな板を組みあわせた板構造、今でいうモノコック構造である。木材の使用量が少なく、全体の重量が軽くできるので積載量がふえる利点がある。


 ただ甲板が水密でなく、板をはめこんで並べただけ。大波をかぶると固定されていないのでバラバラになる。荷物を積み卸しするさい、板を外して簡単に船倉に入れることができる。甲板をはめこんだ上に、更に荷物を積みあげる事までした。


 波がうちこまれると荷物は水浸しになり、たちまち浸水してしまう。利益を優先したもので、この仕組みは幕末まで改善することはなかった。まさに「板子一枚 下は地獄」の世界に船乗りは生きていた。


 対馬海流が南から北へ流れているが、黒潮とは比べものにならないほど小さい。無いより増しのつもりで沖だしぎみに北上する。帆柱と船首の中間あたりに、高さが一間半、幅が二間半、長さが一間半ほどの物見台が立ちあがっている。ここに船頭が立って指示をだす。


 岸と船をはこぶ伝馬船てんませんが、船体と直角で甲板に伏せて置いてある。


 乗員が二十名、それに五十名が加わった。誰もが船底より甲板を望む。交替制にして不満を起こさぬよう気をくばる。船がはじめて、という者もいて船酔いにかかって、船端から顔を出してゲィゲイ吐いている。十日ほど苦しんだが、どうやら乗りこえたようだ。


 体力の維持を考えて、櫂を漕ぐ日課はローテーションを組んでおこなう。兵士たちも、する事もなく退屈なので気晴らしに丁度よい運動になった。


 雨はときおり降ったが大風に襲われることもなく順調に北へ進む。櫂の補助が大きかったのか、遅いのか早いのか分からぬが寄港予定地の十三湊とさみなとに着いたのは四月二十四日だった。


 伝馬船をおろし、金津 新兵衛と手代と三人で上陸する。水や食糧の補給があるのと、久しぶりの陸地を踏みたいだろうと上陸を許可する。浜辺から離れぬよう厳しく言い渡す。


 さすが三津七湊のひとつに数えられるだけあって、大きな町並みが続いている。南へすすむと町屋がせいぜんと配備されてあった。そのなかで大きな店に手代が入っていった。すぐ出てきて手招く。


 船問屋の大店らしく、番頭・手代や丁稚・小僧がいそがしそうに働いている。主人らしき貫禄のある人物が帳場のおくに座っていた。腰に両刀をさした侍すがたを見て、主人が腰をかがめて帳場の先までやってきて正座した。


「これはこれは、遠くからようこそお越しくだされました。お話しは荒浜屋さんから伺っております。ご依頼の通詞はこちらに控えております。手前どもは蠣崎さまとお取引がござります。店の者を紹介したいところですが、後日さわりが出ますと店の信用に傷がつきかねませぬ。この者は店とは関わりがございませぬが、人物は保証できまする。お気に召すなら雇うのも良し、お好きなように使いくだされ」


「これは無理な願いを聞いていただき、まことに忝く存じる次第。感謝を申し述べる。ではさっそく拝借してまいる」


 荒浜屋の手代が懐から金子らしい袋を主人にそっと渡した。無論ただとはゆかない、事前の打ち合わせで手打ちがされていたのだろう。


 通詞は二十代なかばで眉毛がふとく骨格がハッキリしたアイヌ民族らしい顔つきをしている。和人と結婚した二世か三世かもしれない。


 名前と年令を聞いたら、二十四才で弥平と名乗った。父親は分からず母親の手で育てられた。アイヌの母も昨年亡くなって一人で暮らしている。店から声がかかる時に船荷をつむ人足をしてきた、と自分から身の上話しを始めた。


 僻んだ様子もなく、素直そうな青年だ。何度か松前を往復したことがある。それなら龍飛岬まで水先案内をしてくれそうだ。





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