マッチ箱は電気羊の夢を見るか ー電子立国日本、復興への道ー

いわのふ

第1話 研究室

 私は生化学を長いことやってきたが、今はK大の教授に応募してどういうわけか合格してしまい、春から赴任している。それまでは、毎日毎日、カネもうけの話ばかりのとある製薬会社にいて、いかにカネがもうかる開発するかばかり考えさせられてきた。私もそんな日々をすごしているうちに、同僚たちは学会で実績をつんで、次々に大学に出て行く年頃になった。


 とは言っても今の大学も同じだ。教授、というのは名ばかりで、専門性が問われているわけではない。外部からどれだけ資金を獲得できるかが問われている。だから、勤め人だった私が合格したのだと思う。博士論文は書いていて某大学から博士号もとっており、くだらない論文の数本でも書いているので、資格としては十分であるとされたが。大学の運営は、もといた会社からの共同研究とか期待しているのだろうが、申し訳ないがそういうことはしたくない。


 といって、カネをもらってこないことには研究費もろくに出ないし、基礎研究ばかりやっていると干される。十年後の日本からノーベル賞はもう出ないと言われる由縁である。周りの教授連中は、しょっちゅう出張に行っている。学会ならまだしも、企業に行って、宣伝に必死なのだ。自分の研究室の運営は自分でやらねばならない。教授は、零細企業の社長のようなもの。では、助教、准教授はどうかというと、これまた雑事でほぼ研究する時間なぞない。


 彼らは学会の世話係から、どうでもいい書類書きなど一日中やり、果ては学生の面倒を見ており自分の研究時間なんてあるわけがない。可哀想だが、学問的な業績を期待する方が間違っている。金儲けてどこが悪い、と開き直ったどこぞやらの投資家みたいだ。周囲の研究室を見ると、もうかなり前に発掘した事実をことさら大げさに宣伝媒体に発表して、研究費を獲得しようとしている。論文ときたら、英語だけはやたらと上手ではあるが、内容ときたら陳腐なものばかりだ。


 私には研究したいことがあり、まだそういう気持ちを持っているから大学に来たわけだが、かねてから聞いてのとおり、そこは研究の場所と言っていいのか、わからなくなりつつある。どこまでいっても、カネがついてまわり、すぐに儲けられない研究なんて掃いて捨てる扱いだ。


 その掃いて捨てたくなるような内容の研究を私はやりたいわけであり、内容といったら人間の意識、ようするにこころに関するものなのである。てっとり早くカネを手にするのなら、人工知能の研究です、と開き直ることも可能だが、現代の人工知能の研究はかつてからあった遺伝的アルゴリズムとか統計処理とかを、やたらと沢山の処理装置が並んだコンピュータにさせるものに過ぎない。


 ゲームの理論が流行った頃とやってることはそんなに変わらない。変わったのはコンピュータ以外にも周辺のハードがすごくよくなって、データをたくさん扱えることくらい。なにがシンギュラリティだ、と私は思うのだ。要するに機械が人間を超える日が近いとか、あの手の馬鹿馬鹿しい経済誌の特集記事の謳い文句である。


 そんなことにはならない、ってことは大衆だって大手情報産業の出すAIスピーカで身をもって知っている。なんだ、あの回答は。「すみません、わかりません」。データがそろってないか、認識プログラムがまともじゃない証拠だろう。とうていAIなんて呼びたくはないよ、そんなガラクタ。


 そうではなくて、私はこころの本質なるものを見極めたいのだ。たとえ、あのドクター・リリーのようにマッドサイエンティストと呼ばれようと、オカルト学者と言われようと。

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