第62話:私にできることなら、してあげる
――また夢を見ていた。
これは子供の頃の記憶だとでもいうのだろうか。
今度は暗い部屋ではなく、光の入る、明るい部屋だ。
子供の猛を可愛がってくれる母親のような温もり。
優しい彼女は抱きしめながら言う。
「いい? 猛くんは強くならないといけないんだ」
強くなる、それはどういう意味だろうか。
「諦めないで。こんな運命に負けちゃダメなんだよ」
女の人は猛にそんな言葉を投げかける。
運命に負けない強さ。
どんな運命が待ち受けているのか、幼子には知る由もない。
「優しい子に育って。どんなに辛い思いをしても、人に優しい子であり続けて」
まるで願いのように、猛に囁き続ける。
その部屋にまた誰かが入ってくる。
「……その子の運命を変えられるかもしれないわ」
「先輩? どうしたんですか?」
「さっき、聞いただけど。養子に出すかもしれないって話よ」
「え? この子を手放すって言うんですか? どうして!?」
慌てた素振りで動揺する彼女。
「……それがこの子のためになるかもしれない」
「どういう意味です?」
「この狭い世界はこの子に優しくない。残酷な世界を与えるくらいなら、違う未来を与えてあげたいと思わない? 自由にさせてあげられる」
「手放すってことが幸せになれるとは思いません!」
「落ち着きなさい。貴方はお世話係にすぎないの。感情移入しすぎると辛いだけよ」
「わ、分かっています。それでも、今はこの子のために私は……」
女の人の手が猛の小さな手を握る。
必死な気持ちだけが伝わってくる。
「この子はまだ2歳なんですよ。それなのに、どうして?」
「大きくなれば今まで以上に辛い運命がこの子を苦しめる。その前に……」
「だからといって。こんなの、あまりにもひどいです」
「この子に選ぶ権利があれば、どちらを選ぶんでしょうね?」
この先に辛い運命が待ち受けていている。
どちらを選ぶのか、選択肢はふたつしかない。
「運命を受け入れるか、それとも逃げるか。どちらがこの子のためかしら」
「……大人の事情じゃないですか。そんなのに振り回される子供が不憫です」
「えぇ。それに、彼を手放すことが一番辛いのは母親でしょうね」
「あの人もあの人です。実の子供をどうして守ってあげられないんですか」
「守ってるわよ。今も必死で守ろうとして、でも、守れないって泣いてるの」
「どうして……現実はこんなにも残酷すぎるの」
ふたりの声はやがて消え去り、再び静寂になる。
またひとり、暗闇の中へと放り出されるのか。
――ひとりは嫌だ、ひとりは嫌だ。
辛い、怖い、不安しかない。
――ひとりは嫌なんだ。誰でもいい、助けて。
もがくように手を伸ばし、そして――。
――。
「……クン、ねぇ、猛クン?」
誰かが猛を揺らして起こす、その声に目が覚めた。
「大丈夫、猛クン?」
「……んっ」
「あっ、やっと起きてくれた」
「淡雪さん?どうして……んっ」
猛の顔を覗き込んでいたのは淡雪だった。
辺りを見渡すと、図書室の閲覧室。
時間も遅いせいか他に生徒は少ない。
――そうだ、確か、淡雪さんと一緒に。
課題の調べものをするために放課後、図書室に来た。
それなのに、ここ連日の不眠症気味のせいで、こんな場所で寝てしまっていたらしい。
「あ、淡雪さん?」
そっと、彼女が猛の頬を指で撫でてくる。
「涙……。猛クン、泣いていたのよ?」
「泣いてた?」
「びっくりして思わず起こしちゃったわ」
彼の涙をぬぐう指先。
その時になって、初めて猛は自分が泣いていたのだと気づいた。
瞳から零れおちた、涙の滴。
この年になって涙なんて流すのは久しぶりだ。
「う、うわぁ。恥ずかしっ。見ないでくれ」
「……いいから。夢を見て涙がこぼれたって、辛い夢を見ていたの?」
「分からないんだ。ここ最近、変な夢ばかり見てさ」
「覚えてないんだ?」
猛は頷きながら立ち上がることにする。
すぐさま目元をハンカチで拭いながら誤魔化す。
――こんな情けない姿を淡雪さんに見られてしまうとは……不覚。
気恥ずかしさに視線をそらしていると、
「猛クン、貴方が辛いのは私も見ていて辛いのよ。例え夢でもね」
ふっと彼女が猛の身体を抱きしめてくる。
強く抱きしめられると、心が落ち着いてくる。
「あ、淡雪さん?」
「……これで少しは落ち着くかしら」
「うん」
「よかった。貴方の不安を和らげさせてあげたいの」
淡雪さんの香り。
身体の柔らかさ。
それ以上に、不安が消え去っていくような安心感。
――そうだ、この安心感……。
猛は彼女の傍にいるといつも感じている。
無意識ながらも淡雪の存在に安らぐのだ。
――俺が淡雪さんを気に入ってるのはこういうところかもしれないな。
「淡雪さん。我が儘を言わせてくれ。もうしばらくだけ、こうしてくれないかな」
「辛いときは誰にでもあるわ。私にできることなら、してあげる」
つい彼女に甘えてしまう自分がいる。
「ありがとう、淡雪さん」
この安心感に包まれていたい。
放課後の人気の少ない図書室。
猛は彼女に抱擁され続けていた――。
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