十五  好きに断ってくれていい。



 たっぷりと心魂がおののくのを感じて後、まぶたを開けてみれば、早緑さみどりはすっかり元の姿勢に戻っていて、「ほんっと、マゾヒストが叱咤する役目って、どんな冗談。」さらには犬でもなくなっていた。僕に限らない、早緑は部員の面々に向けて、さっさと書けだの、今のペースでは間に合わないだのと、そのようなことを伝えているはずである。以前に聞いたところによれば、ユウと花凛がちゃんとしないから仕方なく、とのことで、部長と副部長が至らぬゆえ。全く頭が上がらない。

 僕は今、寝転んでいて、頭は上げていない、そんな不条理な理屈を拠り所として、ふわと湧いた悪ふざけの心を押さえず、早緑に呼びかけた。「ぽち。」「わん、なんて言うと思ってるの?」早緑の問いかけには応じず、僕は重ねて呼んだ。「ぽち。」「わん。」どうやら今なお、逆らい難いものであるらしい。もっとも、今では気安いじゃれ合いであると、どちらも承知だ。飼っても飼われてもいない。

 目を瞑ったら奇襲を受けた、目を開けばまなこが日に焼かれる。僕は寝転んだままでいられず、半身を起こした。それを見て、早緑はバッグを提げて立ち上がる。やっと場所を移そうというのか。に、しても、天日干しの後であれば期待感はなかった。僕も立ち上がったところで、早緑は言った。「ユウが無用な反省をしないよう、言うけど。ユウは最後まで私を好きになろうとしていた。根負けしたのは私の方でしょう。ユウは、そんな私を見かねただけ。」早緑は芝生をサンダルで踏み、勾配を下った。僕もそれに続く。早緑の後ろ髪と髪留めを見ながら、そこにある光の反射を見ながら、早緑が言うのを聞く。「御主人様からの最後の命令は、もう僕を男として見るな。忠犬は、いまだにそれを固く守っている。だから揉めないし、こうしてふざけ合える。どこに悪いことがあるの。」端緒に責任がなければ、必然として生じた過程に責任を負えず、また終わらせ方も問題なかったと、そうなる。少しは背負わせて欲しいとも思うのだが、今は早緑に譲った。

 緩やかな芝生の下りを終えて、園内を巡るアスファルトの道まで出た。舗装されては、地から浮く熱が強くなる。「あえて言うなら――」早緑は行く道を迷わずに進みつつ、歩調を落として半ばまで振り向き、横目を向け、僕に微笑みの半分を見せた。「――あれから彼氏ができても、一回しちゃうと冷める体にされたのは恨んでる。」心臓に悪い話だ。早緑の立場で考えれば、最初が僕との一件だったのだから、後では物足りないどころか、行為をしたと思えるのかどうか。「あと、ね。」早緑は行く方へと向き直り、髪留めの光輝こうきが短く弧を巡る。「私は今、文芸部の活動をやり遂げようとしている。明るい作品も書ける。」時を同じくして文芸部に入って後、およそ二年半、僕は、早緑の変化を最も強く感じている者のひとりだろう。「それだけ取っても、私には奇跡としか思えなくて。生きる度に恩義が増えるの、本当に迷惑。」結局、行き着く所は謝辞で、それをこそ言いたいのだからと、無粋を省き、黙って受けた。


 早緑には、僕を冷房の行き届いた場所に連れて行こうという気はないらしい。日差しは群れを成す木の葉に遮られたが、夏は、それがどうしたと言わんばかりに奮う。早緑が目指したのは園内にあるアイスの自販機で、僕はなんとなくの冒険心でカスタードプリンを選んだ。アイスのを握って、一匹きりの蝉が、すぐ頭上で鳴くのを聞いている。ティラミスを選んだ早緑が、小さなひと口でアイスを囓るのを見ていたら、不意に、早緑の目が見開かれ、震駭しんがいの気色さえみ出た。「そっか。そう。だから。どうして私が、今まで気付けなかったんだろう。」何かしら、知見を得たというふうで、何がどうと聞こうとして、「ユウって、同性の友達、いないでしょう。男が苦手というか、全然だめで。」早緑にせんを取られた。

 裏付けを取ることなるのだろうと、僕は正直に答えた。「ちっとも。ただのひとりも。今でこそ落ち着いたし、緩慢な和解も経たけれど、ちょっと昔までの父は、ひと言で言えば最悪だったから。その影響が強いみたいだ。」ゆえに、叔父に懐くことにもなった。実家にいたがらない理由でもある。今は花凛の家に入り浸り、かつては頻繁に叔父の家に遊びに行き、衝突を避けてきた。「父親と、一般的な男のイメージが重なったのかもしれない。うちの叔父は、一般的とはとても言えないな。だから僕は倣ったわけか。自分が、憎むものに似るのが嫌で。」早緑は、教師の持つ指し棒のように、アイスを僕に向けた。「だからユウは、女のことで悩むと、私の所に来るの。」早緑は進路について、教育学部か文学部かで悩んでいるそうなのだが、その凜々しさは、もし文学部に入れば才能を埋もれさせると思わせた。

 アイスの先は僕に向いたまま。主点はこれから。「女のことで悩んでいても、女に相談するしかないの。ユウは。叔父さん、あるいは叔父さんの元奥さん、もしくはお母さん、そういった人を選ばないなら。」話を絞るために、僕はひと言挟んだ。「女の悩みで、選ぶ気にはなれない。」頭上、蝉の声が過剰に響いて聞こえる。一匹きりで、こんなにうるさく鳴く蝉はいないだろうに。鳴き声の飽和に切り込むようで、早緑の話すのが聞こえた。「それなら、ユウを異性として意識しないのは私になる。私だけはユウを男と見ない。少なくとも、問題が増えることはない。」早緑はアイスを引き、自分の口元まで戻した。話が終わったわけではなかった。「そして私は、ユウが飼っていたは、命令を破ったりなんてしない。ユウは安心していられる。でしょう?」僕がついさっき、僕自身を過去の男と言ったのは、大層な野暮だ。男なものか。

