第七十三章 元 服

 為景さまは重篤な病気を経験して、あらためて越後の将来を見直したようだ。平六の乱は治まる気配はなく、当主の力量を問う声があちこちから聞こえてくる。軍事で手痛い敗戦をし、外交で事態を打開しようとしたが混乱を増長する結果となり八方ふさがりになってしまった。


 もっとも晴景さまが無能でなにも出来なかったから、曲がりなりにも越後は平穏で

虎千代さまが世に出る時を稼いでくれた一面もある。先がみえない展望に政務がなおざりになって停滞し、漁色にふけっているとの噂も流れてきた。


 亜希子の正体がバレてしまったが、命を救ってくれた功績に免じて不問にしてくれたようだ。恐れていた晴景さまの診察も持ち出されなかった。


 まず為景さまが手をつけたのは虎千代さまを還俗させて三条城へ連れて来ることだった。八月に元服させ景虎と名乗らせた。そこで正式に軍師殿が紹介されて傅役に任命された。


 亜希子は賄い方に献立の注意書きを書き連ねて渡してある。為景さまで失敗しているせいか、景虎さまの食事内容には指示通り励行している。九郎殿の卵も好評で麦飯中心で多種類の食品に彩りをそえているそうだ。


 一年間じっくりと馬術と軍略を軍師殿が教えこむこととなった。孫子や呉子の兵法書は有名だが、六韜りくとう尉繚子うつりょうしも教材に用いている。軍師殿がこれほど戦法を研究していたのか、あらためて感心させられた。


 六韜は三国志の劉備や家康が愛読した書でもある。その一節に「天下は一人の権力者が我欲で好き勝手にして良いものでない、万民と共有すべき存在である」との統治の原則が高らかに謳われている。


 家康が死の床で「天下は一人の天下に非ず。天下は天下の天下である」と言ったという故事がある。上杉 鷹山の座右の銘とした文言と重なる。


 他にも「褒美は一番位の低い人に与え、罰は一番位の高い者を罰する」と信賞必罰の原則。「将軍は兵士と同じものを食べ、同じものを着よ。さもないと兵士の気持ちをつかめない」と人心の掌握。「敵の将軍を処刑しても兵士に苦しみを与えない」と勝敗のけじめ。兵法のみならず上に立つ者の心構えも教えている。


 夜は為景さまが一代記を語る。年寄りは回顧談が大好きだ。都合良く脚色している部分はあろうが、目を輝やかせて聞き入る息子に、喜ばない親はいない。実戦のなかで体得した勝負の勘やアヤは経験したものでないと会得できないものだ。


 実戦のなかでの指揮者の振るまい、特にしのぎ合いの戦闘のなか、勝敗がどちらに傾くかわからない混戦で如実にあらわれる。冷静に合戦のながれを見、端然と落ち着きはらった指揮官の態度は味方の士気におおきく影響する。


 心の持ちようは戦場の経験で培われてゆく。経験した者が持つ、なまなましい話しはきっと景虎さまの今後のいくさに大いに役立ってくれるに違いない。


 自分は一週間おきの頻度で三条城につめた。年齢はかろうじて二十代に留まっている。元より政治学とか宗教論とか教育を学んできていない。歴史オタクとして戦国時代が好きだったくらいの素養しかない。景虎さまに自分なりに考えトツトツと述べるしかできない。


 軍師殿と話した懸念の一、権威を認めるのは良いが、あまりに尊重すぎる考え方。権威に弱いと表現しても良いくらいだ。これはこの時代の一般的な考えで景虎さまだけが特別というわけでない。武将たちは官途受領名かんとずりょうめいを欲しがり、将軍から名乗りの一字を偏諱へんきとして頂くのを無上の光栄と考えた人々が多かった。


 しかし天下人をめざすなら、権威より実益を重視する合理性をどのように植え付けるか。同じ人間だと強調するため前回は下品な表現をつかったが、十二才ともなると理論的に説明しないと納得してくれない。歴史のおさらいをして、武士の成り立ちと幕府政治の始まりと経過を自分が分かっている範囲で教えた。


