第15話 波乱の予兆

 地下鉄の駅から徒歩二分。高層ビルの三階に入っている、内科、心療内科、精神科を診療科目として掲げている【葛西クリニック】は土曜の午後は休診であり、電気が消された待合室には人気が無かった。しかし浩一が≪本日の診療は終了しました≫の札が下げられた自動ドア横の急患呼び出し用のボタンを押すと、少しして院長の葛西芳文が奥から出てきて、ドアのロックを解除する。


「よう、浩一。元気だったか?」

「はい、休診日にいつもすみません、葛西先輩」

「カルテに詳細に記録を残しておくわけにも、保険請求するつもりも無いから、他の人間が居たら拙いからな。お前の親父さんにここの開設費用を肩代わりして貰った利子代わりだ。気にするな」

 元通りドアをロックし、年の頃や雰囲気が似通った二人は、診察室に向かって並んで歩きながらいつもと同様の会話を交わした。そして浩一を先に椅子に座らせておき、葛西が奥に消えたと思ったらすぐに珈琲の入ったマグカップを二つ持って戻り、片方を浩一に勧める。ありがたく浩一が受け取って早速口を付けると、向かい合う形で肘掛け椅子に白衣姿でふんぞり返った葛西は、自身も珈琲を一口飲んでから何気なく問いかけた。


「どうだ? 最近、何か変わった事は無かったか?」

 正式な記録を残してはいないが、浩一とは大学時代先輩後輩の間柄であり、ここ十年近く彼の主治医を務めている葛西の頭の中には、これまでの浩一の診療内容を明確に記憶しており、元々勘が鋭いタイプでもあった為、浩一の様子に何となく違和感を覚えた。それでさり気なく尋ねてみたのだが、浩一はそれに僅かに躊躇する素振りを見せてから正直に現状を報告する。


「大した変化はありませんが……。実は三週間前に家を出て、女性と同居を始めました」

 それを聞いた葛西は、一瞬ポカンとしてから些かカップを乱暴に診察机の上に置き、座ったまま浩一に詰め寄った。


「……おい。それのどこが『大した変化は無い』だと? ふざけてんのかお前? 三ヶ月前には同棲する様な相手が居るとか、一言も言って無かっただろうが!」

「俺だって当時はそんなつもりは微塵も有りませんでしたし、同棲ではなくて純粋な同居です! それに彼女は物事に対して色々と動じないタイプの人間ですし、今のところ問題は有りませんから」

 葛西が怒りだすのは想定内だった為、浩一は必死で弁明を試みた。すると葛西は眉を寄せ、難しい顔のまま腕を組んで浩一を凝視した。そして大よその事情を推察する。


「……と言う事は、それはお前の意志では無く、誰かに嵌められたか乗せられたかだ。そして恐らく、それは清人辺りじゃないのか? 用心深いお前が、そうそう下手な奴に乗せられるとは思えん」

「ええ、その通りです」

「それで、お前はその彼女に、完璧に男扱いされて無いと?」

「……そういう事です」

「ついでに言わせて貰えば、幾らお前を男扱いしない女でも、どうでも良い女をお前が自分の生活圏内に入れるとは思えんし、お前その女に惚れてるな? そうでなければ、わざわざ清人の奴がそんな危険で面倒な事を仕掛ける筈が無い。あいつ女では嫁に一番惚れてるが、男なら間違い無くお前が一番だからな」

「…………返答に困る事を、断言しないで下さい」

 僅かな事実からスルスルと真相を紡ぎ出していく、いつもながらのその手腕に、浩一は心底感心しつつも(そこまで読まれ放題なのか)と項垂れたが、ふと恭子との会話を思い出した。


(そう言えば、似た様な事を彼女にも言われたな。俺が一番好きな女性は姉さんで、一番好きな男性が清人だって。……色々あるが、男の方に関しては否定できないな)

 そんな事を考えて無意識に微笑んだ浩一を、葛西はじっくりと観察しながら笑いを含んだ呟きを漏らした。


「ふぅん?」

 その声を耳にして、我に返ると同時に嫌な予感を覚えた浩一が、探る様な視線を葛西に向ける。

「……何でしょうか?」

「いや、楽しみだなと思ってな。来週の奴の結婚披露宴」

 急に話題を変えられた上、如何にも楽しそうにそんな事を言われてしまった浩一は、僅かに顔を引き攣らせた。


「招待されているんですか?」

「同好会の主だったメンバーは全員呼ばれている筈だ。なんだ、知らなかったのか?」

「ええ……」

(色々お世話になったし、文句を言える筋合いでも無いんだが……。絶対つつかれるし遊ばれるよな? それの鬱憤晴らしも含めて、当日清人に、絶対一泡噴かせてやる)

