第五十話
電車に乗り込むと、幾分か空いている席があった。
いつも使うときは駅がすぐそこなので立つ事が多いが、今回は少し遠いので座らせてもらう事にした。
長椅子の端っこに腰を落ち着けると、必然姫野さんと隣同士になる。
ほのかに甘い香りが漂ってきたので、できる限り距離を置こうと反対側に身を寄せれば、シートの布地僅かに身を覗かせる事となった。
「はぁ」
先ほど親衛隊に気をもんでいたせいかどっと疲れが押し寄せてくる。
「どうしたのコウ君」
「いや、ちょっと歩き疲れただけだから気にしないでくれ」
まぁでもとりあえず親衛隊は撒いたし、ここからは特に何かを憂慮する必要は無いだろう。姫野さんも、
「そっか、確かに最近だと今日は一番暑いもんね」
「うん」
大人しい事だしな。
しばらく電車の冷気の洗礼を受けようと天井を仰ぐと、中吊り広告が揺れていた。
何を思うでもなくぼーっと眺めていると、幾らかして、不意に姫野さんが言う。
「山だっけ」
「山?」
「あかりと行ったの」
「……ああ」
その事か。行った次の日はあかりが部活関連であまり昼飯時にいなかったりして、俺も話題に上げなかったからここで上ってくるとは思わなかった。少々自意識過剰ながら姫野さんあたりが突っ込んでくるかと思ってたけどそういうのも無かったし。
「どう? 面白かった?」
「え、まぁ、そりゃ……」
あかりと一緒なら大抵何しても面白くない訳が無い。
が、それを口で言うのは流石に憚られるので、若干濁して答えることにする。
「勉強しに行ったわけじゃないわけだし、当然退屈では無かった、か」
「山なのに?」
「まぁ、山も登ってみると案外気持ちよかったし」
「そっか」
俺の受け答えに満足したのかしていないのか、横からでははっきりとは姫野さんの表情が分からない。
「あかりはね」
電車が次の駅のアナウンスを流すと、姫野さんも同じくして口を開く。
「すごく楽しかったって言ってたよ。映画怖かったけどコウ君と見れたから楽しめたし、ご飯も美味しかったって、その日に電話がかかってきてね。本当に嬉しそうだった」
なるほど既に姫野さんは休日の事を知っていたのかと腑に落ちるのと同時に、妙な気恥ずかしさが内からこみ上げてくる。
ほんと今日は気温高いなぁ! クーラー効いてるけど!
「まぁあれだ、久々に遊んだもんだからテンション上がってたんだろうな。俺も友達と遊び終わったらそういうとこ出るし……」
自然と否定の言葉が口につくが、そうでもしておかなければ精神衛生上よろしくない。我ながら情けないと思う。
「それでね、一つコウ君に聞いておきたい事があったんだけど……いいかな?」
ここまで詰まる事無く、味気ない表現をすれば淡々と話を進めていた姫野さんの口調は、始めて控えめに陰りのようなものを帯びる。どこか迷いが混じったようなそんな感じだ。
「聞いておきたいこと、ふむ。内容による」
いかなる演技もプロレベルのような姫野さんの事だ、巧い具合にとんでもない事を聞いてきかねないので一応予防線は張っておく。
「だいたいコウ君見てて分かってたけど、ちゃんと聞いた事ないから確認しておきたいなって。コウ君は――」
少し間が開き。
「あかりの事、好きなんだよね?」
その問いが投げかけられた。
……なるほど。確かに姫野さんの前でそれについて明言したことは無かったっけか。ただ別段それを隠そうとは思ってなかったし、俺があかりの事を好きなのだと姫野さんは知っているものとしてこれまで過ごしてきた。実際、今の言葉の通り姫野さんは俺の気持ちには気付いている。にも拘らず改めてこの場で聞いて来た。
たぶん言質を取りたい、という事なのだろう。もし仮に俺に好きな人がいないのならば姫野さんへ気持ち傾くのは時間の問題なのは間違いない。そうなればまた過去の出来事が再現する可能性がぐっと上昇する。無論あかりに限ってそんな事は無いだろうが、姫野さんとしては少しでも可能性の芽を摘み取っておきたいのだろう。
正直、今ここでそういうことを聞かれるとは思ってなかったので面食らった。
ただまぁ、それは一瞬だ。俺の気持ちは最初から最後までこれに尽きる。
電車もそろそろ停車する。
俺は立ち上がると、しっかりと姫野さんの方を見据える。この言葉を告げるのに、恥じらう事は何一つない。
「ああ。俺はあかりの事が好きだよ」
言うと、姫野さんの唇か微かに揺れる。
「だったら……」
そこまで言って、姫野さんが口を引き結ぶ。何かをためらっているような気配が見て取れた気がする。
姫野さんは今、何を言おうとしているのか。ほんの少し予測出来て、目を逸らしそうになる。
「大丈夫だよね」
が、綻んだ口元から紡がれたのは微かよぎっていた言葉とは別物らしかった。
「え?」
「コウ君は知ってるよね? 私がしてきた行動」
姫野さんがしてきた行動と言えば、思い当たる節は一つしかない。
「これからも……」
姫野さんが立ち上がると、耳元でそんな事をささやいてくる。
「よろしくね」
ほのかにかかる吐息がどうにもむずがゆく、つい一歩後ずさってしまう。すると、姫野さんがいつの日か見せた、いたずらめいた笑みを浮かべているのが視界に入った。
……まったく、つくづく魅力的な人だと思うよこの人は。あかりがいてくれてほんとによかった。
「ところでコウ君」
「っ……え、どうした姫野さん」
考えていたことが考えていた事なので心臓が跳ねる。
「なんで立ってるの?」
「え」
言われて見てみれば、何人かの乗客の目がこちらに向いていた。その中にはうちと同じ制服の人もいる。
うわこれ、絶対変な奴だと思われてるよな! それにこの人前で俺なんて言ったっけ!? うわこれ絶対明日学校で噂になってるよ。一部の間だけで留まってくれればいいけど……。
「あ、アハハ……」
乾いた笑いがこみ上げるのを止められないでいると、丁度停車した電車の扉が開いた。
ただ、俺達が降りるべき駅はここじゃない。
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