第22話 ちょっとした働きかけ

 仕事帰り、鉄板焼きの店のカウンターに座っていた恭子は、目の前の広々とした鉄板の上で調理された、絶妙な焼き加減の一口大に切り分けられたステーキ肉を口に運びながら、内心で密かに残念がっていた。


(焼き加減、味付け、柔らかさ、どれをとっても一級品。前菜のサラダや付け合わせにも、一切の手抜き無し。なかなか出来るものじゃないわ。惜しむらくは……、隣に座ってるのがエロハゲオヤジだって事ね。『これ』が無ければ百点満点なのに)

 心の中で調理人の仕事ぶりを絶賛しつつ、恭子はその日の財布役の男をこき下ろした。そんな事など夢にも思っていないらしい隣の中年男は、上機嫌で恭子に話しかける。


「本当に君の様な若くて綺麗な女性と、一緒に過ごせるとは嬉しいね」

 来店して以降、聞かされ続けているつまらない美辞麗句に心底うんざりしながらも、恭子は穏やかな笑みを浮かべてサラリと返した。


「川野辺常務程の方なら、一緒にお食事をする若い女性位、何人もいらっしゃるのでは?」

「いやいや、皆、見た目はともかく、滲み出る知性という面では、到底君に及ばないよ」

「ありがとうございます」

(あんたの知性とやらは、メッキみたいだけどね)

 殊勝に礼を述べながら恭子が心中で冷笑すると、メインの肉が食べ終わりかけたところで、漸く川野辺が探りを入れてきた。


「ところで……。最近、人事部で小耳に挟んだんだが、君は社長の紹介で入社したと聞いたが、本当かい?」

 それを聞いた恭子が、相手に分からない程度にほくそ笑む。


(この穀潰しが人事部担当役員で、ろくでもない人事案を捻じ込むわ、袖の下貰ってコネ入社させようとするわで随分苦労しているけど、今の人事部長が気骨のある抜け目がない人で、重要なポストに関しては頑として介入させてないと、小笠原社長からのデータにあったわね。タイミング良く、さり気なく吹き込んでくれたわけか。流石に良い仕事をしているわ)

 そんな考えなど表に出さず、恭子は素知らぬふりで冷静に説明を加えた。


「正確に言えば、前の雇い主である東野先生から、小笠原社長に就職斡旋のお話があった様ですが。それで社長からのお話を、ありがたくお受けした次第です」

「そう言えば、東野薫のアシスタントをしていた言う話だったね。アシスタントというと……、仕事の範囲も広いんじゃないのかい?」

「と、仰いますと?」

 何やら含む様に言い出した川野辺に、恭子は何を言いたいのか容易に察しながらも惚ける。すると川野辺が何やら探る様に、問いを発した。


「色々な、プライベートの面倒をみる事も、あるんじゃないかとね」

「それはまあ公私含めて、色々幅広い事は確実ですわね」

 両者とも互いに「色々」の箇所を微妙な口調で述べ合い、腹の探り合い状態になる。


(何考えているか丸わかりな顔で、これでも探ってるつもりかしら? つくづく小者よね。小笠原社長とは器が違いすぎるわ)

 恭子がほとほと呆れながら相手の表情を見やっていると、川野辺が更に踏み込んできた。


「その色々なお世話と言うのは、社長に紹介を受けてからも続いているんじゃ無いのかい?」

「あら、慣れない仕事を覚えるのに精一杯で、勤務が終わってから東野先生の所に出向く暇は有りませんが」

「そうじゃなくて、社長の方に頼まれて、色々しいてるとか」

「何を、でしょうか?」

「まあ……、分からなければ良いさ」

「そうですか」

 惚けて流した恭子に、川野辺はまだ含み笑いで応じる。そして笑顔を絶やさないまま食べ続けている恭子の左手を取り、自分の方に引き寄せながら撫でさすった。


「……しかし、ちょっと手が荒れ気味だね。もう少しこまめに、手入れをした方が良いよ?」

(このセクハラエロ親父! したり顔で、勝手に手を握ってんじゃねぇよ!)