 浩一が密かにそんな決意を新たにしていると、気を取り直して珈琲を飲み干した葛西が、顔付きを改めて浩一に告げた。


「さて、そう言う事なら、今日はいつもの診察より念入りにやっておくか。自覚が無いまま過度に緊張していて、変な所に影響が出ていないとも限らんし」

「お願いします」

「じゃあまず、心電図取ってから採血な。後は細かく内診だ。今日は内分泌系も含めて、検査項目増やしてチェックをするから。しかしお前、大の大人が注射位でビビるなよ。以前順序を逆にしたら、なかなかまともにデータが出なくて参ったぞ」

 呆れた口調で溜め息を吐いて立ち上がった葛西だったが、ここで浩一も勢いよく立ち上がりながら猛然と食って掛かった。


「それは、俺のせいじゃありません!」

「なんだ、人のせいにするのか? 生意気な」

「先輩が注射が下手すぎるのが悪いんです! それで本当に医者なんですか? 一回で採血できた試しがありませんよね? 採血量を間違えて採り直すのは序の口で、静脈を突き抜けて出血してなかなか止まらないわ、点滴は漏れて腕が腫れ上がるわで、毎回痛い思いをしているのは俺なんですよ!? 一回なんて神経を刺してませんでしたか!?」

 血相を変えて抗議した浩一だったが、葛西は軽く受け流す。


「そんな事あるかよ、大げさな野郎だな。それに仕方ないだろう、普段注射の類は看護師に任せてて練習できないんだから。大丈夫だ。一応刺せるし、人間が切れない外科医より遥かにマシだ」

「そんな外科医が存在するんですか!?」

「深く追求するな。長生きできないぞ? ほら、上半身裸になってそこのベッドに寝ろ」

「……分かりました」

 これ以上何を言っても無駄だと経験上悟っている浩一は、大人しく服を脱いで診察用のベッドに横たわった。


 そんなこんなで一通りの診察を終え、結構精神的に疲労した浩一が帰って早々に、葛西は医院の電話の受話器を取り上げて暗記している電話番号を選択した。そして数コール待たされてから応答した相手に、名乗らないまま一方的に告げる。


「清人、俺だ。お前、俺に断りもなしに、随分な荒療治に踏み切ったじゃないか?」

 名乗らずとも皮肉交じりの口調ではっきりと相手が認識できたらしい清人は、電話の向こうから笑いを含んだ声で返してきた。


「ご無沙汰しています、葛西先輩。今日、浩一がそちらに行きましたか?」

「ああ、来たな。それで? 俺に何か言う事は無いのか?」

 第一声とはガラリと口調を変え、咎める口調で問いかけた葛西に、清人が神妙な口調で告げた。


「あいつと同居している女も、披露宴に出席予定です。元々その席で、先輩方に引き合わせる予定でした」

「そうか。それは楽しみだ。……だが、俺が本当に聞きたいのは、そんな話では無いんだが? その彼女って言うのはもしかして、以前小耳に挟んだ『お花さん』の事か?」

 今度の電話の向こうの沈黙は長く、清人の声にはかなりの疲労感と呆れの感情を含んでいた。


「…………先輩? どこから『小耳に挟んだ』んですか? 油断のならない所は相変わらずですね」

「分かってるなら聞くなって感じだな。もう良い。邪魔したな」

 肯定も否定もしなかった清人だったが、葛西は聞きたい事は聞いたとばかりに一方的に会話を終わらせて受話器を元に戻した。そして含み笑いをしながらひとりごちる。


「いつの間にか、随分面倒臭くて面白い事になってるじゃないか……。来週の楽しみが増えたな」

 そんな事を言いながら器具の片付けを始めた葛西は、心底楽しそうな笑顔をその顔に浮かべていた。



「……戻りました」

 軽く溜め息を吐きながらリビングに足を踏み入れた恭子は、先に帰って来ていた浩一に帰宅の挨拶をした。


「お帰り。お茶を淹れようかと思ったんだけど、恭子さんも飲む?」

「お願いします」

 ソファーから立ち上がりつつ声をかけてきた浩一に恭子は素直に頷き、手に提げていた幾つもの紙袋をソファーに置いた。そしてその横に腰を下ろして背もたれに体を預けていると、リビングに戻った浩一が片方のマグカップを恭子の前に置きながら、幾分心配そうに声をかける。


