第二十五章 長岡街道

 前の晩に食べた料理は、前とかわらず美味しくて、たらふく食した。古倉さんも新鮮な魚介類を久しぶりに堪能したせいか、満ち足りた笑顔で朝をむかえた。前の晩に荒浜屋と一緒にメモを確認した。今朝はすぐ栖吉城へ出発するので、帰ってくるまでに必要な職人の手配をお願いした。


 一の倉庫は自宅に近く手頃な倉庫を探す。二は陶芸の職人を呼ぶ。三は小間物屋の気の利いた手代を呼ぶ。四は鍛冶屋と桶屋を呼んで相談する。五は菜種を市場に卸している仲買人をよぶ。六は心当たりを探すしか手がなさそう。七は大工を手配する。ただアイディア商品なので真似をされたら終わりか。


 とても一日で終わる話しでないので、二・三日かけてプロたちと打ち合わせの予定をたてる。堺へ派遣する鉄砲鍛冶は、懇意の親方にめぼしい人間がいないか当たっている。本格的な製造が始まれば、職人を大勢つかって一大工場になると利を説いているとのこと。硝石の養蚕農家は、絹問屋や仲買人に声をかけて山古志村ふきんを中心に探してもらっているそう。いよいよ動き出した。


 明日中に栖吉城から帰って来るつもり。明後日から半日で一業種ずつ打ち合わせができるよう職人たちの日程調整をしてもらう。朝ご飯を食べて五時半ごろ出発する。お菊も連れてゆく。十里弱というと単純に十時間かかる。


 女の足となると、もう少し余裕をみた方がいいかもしれない。お菊は歩きなれているので大丈夫と思う。心配は古倉さんだ。履き慣れない藁草履でマメを潰さないか心配だ。手代のひとりを案内にたててくれた。


 店のまえから南にむかい、すぐ北国街道に出て柏崎の中心街へむかう。立派な橋をわたると、すぐ柏崎宿。旅籠が軒をつらね、このあたりが繁華街らしい。ここが長岡街道の起点となる。長岡街道は弥次喜多道中の戯作者、十返舎一九の「金草鞋」に

登場する。長岡から柏崎への旅で通っている。


 そのまま直進すると間もなく古い寺が左手にあった。閻魔堂とある。すぐ十字路にぶつかった。ここを左にまがって北へむかう。六百メートルほど歩むと、石碑があった。「右高町を経て柏崎に至る、左刈羽を経て西山に至る」 どうも方向感覚が違う。逆から読むのか?


 ここを右に折れて、すぐ左へ。なにか北国街道と平行に北へ向かっているようだ。

間もなく川のわきを歩き橋を渡った。そのまま海岸線と平行に北へのぼってゆく。

うーん、間もなく、柏崎刈羽原発が建っていた海岸線が遠くに見えてきた。何度か見に来たので地形は覚えている。あの山の陰に原発があったのだ。


 この辺りの湿地帯が西山油田で原油を採掘していた、とその時に聞いた。ここまで三里ほど。ゆっくりめのペースながら一気に歩き通したので、近くの小高い丘で休憩をとる。心配したとおり鼻緒があたる皮膚があかくなっている。古倉さんも足裏をやさしくマッサージしている。竹筒の水で喉をうるおす。気を入れ直して出発する。


 ここから東にむかい内陸部へ入ってゆく。川沿いの道を峠にむかって登る。緩やかな勾配なので息を切らすことはない。五キロほどで妙法寺宿に到着。道沿いに数軒、旅籠がならんでいる。最盛期には百戸以上の家があって七百五十人ほどの村人が住んでいたそうだが、未だそこまで発展していない。部落の入り口に素朴な石仏が並んでいた。


 部落を通り過ぎて大きく右に曲がった。 緩やかな沢にはいってゆく。小さな沼や湿地帯が続く。沢を回りこんで山みちの登り口に、赤茶けたドロや黒いタールの塊が見えた。原油独特の臭いが辺りいちめんに漂っている。


 あれっ!ここが日本書紀に書かれている天智天皇に献上した石油が取れた場所? 「越の燃土、燃水を献ず」と文献に記録されている。そうか、原油を採掘するときは、ここか西山油田を掘削すれば良いのだ。


