第四十五話
気付けば図書当番の日だった。
利用者もおらず、閑散とした空間に漂う書架の香りはなるほど、やはり落ち着く。
だが落ち着くのはそれだけでありこの状況についてはまったく落ち着いていられない。
「もう一度言うよ。昨日あかりと帰ったんだよね?」
「そうだな」
「そして明後日はあかりと遊びに行くんだよね?」
「……まぁそうなんだけどさ」
あかりが突然言い出した遊びは確かに明後日に控えている。
いずれも事実なのでそう言うしかないが、やはり嘘でもついておいた方がよかったかもしれない。何故ならば。
「じゃあ今日は私と一緒に帰ってくれるんだよね?」
「いやー、それはなんというか……」
先ほどから姫野さんにこんな事ばかり言われる羽目になったからだ。
「どうして? そんなに私の事が嫌?」
「別に姫野さんが嫌では無いんだけど……」
嫌の対象を一緒に帰る事ではなくわざわざ自分自身に置くのがまた憎い。別に姫野さん自身は何にも嫌じゃない。嫌なのは二人きりで帰ることだけだ。帰るのだって俺が一パーセントでも揺れかねないから嫌なだけだし。
「たぶん、嘘だよね。コウ君は私の事が嫌だから……」
姫野さんの瞳は儚げな色を映し出す。
ちょっとやめて姫野さん、そんな顔しないで!? 罪悪感芽生えるからね!?
「いやいや、姫野さんが嫌とかそういうのは全然無いからね? ただ一緒に帰るのはいささかどうなんだってだけで」
「ううん、違うよ。コウ君はきっと優しいからそう言ってくれるんだよ……」
伏目がちになる姫野さんの声には悲哀が滲み出ている。
うわぁ、なんかほんと申し訳なくなってきた。いっそのこと今日くらいは一緒に帰っても……いいわけないんだよなぁ!
危ない、これは演技だ。危うく乗せられるところだった。なんて演技力なんだこの子は。将来女優にでもなればいいんじゃないかな!
「やっぱり帰るのはちょっとね? でもほんと、姫野さんの事嫌とかそういうのは全然思ってないから」
伝えるべき事を伝えると、不意に図書室が静けさに包まれる。
どこか不吉さを孕むそれは会話の流れが断たれたからと言うだけでは無いように思える。
俯き加減の姫野さんからは心情を読み取ることができなかった。
ややあって。
姫野さんはおもむろに口を開く。
「全然嫌じゃない、か」
小さく呟くと、姫野さんの怪しい光を湛える黒い瞳がこちらを捉えた。
「こんなに邪魔してるのに?」
僅かに笑む口から放たれたのは冷たい声。
こちらに向いていたのはかつて垣間見せた姫野さんの
初めてそれをぶつけられたのなら、恐らく従来との差に万人が圧倒されるだろう。実際、俺もそうだった。
ただ、今は不思議とこれも姫野さんだと納得する自分がいて、畏怖だとかそう言ったものは浮かんでこない。
「まぁ、そうだな」
確かに姫野さんは俺が青春ラブコメを送るためには非常に厄介な存在だろう。美人であり学校中の憧れの的であるくせに、嘘で俺に近づき俺の好きな相手に誤解を植え付けるような事をするんだから。
ただまぁ、俺はその理由があかりを信じたいがための、やり方はどうあれ前向きな行動なのだという事を知ってるし、それ以前の問題として、
「邪魔、というか厄介ではあるけど、やっぱり姫野さんの事は嫌いじゃないな」
「へぇ……どうして? 厄介なのに嫌いじゃないっておかしくないかな?」
そこに隙があれば侵入しようというような
「あかりは姫野さんと友達でいたい。そのために姫野さんは動いてくれてる。そう考えたら嫌う理由なんて見当たらないだろ? 何せ好きな人の幸せは俺の一番望むところだからな」
しっかりと必要な単語を添えて答える。
姫野さんはこれを聞いて何か思ったのか、少しだけ間が開いた。
もしかして何かまずい事でも言ってしまったのだろうかと不安になったころ、姫野さんは先ほどとは性質の違う軟らかな笑みを浮かべる。
「……そっか。コウ君は優しいね」
穏やかな声だったが、ほんの僅か、言葉に重みがかかった気がする。あるいは俺の気のせいか。
いや、それよりも優しいという単語が引っかかっただけかもしれない。
「俺は、そんな事無いよ」
一応傷ついた小動物を保護したくなるくらいの心は持っているが、それまでだ。世の中にはもっと優しい人なんて五万といるだろう。
「うーん、私は優しと思うけどなー?」
言うと、姫野さんは不意に、茶目っ気の混じった笑みを浮かべる。
「コウ君みたいな人が、将来の旦那さんなら嬉しいって思うくらいにはね?」
弾むように言われたそのあまりに破壊力抜群の言葉についつい沈黙してしまう。
いやいやほんと、嘘だってわかってるけど! そういうのマジでよくない!
「えっと、勘弁してください……」
自然と降参の言葉が口を吐くと、姫野さんの愉快そうな笑い声が静かに書架の本へ浸透するのだった。
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