 親切ごかして言っている様に聞こえるが、やっているのはセクハラ以外の何物でも無く、自分の左手を握ったまま離さない川野辺を内心で罵倒しながらも、恭子はそのまま控え目に笑ってみせた。


「ありがとうございます。もう少し仕事に慣れたら、集中してして手入れをしてみますわ。他人から指摘されるのは、やはり恥ずかしいですから」

「君がその気なら、もう少し楽に稼げる仕事を紹介するがね」

「申し訳ありませんが、お断りしておきます」

「ほぉ? どうしてかね?」

 川野辺が心底意外そうに尋ねてきた為、恭子は(まさかあっさり小笠原社長から自分に乗り換えるほど、自分に自信があるってわけじゃねぇだろうな? この勘違い野郎が!)とほとほと呆れたが、表面上は笑顔を取り繕った。


「甘い話には裏があると言うのが、持論ですの。ちょっとほろ苦い程度が、私の好みなんです」

 すると流石に容易く口説き落とせるとまでは思っていなかったらしい川野辺は、あっさりと話題を変えた。


「なるほど、そうか。ところでここは気に入ったかい?」

「はい。大変美味しく頂いてます」

「それは良かった。社長とはこういう所で食べた事は有るだろうから、舌が肥えていたら困ると思っていたんだが」

「社長はこの手の類の店には来店されませんよ。どちらかと言うと、もう少しあっさりした和食がお好みですから」

 サラッと聞き捨てならない事を漏らした恭子に、川野辺は咄嗟に返す言葉を失う。


「……そうかね」

「そうですよ。ご存知ありません?」

 幾分からかう様に恭子が確認を入れると、「それをどこで知った」などと野暮な事は言わずに、川野辺が鷹揚に頷いた。


「覚えておくよ。いや、今夜はなかなか楽しい夜だな」

 川野辺がそう言って満足げに頷いたところで、恭子が皮肉っぽく指摘する。


「ところで……、そろそろ手を放して頂けません? 食べきってしまわないと、デザートを持って来て貰えませんから」

「ああ、そうだな。悪かった」

 そこで川野辺は大人しく恭子の手を放し、自分も残っている肉を平らげ始めた。それを恭子は横目で見てから、苦々しい思いで左手を見下ろす。


(さて、これで社長の愛人疑惑真っ黒女、インプット完了かしら? それにしても……、額もそうだけど、掌も汗と脂ぎってて嫌な奴。帰ったら、すぐ石鹸で洗おう)

 そんな事を考えながらも、恭子はとうとう最後まで、川野辺に対する愛想笑いを絶やす事は無かった。


「戻りました」

「お帰り。食事は済ませてきたんだよね。お茶を飲むなら、今二人分淹れるけど?」

「お願いします」

「ああ」

 内心、不愉快極まる食事を終えて恭子が帰宅すると、リビングでは浩一がソファーで本を読んでいた。そして恭子の顔を見て声をかけ、本を閉じて立ち上がると同時に、恭子もリビングのドアを閉めて自室へと向かう。そして取り敢えずバッグを机に置いてから、洗面所へと向かった。


「……はぁ、すっきりした」

 蛇口からぬるま湯を出し、早速ハンドソープで特に念入りに左手を洗った恭子は、すっきりとした気分でタオルで手を拭き、洗面所を出て再びリビングへと向かった。そして同様に戻ってきた浩一から、マグカップを受け取って礼を述べる。


「すみません、浩一さん。いただきます」

「どうぞ」

 何気ない口調で言葉を返した浩一だったが、向かい合って座ってから、恭子の服装について言及した。


「……着替えてきたわけじゃないんだ」

「え? ええ。ちょっと洗面所で、手を洗っていたので」

「手?」

 そう言って軽く目をすがめた浩一を見て、恭子は些か居心地悪そうに視線を逸らす。


(う……、一緒に暮らしてみて分かったけど、浩一さんって結構洞察力が鋭いのよね。これまでは先生の陰に隠れて、分からなかったけど。あまり不愉快にする様な話題は、口に出したく無かったんだけどな……)

 しかしそんな懸念通り、浩一は核心を突いてきた。


「例の、小笠原社長からの依頼絡みで何かあった?」

「何かあったって程では無いですよ? セクハラ親父と食事中、ちょっと手を握られただけで。わざとらしくカウンター席だったから、それ位あるかなと思っていたら案の定で、底の浅さに拍子抜けした位ですし」

 誤魔化す事を諦め、なるべく明るく言ってみた恭子だったが、それを聞いた浩一の、声のトーンが若干低下した。


「……でも、それが嫌で、帰宅早々手を洗ったんだよな?」

「いえ、それだけじゃなくて、帰宅途中で手すりとか触って、ちょっと埃っぽかったかな、と……」

「清人の奴、相変わらずろくでもない事を……。だいたい、小笠原社長に貸し出すだと? そんなのは小笠原内でどうとでも……」

 ブツブツと、俯き加減で独り言を漏らし始めた浩一を見て、恭子は密かに冷や汗を流した。


(何か、急激に浩一さんの機嫌が悪くなってる気が……。私の事で、先生に喧嘩をふっかけたりしないでしょうね!?)

