第八十八章 母の死

 会見の最後に、定満から「柿崎城主の柿崎 景家と会ってみる。感触が良ければ連絡をよこす」とつけ加えてくれた。これほどの好意を示してくれるとは予想外だった。兵の派遣までは出来ぬが、陰から支援しようとの意思表示であろう。


 さすが老狐、景虎さまの実力を確かめてからでも遅くはないと、日和見を決めこむつもりようだ。なにせ拠点とする琵琶島城から南へ五キロほどに、三分一原の合戦で敵方の総大将をつとめた上条 定兼の居城である上条城がある。


 戦死した定兼のあとは上条政繁が家督を継ぎ、城主として領地を支配している。合戦に勝利したが、何の処分すらもできなかった。当然ながら反為景派だ。


 為景派といわれている安田城や北条城も、まだ旗幟を鮮明にしていない。周囲はまだ去就を定めている者がすくない、そのあたりの情勢を模様見しているのだろう。


 あとから軍師殿から景虎さまと、安田城と北条城を訪れた結果を聞いた。積極的に手をうたない晴景さまに失望していたのか、景虎さまの出陣に喜こんで出兵の約束をしてくれた。


 これで為景派の城主すべてと面談できた。いずこも景虎さまが自ら足をはこんだ行動力に、晴景さまとの違いを感じたようだ。どの位の兵士を派遣してくるか未定だが、志願兵をふくめると二千名ほどになる目途がたった。さらに栃尾城に籠もる兵は五百余名がいるだろう。


 軍師殿は教練のあいまを縫って、平六がこもる小栗山城を攻略する策を練っている。この城は山の稜線を利用して三つの城と砦が連なっている。南から小栗山城、四百メートルほど北に大面城、そして西北西に五百メートルほど延びた稜線のいただきに桝形砦、この三つが一体となって連携をくんで守備を固めている。


 さらに小栗山城から南南西に二キロ弱ほど離れて見附城がある。信濃川の支流である刈谷田川を遡ると、栃尾城の東を流れる川とつながっている。この川は信濃平野の東側に連綿と続いている山並みを突き破って、上流の水を集めて流れこんでいる。見附城は山並みの海側で、首根っことも いえる入り口に築かれている。


 栃尾城に入城するのは、この川に沿って行軍するので、側面から腹を突かれる最も避けたい戦い方になる。栃尾城は刈谷田川の左岸に位置するので、どこかで川を渡らなければならぬ。川を渡るときが、また一番まもりに弱いときだ。


 ときおり平六との小競り合いが続いているので、負傷者は捕虜に、そして死者は献体に活用している。とらえた捕虜を訊問して各城の縄張りをくわしく聞き出す。軍師殿の意見は、力攻めは大勢の犠牲者が予測されるので、出来れば合戦で決着をつけたい。城から出陣させる方策を練っているとのこと。


 危惧されていたが五月七日に虎御前さまがお亡くなりになった。急に容体が悪くなったので、景虎さまは死に目に会えなかった。慰めは宇佐美 定満の会見のため、四月九日に栖吉城へ訪れたさい面会している。


 すぐ景虎さまは馬廻衆の五名と共に、騎馬で栖吉城へ向かった。出発する前に会って、葬儀について話しあった。葬儀はもちろん林泉寺でおこなう。一族が眠る林泉寺の墓地に埋葬したいとの希望だった。


 史実では為景さまの遺体を甲冑姿で護衛しながら林泉寺へ運んだ。今のところ平六の乱いがいは、晴景さまの宥和政策で表面上は落ち着いている。


 ご遺体を柏崎まで運んで海路をとるよう勧めた。こちらは真っ直ぐ柏崎へ出立した。折り良く九郎殿は町にいた。すぐ事情を説明し船の手配をお願いする。次の日、護衛が二十人ほどついて景虎さまと弟にあたる景信さまが到着した。


