第78話 不穏な気配

 出かける支度を整えて浩一がリビングに入ると、朝食の支度を終えた恭子が、ダイニングテーブルの横に立ったまま広げた新聞に視線を落としていた。自分が入って来た事にも気づかず、静止したまま新聞を読んでいるらしい恭子を不審に思った浩一だったが、「おはよう」といつも通り声をかけつつ、彼女の横を通り過ぎてテーブルを回り込む。


「あ……、おはようございます」

「今日の新聞に、そんなに気になる記事でも有った?」

 慌てて新聞を畳んだ恭子から視線を外し、椅子を引きながら浩一が何気ない口調で問い掛けると、テーブルに置いた新聞を指差しながら恭子が答えた。


「気になると言うか……、先週から騒ぎが拡大する一方で、沈静化する兆しすら見えませんね」

 上になっている一面に、写真入りで大きく取り上げられている記事を見た浩一は、椅子に座って食べ始めながら苦笑気味に頷く。


「政友党の飯嶋代議士の公職選挙法違反摘発に始まって、芋づる式にリースバンクの高科頭取と、永沢地所の永沢会長と、丸済コーポレーションの新見社長の各種許認可に関わる贈収賄に、不正競争防止法違反と個人情報保護法違反、それから脱税も指摘されて、関係各所に一斉に強制捜査が入ってたか。本当に燎原の火の如く騒ぎが拡大したな」

「それにオークションでの盗品売買と、輸出禁止品目商品の海外企業への売却も疑われているみたいですね……。日に日に罪状と被疑者が増えている気がするんですが」

 食べる合間に心底呆れたといった感じで恭子が感想を口にすると、浩一は笑みを深くした。


「世間に対して、悪い事はできないって、良い教訓になったんじゃないか? 次は自分かと、怯えてる人間はまだまだいるだろうな」

(中には冤罪だって訴えている人も、居そうですけどね)

 恭子は密かにそう思ったが、それからは余計な事は口にせず黙々と食べ続け、浩一もそれほど時間に余裕が有るわけではない為、取り敢えず食べる事に集中した。

 そして二人とも食べ終え、最後に恭子が食器を片付けながらお茶を淹れる為に立ち上がると、その隙に浩一は新聞に手を伸ばし、先程彼女が開いて見ていたであろうページを確認してみる。


(ああ、これか……)

 そこの社会面には、先々週のある轢き逃げ事件の容疑者が逮捕された旨の記事が掲載されており、そこに永沢亜由美の名前があった事で、恭子が凝視していた理由が納得できた。

 未だ意識不明の重体である、その事件の被害者は高倉孝明であり、先々週清人の指示で恭子が実行した件がこれだったのだろうと浩一は確信した。そこで自分にお茶を出してくれた恭子を見上げながら、小さく呟く。


「あの時の事か」

 しかしそれに対し、恭子は素知らぬ顔で応じる。

「……何の事でしょう?」

「いや……、何でもない」

「そうですか」

 そして表面上、何事も無かった様にお茶を飲み干した浩一は、立ち上がりながら短く告げた。


「今日も遅くなるから、俺の分の夕飯は要らないから」

「分かりました」

 素直にそう頷いたものの、恭子は注意深く浩一の様子を窺った。


(やっぱり何だか疲れているみたいなんだけど。最近連日帰りが遅いし)

 そしてそのまま浩一を凝視する。


(仕事だって言ってるけど、本当の所はどうなのかしら? 仕事じゃなくて女の人とデートしてるとかだったら、別に構わないんだけど……)

 そんな事を考えつつ、何となくモヤモヤした気持ちを抱えていた恭子だったが、その視線を感じた浩一が、足を止めて彼女に視線を合わせてきた。


「何か、俺に言いたい事が有るのかな?」

 真顔でそんな事を言われて、無意識に彼の顔を凝視していた事に気が付いた恭子は、慌てて手を振って否定した。


「いえ、特に何も」

「有るだろう?」

 些か不機嫌そうに顔をしかめられ、誤魔化すのを諦めた恭子は、慎重に話し出した。


「その……、浩一さんは最近、帰りが遅い日が多いですよね?」

「確かにそうだが。それが?」

「お仕事なんですか?」

「勿論そうだけど」

「そう聞いてますが……」

 恭子の問い掛けに怪訝な顔になった浩一だったが、少し考えてから思い当たった内容を口にしてみた。


「ひょっとして……、仕事じゃなくて、他の用件で遅くなってるかと思ってた?」

「はぁ、少しはそんな風に思ってましたが」

「参ったな。就職して以来、これほど真面目に働いた事は無かったんだが」

 決まり悪げに弁解した恭子を見て、はっきり口にはしないまでも、他の女性と一緒だったのではと疑われたと分かった浩一は、若干傷付いた表情になって深い溜め息を吐いた。それを見た恭子はさすがに罪悪感を覚えた為、思わず声を上げる。


「あの、それなら!」

「うん? 何?」

「その……、最近ちょっと働き過ぎだと思いますので、偶には早く帰って来ませんか?」

「え?」

「夕飯に浩一さんの好きな物を準備しますので、偶にはここでゆっくりお食事して貰いたいんですけど」

 その恭子の申し出を、何故か茫然自失状態で聞いていた浩一は、微動だにしないまま幾分掠れた声を出した。


「……君は?」

「はい?」

「一緒に食べるつもりなのか?」

「夕飯を作りますので、そうなりますが。お嫌でしょうか?」

(浩一さん、何を言ってるのかしら? 当然だと思うんだけど)

 相手の質問の意味を捉えかねた恭子が内心で首を捻ると、彼女の前で浩一がゆっくり微笑んだ。


「……初めてだな」

「何がです?」

「君から『早く帰って来て下さい』なんて言われたのが」

 そんな事を実に嬉しそうに言われて、今度は逆に恭子の方が困惑した。


「……そうでしたか?」

「俺の記憶違いでなければそうだよ」

「はあ……」

(言われてみれば、確かに予定を聞いてはいたけど、それについてどうこう言った記憶は無いかも……)

 そこで恭子は真剣に考え込んでしまったが、そんな彼女に再び歩き出した浩一が、機嫌良く声をかけた。


「分かった。今日はなるべく早く帰る様にする。夕飯も帰ってから食べるから、俺の分も準備しておいて欲しい」

「分かりました」

 そしてソファーに置いてあった鞄を取り上げ、穏やかな笑顔を浮かべつつ廊下へ出て行った浩一の背中を、恭子は無言で見送った。


(取り敢えず差し出がましい事を言っても、気分を害した感じでは無いわね。でもデートじゃなかったにしろ、どうしてそんなに急に仕事が忙しくなったのかしら?)

 何となく釈然としないまま飲み終わった茶碗をシンクに入れた恭子だったが、それ以上は悩まずに自身も現在の勤務先に向かって歩き出した。

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