 思わず心配になってしまった恭子が、宥める為に控え目に声をかける。


「あの、浩一さん? 別に大した問題はありませんし、あまり気にしないでいただけると」

「……そうだね。本人が問題ないと言っているものを他人が煽り立てるのは変だし、この話はこれで終わりにしようか」

「そうしましょう」

 取り敢えず憮然とした顔付きながらも、浩一も頷いてマグカップを口に運び、恭子は胸を撫で下ろした。

 そんな事があった翌日、浩一はあまり顔を合わせたくない人物から呼び出しを受けたが、素直に最寄り駅から二駅離れた喫茶店に出向いた。


「やあ、土曜の午後に呼び出して悪いな、浩一。用事があったら断っても良かったんだが」

 愛想良く笑いかける葛西に、(断っても押し掛けて来るだけだろうな、この人なら)と思った浩一だったが、それなりに長い付き合いでもある相手に、笑って言葉を返した。


「いえ、先輩も仕事がお忙しいでしょうし、特に用事も有りませんので構いません」

「お前、本当にいい奴だよな。これが清人なら平然と『分かりました』と言っておいて、笑ってすっぽかすぞ。俺の医師免許を賭けても良い」

「そういう人間と比較して『いい奴』と評されるのも、どうかと思うんですが……」

(一体何だ? 葛西先輩とは、受診の時しか顔を合わせていなかったのに、いきなりプライベートで時間を取れだなんて、怪し過ぎる)

 些かうんざりしながら珈琲を飲んでいると、葛西が唐突に声を発した。


「……恭子ちゃん」

「え?」

 思わず口からカップを離した浩一に、葛西は得体の知れない笑みを浮かべながら、問いかけてくる。


「仲良くしているか?」

「あの……、仲良くと言うのは……」

 心の中で警戒度を最大限に引き上げて、慎重に問い返した浩一に、葛西があっさり直球を繰り出した。


「だ~か~ら、恭子ちゃんが、お前がこの前言ってた同棲相手だろ?」

「あの時、同居と言いましたよね?」

 僅かに顔を引き攣らせた浩一に構わず、葛西はここで横の椅子に置いておいた紙袋を持ち上げ、テーブルに乗せて浩一の方に押しやった。


「細かい事を気にするな。それで今日は、彼女にプレゼントを持って来たんだ。お前から渡してくれ」

 そんな勝手な事を言われた浩一は、「ふざけるな!」と相手を怒鳴りつけたい気持ちを、必死に堪えた。


「どうして先輩が、彼女にプレゼントを? それに加えて、どうして俺が、渡す必要があるんですか?」

「俺が彼女を気に入ったのと、彼女とお前が一緒に暮らしているからだ。加えて、どうして今住んでるマンションに直接送りつけないのかと言うと、お前へのちょっとした嫌がらせだ。他に質問は?」

「……いえ、ありません」

(駄目だ、やっぱり話が通じない。からかう気満々なのか、何か他に含む所でも有るのか……)

 浩一が溜め息を吐いて無言で考えていると、葛西が気分を害した様に言いながら、紙袋へと手を伸ばす。


「何だ渡してくれないのか? お前、意外と心が狭いな。分かった。俺が直接マンションまで出向いて、彼女に手渡そう。ついでに連絡先の一つも聞いて」

「分かりました。お預かりします」

 何となくマンションまで押し掛けられたら、更に状況が悪くなりそうな予感がした為、浩一は無表情で紙袋を手前に引き寄せた。それを見て、葛西が満面の笑みを浮かべる。


「そうか。じゃあ宜しく頼む。それじゃあ話は済んだから、また次の診察日にな」

「宜しくお願いします」

(結局受け取る羽目になったが……、何なんだ? 一体)

 そして恭子へのプレゼントを押し付けると葛西は早々に立ち去り、浩一は紙袋の中の包装された箱を、怪訝な顔で見下ろした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る