 そこを過ぎて間もなく峠に辿りついた。妙法寺宿から二キロ五百メートルほど歩いたか。出発してから五里ほどと旅の中間点だ。ここで昼食をかねて休憩。お握りを取りだしてパクつく。藁草履をぬいで風にさらす。さいわい、古倉さんの足にマメはできていない。やはりお菊は健脚そのもの。旅にでて嬉しいのか、手代と並んで先頭を歩いてきた。


 峠から山あいをとおして信濃川流域の平野が霞んで見える。この先に懐かしの母校、長岡高専がある。急に涙腺がゆるんで涙がこぼれ落ちてゆくのを止められない。いぶかしげな古倉さんの視線を感じるが、なにも言わず黙っていてくれた。


 そっと手を握ってくれる心遣いがうれしい。時間の余裕があったら、ぜったい校舎があった敷地を見るぞ、と心に決める。


 気力が横溢してきたところで出発だ。あとはダラダラした下り坂。一気に山を下った。谷間をぬけたら信濃川の平野が目の前に広がった。峠から十キロほどで関原宿を通過。物見の松と書かれた石碑を見学したことを思いだした。


 戊辰戦争で長岡藩は幕府側の一員だった。政府軍と壮絶な戦いがあった。政府軍の本陣がこのあたりに構えた。長岡藩の状況を偵察するため、松の木にのぼった。松の木は交通の邪魔となって、伐採され跡地に石碑が建った。幕末からさかのぼること三百年、小高い場所にそれらしき松が生えていた。長生きしてね。


 そこから曲がり真っ直ぐで信濃川に出た。蛇行して出来た一面の河原が広がっている。この川を制御するのは大工事だなと実感できる。重機でもなきゃ無理っぽい。

人海戦術といっても、百年河清を待つ、の心境になる。橋は連結した空船をならべ、その上に板をわたした船橋だった。


 川をわたると真東の方向をめざす。平野の先に山並みが連綿と連なっている。その一番手前にある小高い丘の頂上に、建物が連続して建っている。幟や旗がなびいているのが見える。えっ、あれが栖吉城! 


 麓あたりが母校の長岡高専だ。歴史オタクを自称する身にとって、母校の裏山に山城があったなど不勉強の誹りはまぬがれない。恥ずかしい限りだ。うーん、何の変哲もない山だった、夢想だにしていなかった。比高は二百五十メートルほどあろうか。


 橋から五キロほどで長岡高専の敷地についた。百二十メートル四方の低い丘が平地より高く盛り上がっている。その北東の角あたりの一郭に校舎が建っていた。後ろは林の木立でおおわれ、村人が共同でつかう入り会い林のように見える。


 この辺り一帯が村落を形成して城下町らしい雰囲気を漂わせていた。もちろん母校の面影など期待していなかったが、この地を踏んでいたとの感傷に浸っていた。


「古倉さん、この辺りに母校があったんです」

「ああ、それで峠で...... 胸がいっぱいになったのね」

 古倉さんも涙を浮かべていた。これ以上、なにを言わなくても良い。二人だけが共有できる空間に二人で立っていた。

 

 敷地から百メートルも進むと城へむかう山道に行き着いた。尾根が真西に張り出しているので、平地から尾根伝いに頂上へ登ってゆける。もちろん敵が簡単に登れないよう、坂の途中に曲輪をつくって防御している。クネクネと折れ曲がった山道を登り切ると、南の尾根を平らに整地して馬場にしている。


 頂上の尾根は二つのブロックに別れている。手前が千八百平方メートルほどの本丸を中心として四段の階層に削られて、二の丸・三の丸が配置されている。三の丸と二の丸の間は深い堀で断ち切られ、橋が渡してある。その外側に腰曲輪とよばれる防御ラインが二段にわたって設置されて五十度くらいの切り土で削られているので、よじ登るのは不可能だ。


 奥のブロックは詰めの丸とよばれ三千平方メートルの広さをもち、北側と東側から登ってくる山道を防御している。二つのブロックの間は多重堀で、何層にもなる深い堀で削ってあり、一気に攻め込まれないよう備えている。


 建物はいずれも平屋建てで天守閣とよばれる多層の建物はない。どちらも要所に、土塁・堀切・横堀・竪堀・畝状になった空堀・虎口・枡形・石積みや乱穴を設置して、強固な防御陣を築いていた。


 山道を登り切って、門番へ書状をわたした。さあ、虎御前さま会ってくれるか。


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