第九十一章 忍者真田
軍師殿がみせなかった裏の顔を知ることができたのは、ひょんな事からだった。景虎さまの今後について話しあうため自宅を訪問したときのこと。通された部屋の床の間に「白山大権現」と大きな掛け軸が掛けられていた。
床の間にかざる掛け軸は山水画など絵がおおいので、書を掲げているのは珍しい。字面からすると、軍師殿が信ずる宗教は神道なのか、と思っていた。
景虎さまの胸の内をきいて一段と教練に拍車がかかった頃、軍師殿の自宅に顔をだした。断りもなく訪れたら、来客中だった。これは失礼と帰ろうとしたら、軍師殿が良い機会だから紹介しておくと部屋に招き入れてくれた。
部屋には二十代半ばの山伏が座っていた。
「わしの弟で矢沢 頼綱と申す。こちらは永倉 新一先生でござる」
いささか驚いたが、互いに挨拶を交わす。
軍師殿は、弟から逐次しらせが届くので、真田を出立した後の経過をよく把握していた。わしから説明すると、話しはじめた。
「今のところ当家は武田家と干戈をまじえていない。目立たぬよう気をつければ問題はない。用心して山伏の装束で来させた」
「お主が予言していたとおり二年前の五月に武田 信虎、村上 義清、諏訪 頼重の連合軍が佐久に侵攻してきた。主君の海野 棟綱さまを旗頭に戦ったが、多勢に無勢で相手にならず一敗地にまみれた。主君は関東管領の上杉 憲政さまを頼って亡命なされた」
「弟は降伏したが、懇意だった諏訪 頼重さまの取りなしで、なんとか知行は安堵された。ところが信虎が駿河に赴いた隙をねらって、六月に息子の信玄が当主の座を乗っ取ってしまった」
「この間隙をぬって管領の上杉氏が七月に佐久へ出陣した。この機に諏訪氏は武田・村上連合軍に断りもなく、管領と和睦して所領を分割してしまった。武田家は当主争いで混乱して力が弱まると踏んだのだろうが、浅知恵だったわけだ」
「当主となった信玄は、しっかり当主の座を固めており、地位は微動だにしなかった。すぐさま諏訪氏を攻め立て一撃で破った。頼重は降伏して甲府へ護送された。そして八月に自害を強制されて、諏訪氏は滅亡のうきめに会ってしまわれた」
「娘が美貌でのう、信玄が目をつけて側室にしてしまったわ」
「諏訪御料人ですね。武田 勝頼の母になります」
「武田 勝頼って何者だ?」
「信玄が亡くなったあと、武田家の当主となります」
「うーん、殺害した父の娘を側室にするとは、信玄も阿漕な真似をするものよな」
「弟が養子に入った矢沢家は、諏訪氏の一族なので関係もふかい。信玄の仕打ちに、さすがに腹をすえかねて、内々に村上 義清と手づるを取っておる。そなたから聞いた砥石崩れの話しもあるしな」
「砥石城に矢沢さまが入城しておれば、こちらも動きやすいですね」
「これからも連絡を密にして漏れが無きようせねばならぬ」
気になったので聞いてみる。
「山伏すがたは着慣れているのか、様になっておりますね」
「そうか、お主は真田家の歴史を知らぬのか」
と 概略を語ってくれた。
真田氏は大伴氏を出自とし、四世紀後半ごろ
真田の別当が加賀の白山比咩神社を崇拝していた。八世紀ごろ、その分霊を
真田古道とよばれる真田の里から北へむかい上州へぬける道に鳥居峠がある。標高は千三百六十二メートル、中央分水嶺となる。群馬県側に降った雨は利根川を経て太平洋へ。長野県側に降った雨は千曲川、信濃川を経て日本海へ注ぐ。
四阿山頂の白山大権現への参拝口として、鳥居峠に立てられた「一の鳥居」がある。近くに中社があり、
白山大権現の山岳信仰に、山伏・行者・修験者らの天台・真言密教が加わり、独特の荒行によって超人的な能力を身につけるようになった。
科学的で合理的な伊賀や甲賀の流れとちがう、呪術や妖術的な真田忍者は異質なものである。そして諸国に散在する山伏・行者・修験者たちが、貴重な情報を真田氏へもたらしてくれた。
立川文庫の「真田十勇士」の忍者 猿飛 佐助は、鳥居峠の麓に閑居していた鷲尾 佐太夫の子として登場する。もう一人の霧隠 才蔵は、伊賀忍者の頭領・百地 三太夫の弟子として姿をあらわし、石川 五右衛門と兄弟弟子とされる。
「猿飛 佐助や霧隠 才蔵は真田十勇士として、前の世でも人気者でした。もっとも登場するのは六十年もあとの時代ですがね」
「そうか、わしたちの孫の世代じゃな。それでも真田の名前が、後世にそれ程もてはやされると聞くとウカウカしておれんな」
「これだけの歴史がある真田家ですから、軍師殿が真田領に思い入れがあるのが理解できました。先祖伝来の魂がこもった里ですもね」
「今は越後の統一に全力を注がねばならぬが、次は信濃国を目指さねばならぬ。しっかりと弟と手を組んで、信玄ごときに好きなことはさせぬ」
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