 将軍は武士たちの権益を守るため担ぎ上げられただけのもの。今の幕府の体たらくを見れば、不要の存在でむしろ弊害が大きい。戦のない平和な国をつくるためには、あたらしく景虎さまが日本の将軍にならなければならない。


 この考えをくりかえし教えて頭に刷り込むしかないのか。自分の説得力のなさが苛立だしい。自分が出来るところからやるしかない。新しい国造りの完成像をともに考えてゆく方法を採用した。取りあえず法治国家をめざす。この体制が最善でないとしても、前段階の人治国家よりはるかにマシだ。


 法でなく人が治める国家。前の世の北朝鮮は元よりであるが、中国も脱皮をめざしているが抜け出ていない。権力者の恣意や情実によって政治が左右される。地縁・血縁・縁故・党員・賄賂など有形無形の便宜が飛ぶ交っている。


 一気に基本的人権など持ち出せる社会でない。国民の意思によって制定される法律など望むべくもない。明治政府の欽定憲法も国会など論外だ。しかし中央政府と地方政府が両立する制度は中央集権体制にとって必要不可欠なものだ。


 統治機構をどのような姿にするか。秀吉や家康の体制は分国統治で、内政に関しては一揆やお家騒動など不祥事でも起こさないと手出しはできない。大身の大名を領土拡張とともに作り上げてゆく方法は、秀吉や家康と変わらない国の形になる。やはり行政官を育成して都道府県体制を見据えるしかないのか。


 いちど握った権力をあとから取りあげるのは革命騒ぎとなる。それなら最初から、あるていど限定した権力を与えてゆけば良い。大名を知事として行政官のトップの役割で出発する。行政能力のない者もいるだろうから、能力の適否を見極めて軍事部門のプロで活躍してもらう。


 最後はパクス・パシフィカがある。大量の軍事組織と移民が控えているのだ。できるだけ資源と人員を損傷せず温存して日本統一をめざす戦略が必要である。


 これらを話し合う過程のなかで景虎さまの政治にかんする知識と智恵が熟成されれば権威にたいする考えも改まってゆければ嬉しい。


 懸念の二は、宗教と政治の関わりである。信長がおおきく宗教界と対立したのは比叡山延暦寺の焼き討ちと、一向一揆との死闘である。延暦寺の焼き討ちの一番の原因は、延暦寺が朝倉・浅井と組んで信長と戦ったからである。信長は延暦寺を敵対する大名たちと同じ勢力と認識して攻めたてた。


 八角氏や三好家など近隣の大名も何度も煮え湯を飲まされてきていた。しかし仏罰を被るという恐れが抑止力になり、仏敵という世評も気にしたであろう。その意味で信長の革新性の一つといえる。


 延暦寺の政治に介入する歴史は、第七十二代の白河天皇が法皇として政治の中心にいて最高権力者でありながら 「京都を流れる鴨川の水害、サイコロの目、そして強訴をくりかえす延暦寺の僧兵、この三つが余の意のままにならぬ」と嘆いた言葉で有名である。


 だが今の時点で、この歴史を教えたり、延暦寺の腐敗や堕落を説明したところで聞き流されてしまうだろう。やはり目の前に立ち塞がって、八方塞がりの状況で呻吟しなければ決断できないと思われる。信長も何度も痛い目にあったからこそ憎さも憎しと断行したのだろう。


 一向一揆はとうめん越後で大きな問題になっていない。一向宗は為景さまが越後の布教を禁止している。越中になんども出兵し、一時は越中守と名乗るほど制圧した。一向宗に足を引っ張られ、今では国境近くの椎名氏の居城、松倉城を残すくらいである。


 隣国が加賀国、ここは門徒領国とか百姓が持ちたる国と言われている。石山本願寺の野望は、日本に加賀国のような石山本願寺法王の国をつくりたい。本願寺の法主を国王とする仏法の国をめざそうとしていた。信長は何としても阻止すべく、あのような呵責な戦を貫徹する方策をとるしかなかった。


 これも越中へ乗りだしたとき避けて通れない問題になる。信教の自由を保証しながらも、政治と宗教を明確に立て分ける政策をどう作り上げるか? 正念場を迎える。



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