 覚悟を前からしていたのだろう。蒼白な顔で口をキリリと噛みしめている。遺体をおさめたお棺に二メートルほどの棒を二本くくりつけて、四人の人足が担いできた。


 九郎殿の挨拶もそこそこに、直江津へ出発する。護衛と人足はここで栖吉城へもどった。馬廻衆をふくめて八名が乗りこむ。九郎殿が船頭をかって出た。九郎殿もここぞとばかり張り切って船を操っている。


 夕方に今町に到着した。すぐ店の者を林泉寺に走らせ、人足を四人雇った。暗くなるころ林泉寺に辿り着いた。すでに本堂に祭壇が設けられている。


 前の世では仏教は葬式仏教と阿諛され、教えそのものは生活に密着していない。最もはやく葬式仏教化したのが曹洞宗と言われる。十五世紀までに、完全に葬式仏教に変貌してしまった。四代目の瑩山紹瑾は、民衆の求めに応じて、加持祈祷や葬祭を大胆にとりいれて、庶民化を進めた。


 只管打坐といわれる純粋な禅からすると堕落とみるか、大乗仏教の本義である菩薩道の発露とするか。ともかく曹洞土民と言われるほど、寺院の数では日本一といわれる大宗派として存続してきた。


 前の世における葬儀の形は曹洞宗が元祖といえる。死者を成仏させることに重点をおいて「仏」として扱う。死者の髪を剃る=出家の形にする。戒名を与える=出家者のしるし。戒名を記した位牌を安置する。これらは曹洞宗から始まった。


 髪を剃るのは前の世で廃れたが、この時代では当たり前だった。「三年目」という落語がある。仲の良い夫婦者、妻が長患いで死期を覚る。


「私が死んだら、すぐ再婚するんでしょ」夫は「嫌ぜったい独り者を通す」と誓うが、妻は不安を隠せない。


「じゃあ、祝言の夜、お前が幽霊になって出ておいで。お前が幽霊なら俺はこわくない。新妻はビックリして逃げ出す。噂になって誰も嫁の来てがなくなるさ」


 安心したのか程なく亡くなる。親戚から強要されて後妻をむかえる。祝言の夜は、いつ出てくるかと朝まで寝ないで待つ。次の日も次の日も待つが現れない。


 子どもも生まれて三年たってしまった。三年目の命日に墓参りをして、夜中にふと目が覚めた。


 障子にサラサラと髪の毛がふれる音がして、先妻が長い黒髪を振り乱して立っている。夫がビックリして問い詰める。

「何だって今ごろになって出てくるんだ」


 先妻がくどく。

「お棺に入れるとき、皆さんそろって髪の毛を剃り落としたでしょう」

「そういう習いだから、一人ずつカミソリを入れて髪を下ろしたさ」


「ですから坊主頭なら愛想を尽かされると思って、三年間、髪の毛が伸びるのを待っておりました」


 落語に登場するくらいだから普通に行われた習俗だったのだろう。僕も成仏を祈ってカミソリで一房 剃りおとした。さすがに病におかされ、やつれて頬もこけていた。苦悶の表情もなく穏やかな顔なのが救いだった。


 前の世では、葬式に出る機会はなかった。太鼓や鳴り物がひびいて、葬儀とは読経する僧侶の声いがいは無音で行われると思っていた。意外と騒々しいものだと、認識を改めた。それ以外は、そう違和感なく葬儀がおわった。


 晴景の名代として蔵田五郎左衛門が出席した。為景は病気を理由に三条城の山吉豊守城主を遣わした。見舞いにも来ず、今さら景虎にかける言葉もなかったのだろう。


 ご遺体は林泉寺の脇にある、歴代の長尾家一族がねむる墓所に埋葬された。お棺を皆で担いで墓所へ運ぶ。すでに掘り起こされていた穴へ静かに縄で降ろす。交代で土を一すくいずつお棺の上へ埋めてゆく。景虎さまはご住職とならんで立って、お経をずっと読誦していた。


 それぞれの思いを胸に、無言のまま北上した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る