第35話:昔の記憶を覚えていますか?

 

 彼が撫子以外の女の子に好意を示す時、彼女の胸は締め付けられるように痛む。

 それはもうずっと昔の記憶、子供の頃の話。

 ある日、家に一人の女の子がやってきた。

 名前は覚えていないけども、多分、両親の知り合いの子だ。

 その子は猛と仲良く庭で楽しそうに遊んでいた。

 

『おのれー』

 

 そんな2人を見ていると、幼心ながらも嫉妬してしまった。

 まだ人を恨むことも憎む感情も芽生えていなかった時期だったのに。

 その輪の中に参加&邪魔できなかったのは、その数日前に足を怪我していたから。

 軽い怪我だったけども、縁側に座りながら、ふたりを見ていることしかできなかったのは当時、ものすごく悔しかった。


――私以外の女の子が彼と楽しく遊んでいる姿を見たくなかったの。


 その頃からすでに独占欲は彼女の中に会ったのだ。

 そんな彼女に対して、彼は庭に生えていた白い百合の花を手折った。

 

『これ、綺麗だからあげるね』

 

 女の子に百合の花をプレゼントする。

 花を乱暴に切るのは怒られるが、プレゼントする分には怒られない。

 嬉しそうに彼女はそれを受け取る。

 

『ありがと。大和クン♪』

 

 微笑んだ彼女は美しい百合の花を見つめていた。

 

――兄さんが私じゃない相手にプレゼントをするのも許せない。


 けれども、兄さんに対して嫉妬心をぶつけるわけにもいかず。

 黙って見てることしかできなかった。

 結局、その子が家に遊びに来たのはそれ以来だったので、恋のライバルにならずにすんで本当に良かったと思う。


――そうじゃなければ、きっと私は……。


 その相手に対して言葉にできない真似をしていた。

 間違いなく確信できる。

 あの時感じたのは焦燥感。

 妹扱いのままではダメだと思った。

 

――兄さんには私に対して恋愛感情を抱いてもらわないと……。

 

 嫉妬心と焦燥感。

 一途な想いを幼いながらも実感した初恋の思い出。

 だけど。

 撫子はその日の記憶を不思議と恐怖も感じている。


――恐怖? なぜ、あの記憶が怖いと覚えているの?


 そのことを思い出して怖いと思うのは、その子に猛を取られると感じた恐怖体験だけだったのだろうか。

 それとも、あの日、別の何かがあったのか。

 それを思い出せないでいる。

 記憶を思い出せないのに、その事を思い出しては複雑な気持ちになるのだった。

 

 

 

  

「兄さんは昔の記憶を覚えていますか?」

 

 お風呂上がり、リビングで猛にいつものように髪をふいてもらう。

 その時に彼女は尋ねてみた。

 

「……昔のこと? どれくらい前だよ。中学の頃の話ならもうしないでくれ。消したい過去ってあるんだ。お願いします」

 

 別の意味で兄さんは過去に対して凹んでいた。

 

「兄さん、笑い話をしているのでありません」

「全然、笑ってないから!? 笑えないよ、うぅ」

「兄さんが私に愛を囁いていた素敵な日々の事は今は良いんです。それよりもずっと昔、子供の頃の話です。兄さん、幼稚園の頃はどうですか?」

「……あんまり覚えてないな。撫子といつも一緒だった記憶はある」

 

 そう、撫子にも同じ記憶はあるけども。

 

「人の記憶には限界があるんですね。思い出せない事だらけです」

「若年性アルツハイマー?」

「違いますよ。その手の話ではなく、人の記憶の扉には思い出せない鍵がかかっていることってあるでしょう?」

「そっちか。あるある。そりゃ、毎日365日、たくさんの経験をするんだ」


 思い出せないことだらけ。

 記憶の消去と整理は脳が勝手にしてくれるものである。


「私、兄さんとの思い出は胸の中にたくさんあります。それを思い出すのは容易です。あれは、小学3年生の春のことでした……」

「もういいです。俺の恥ずかしい過去を暴露しないで」

 

 ストップさせるために抱きしめてられてしまう。

 今にも泣きそうな顔をされるので、たまらなく撫子はにやけてしまった。


――兄さんが困った顔をするのはとても可愛くて好き。


 でも、やりすぎると嫌われてしまうので、その話はやめておこう。

 猛は撫子の髪を拭き終わり、タオルを片付ける。

 そして、撫子の座るソファーの横へと座る。

 