「お待たせ。何だか疲れてる様だけど、今日はどこに行って来たの?」

 浩一の懸念が分かってしまった恭子は、苦笑いでその日の行動を告げた。


「別に変な仕事を押し付けられたわけじゃ無いですよ? 真澄さんにお付き合いして、買い物に行ってきました」

「姉さんと? 来週に挙式と披露宴だから、今週末は色々忙しいと思ったんだが」

「私もそう思ったんですけど、先生の指示だったみたいで」

「清人の奴、今度は何を……」

 怪訝な顔をしてから渋面になった浩一に、恭子は肩を竦めつつ事情を話し始めた。


「来週の挙式と披露宴に招待されているんですが『お前から金をむしり取ろうとは思わないから身体で払え』と言われまして、ご祝儀を出す代わりに、披露宴の受付をする事になったんです」

「……なるほど」

「そうしましたら、昨日電話がありまして『当日どんな格好で出るつもりだ』と尋ねてきたので、レンタルのフォーマルドレスに適当にアクセサリーを合わせる旨を告げたら、『新郎側の受付が貧相な格好をしていたら、示しが付かない』と言い出しまして、真澄さんに『お前が付いて行って、取り揃えてこい』と言ったそうです」

「そんなのは人の勝手だろうが……」

「それで真澄さんに連れられて、ドレスとアクセサリーとバッグと靴を選んで、購入して貰ってきたんです。金額的にちょっと納得しかねる所はあったんですが、ただでさえ忙しい真澄を煩わせたく無くて、真澄さんが言うままに即決してきました」

「ご苦労様」

 そう言って諦めた様な笑みを漏らした恭子に、浩一は労いの言葉をかけた。


(相変わらず素直じゃないな、あいつ……)

 それらしい理屈を付けて、夫婦二人がかりで衣装を一式プレゼントしたのが分かって、浩一は思わず苦笑いした。すると思い出した様に恭子がハンドバックを開けて、中から封筒を取り出す。


「ああ、それから、真澄さんから浩一さんに、お手紙を預かってきました」

「手紙?」

「はい、これです。どうぞ」

「ありがとう」

(どうして手紙……、しかもわざわざ彼女に頼む意味が分からないんだが?)

 浩一はメールでも電話でも良いだろうにと、怪訝に思いながら受け取ったそれからメモ用紙らしき物を取り出し、開いて中身を見てみた。するとそこに書かれていたのは、簡潔過ぎる一文だった。


〔今日の費用は全部、後からそちらに請求するわね。その分、満足して貰える自信があるから〕


 それを読んだ浩一は、思わず小さく噴き出した。

(姉さん……、楽しんでるな?)

 その反応を見て、恭子が興味深そうに尋ねてくる。


「何て書いてあったんですか?」

 その視線から書かれた内容を遮る様に、浩一はそのメモを再び折り畳み、さり気なくポケットにしまい込みつつ話題を逸らした。


「披露宴の事について、思いついたらしい事の走り書きだった。それより……、その様子だと、今日は姉さんに振り回されたんじゃないか?」

 幾分茶化すように問いかけると図星だったらしく、恭子が深い溜め息を吐く。


「等身大着せ替え人形の気分を味わいました。ある意味、仕事っぽかったです」

 そのしみじみとした言い方に、思わず浩一の笑みが深くなった。


「そうか。ご苦労様。姉さんも色々ストレスが溜まってるかな? 一頃より体調は安定している筈だけど」

「そうですね。お昼も一緒に食べましたけど、普通に食べていましたし元気でしたよ? 顔色も良かったですし」

「それなら良かった。同じ会社勤務でも、会いに行こうとしないとなかなか会えないから。今週は年度末で何かと忙しくて、一度も顔を見て無かったんだ」

「柏木産業クラスの企業だと、そうでしょうね」

 すっかり同居生活に慣れた二人はそんな事を和やかに話し合い、その間それぞれの些細な憂鬱な気持ちなどは、綺麗に忘れさっていた。

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