「昔の話がしたいのか?」

「思い出したい記憶があるんです。ただ、それができなくて」

「なるほど。古い記憶ほど、思い出せないものだからな」


 なくしてしまった、記憶の扉を開くための鍵。

 それを見つけ出したくて。

 撫子は猛にも話をしてみることにしたのだ。


「私自身の一番古い記憶はお母様かお父様に抱きしめられている記憶です。多分、抱っこされている時の記憶なんでしょう。それを今でも覚えています」

「よく覚えてるな」

「……えぇ、不思議ですよね。けれども、子供の記憶はすぐに消えてしまうものです。大抵の事は忘れてしまうものでしょう」

「物心がつく前ならしょうがないじゃないか」

「はい、忘れてしまっても、しょうがないんです」

 

 小学校に入るまでの記憶は印象が強い事くらいしか、覚えていない。

 子供の記憶なんてあやふやなものだから、と言ってしまえばそれまでの話。

 だが、その記憶に意味があるとしたら。

 

「兄さんの一番古い記憶で私との思い出を何か覚えてます?」

「思い出すからちょっと待って……えーと、幼稚園の頃だったか。撫子が家の古い蔵に閉じ込められた事があったのを覚えてるか?」

「蔵に閉じ込められた?」

「俺が5歳くらいで、撫子はまだ4歳くらいだったかな」

「ずいぶんと昔の記憶ですね」

「ほら、家の庭にある古い蔵だよ。あそこに閉じ込められたんだ」

 

 大和家は旧家だ。

 住んでいる家もリフォームされているとはいえ古い所も残っている。

 家の広い庭には江戸時代から残るとされてる古い蔵がある。

 簡単に開ける事も出来ない、古い施錠の鍵で閉ざされていた。

 中には大和家代々の古い骨董品などが入っているらしい。

 撫子がそこに入った記憶は一度もない。

 年に一度くらい整理のために、扉を開ける事はあっても、古くてかび臭いと想像している蔵に入りたいとは思わない。

 

「兄さんとその蔵に入ったと言う記憶を私は覚えていません」

「そうか。偶然にもその日は扉が開いてたから、撫子と一緒にその蔵に忍び込んだんだ。でも、いきなり扉が閉まってしまった」

「そんなことが?」


 覚えはないが、きっと大変だったのだと推測できる。


「頑張ってあけようとしても、まったくびくともしなかったよ」

「閉じ込められてしまったんですね。私達はどうなったんですか?」

「撫子が怖くて泣いてしまって。俺は妹を守りたいって気持ちで何とか頑張ってそこから脱出しようとしていた」


 その後、様子がおかしいことに気付いた雅が助けてくれた。

 どうやら、古い扉が壊れて閉じ込められたらしい。

 外からは開けられるが中からはどうしても無理だったようだ。


「雅姉さんのおかげで怪我もなく無事に出られて、よかったですね」

「まぁね。何もなくてホッとしたよ」

 

 小さな頃の撫子はきっと怖くて仕方がなかったんだろう。

 

――それでも、大好きな兄さんがいたから、私は安心はしていたはずだ。


 頼れるその背を見て育って来たんだ。

 

「……ただし、よかった、と言うのは結果論だな」

「というと?」

「あの後、父さんにものすごく怒られたからさ」

「あらら」

「子供が入ったら危ない場所だ。割れやすい壺とか、子供にとっては危険なものもあるし。すごく怒られたのも苦い記憶だな」


 あの時の父の怒り顔は今でも思い出すと恐ろしい。


「お父様も怒る時は怒る方ですからねぇ」

「けれども、抱きしめられて『無事でよかった』と心配もしてくれた」

「お父様もお母様も、私達を小さな頃から大切に感じてくれていたんですね」

「そうだな。それが俺の覚えている一番古い記憶だよ」

 

 撫子が知らない子供の頃の思い出。

 けれども、人にとって忘れない記憶はある。

 

「昔の記憶ってさ、何かきっかけひとつで思い出したりするものだよな」

「きっかけ、ですか。そういうものかもしれません」

「それが記憶の扉を開く鍵なんだ。見つかるといいな?」

「……はい」

 

 その言葉を胸に留めることにした。

 そして、ふとしたきっかけで、そのカギを手にすることになる――。

 

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