 僕は、意識に確たるものとして浮かばずとも、早緑が忠を尽くすことを期待し、信じていた。明晰めいせきな観念を与えてやらずにいただけで、早緑に伴う安心感と信頼にこそ甘えてきた。解釈に違和感は一片いっぺんも覚えず、ただ真実として理解するのみだった。蝉の声の音響が戻る。急に爽快に聞こえるようにもなり、見てもいない夏空が晴れやかに思われ、しかし、しかしひるがえる。寸秒を待たずに生殺せいさつが覆る。五感のうち聴覚の他が消え、その主観が、蝉声せんせいを見当違いの方向から聞く。鳴き声の小隙しょうげきにある無言しじまが飛び失せる。間断を無くした響きに、音であるのに、色の逆転を見る。げん白磁はくじと、鉛白えんぱくすみと。ならば昼光ちゅうこうの反射はどうなる、見当たらない。ただひとつ、ひとつだけ、新たに気付いて、それのみを所以ゆえんに、現実の今を目まぐるしく別に覚えていく。

 唯一である早緑が立つ向かい、対岸にあればこその僕。映る。僕の居る岸辺が映る。そこにある。居る。この夏に重ねられてきた数多あまた。ある。そして居る。浮かぶのは心象であれど、贋物がんぶつではない。見た、触れた、信じた、だから、意味がある。

 思ってしまった。

 

 理由などわけにならない。筋道を必要としない。分かる。欲しい。はっきりしている。僕の居る岸辺が映れば、映る程に、分かる。

 

 反転されなくては。

 僕は全てを裏返せる。たったひと言を口にすれば始まる。意志さえ失わなければ遂げられる。そして、そうする。さもなくば、さもなくば誰だ。そもそも、それは誰だ。大楠おおくす結真ゆうまという名の人間はしないか。望むわけがない。では、それは僕なのか。大楠結真は、その名を持つ才能はするか。分かりきっている。では、それは僕ではないか。違う何者かなのか。誰と知れずとも、結果はふたつない。僕は必ず、そうする。

 ――結真が求めているのは女じゃなくて愛だから。

 確かに知っているはずだ。この夏に、居る岸で、教えられたろう。お前は大楠結真と。愛を求める、つまらないひとりの人間だと。

 ――どの作家の書いたどんな作品よりも、絶対に、必ず好きです。

 思い描くな。それは居るんだ。あるんだ。解釈をたがえるな。お前を対岸に押しやる言葉と思うな。

 ――締切、ちゃんと守ってくださいね。

 気は醒める。ただの部活動だ。冊子に載せ、時には文化祭で売る、それだけのもの。確かに、そこには大楠結真の名がある。これまで繰り返し載ってきた。次の一回で、もう二度と載らない名ではあるだろう。だから何と――だとして――

 では、

 感じないか。夏が呼吸をしているのを。まさかお前が、それを切り取り、息吹く物語にできないというのか。――できる。でも違う。そっちじゃない。触れただろう、繋がったろう、共に歩いたのだろう、それを正しく書かない理由があるのか。――ない。けれど違う。そっちじゃない。打ち消せぬ望みは、肯定ではなく否定だ。ことごとくを否定して、否定し尽くして、ひとつしか残したくないと。そっちじゃない。そっちでは。

 叔父に倣うにしては、ずいぶんと酷い。待ち合わせの時間を守らない程度で済まない。否定が残すひとつ、あるべきでない、拓くはずのなかった道に、踏み出す足しか知らないという。残さなければいいものを、、そのために、花凛の家に残した懸案も、それがために早緑と会った今も、のみか、何もかもを、まるで裏切ろうという。

 僕の神である僕は許さない。裏切らないでいることを、決して許さない。

 いつまで経っても、叔父に倣うことのできないものがあると、考えは至る。それは願いだ。無理にでも進む道の先に、叔父が臨んで、願うのは受け手だ。誰かが読み、何かを思う。知り、感じて、そして、あるいは、あるいは、叔父はそのことに祈り、懸けている。僕の祈りはそこにない。ただの一度でもあったか、ない。けれど願っていたろう、何者かの生きるよすがであれと。それは何だったか。運だ。とうに結果が出た後の運だ。勇奈に痛烈に届いたものは、僕の作品から失われてくれるなと勇奈が切望するものは、僕にとって幸運に過ぎず、僕の神にとっては埒外らちがいだ。

 僕の神たる僕は、僕の言葉、僕の物語しか愛さない。

 僕自身さえ、愛さないというのだ。

 命であれ。

 お前の物語にふさわしい命であれ。

 僕の神は、それが言霊ことだまでなければ、

 正しくあれ。

 言霊として、正しくあれ。

 

 誰が読もうと、読むまいと、それは神の知る所にない。その時にはいないのだから。あるべき命がそこにあるか、ないか、それが全てというのだ。虚ろなまやかしに命を宿してやる卑怯こそ、果たされたとの思いを与えるというのだ。経過など、辿る道など、僕の神にとっては、それこそ埒外だというのだ。僕はこれからそむく。僕を愛さず、自らの望みを自らで焼き消し、何をも裏切る。だから何だと神は言う、その果てに書き上がるものが、言霊でありさえすればいい。その後でなら、よすがであれと好きに望め。とうに手遅れであろうと。

 夏がここにある。夏に育まれたはずの生命が、しかし焦がされる。照らされ輝こうとすればこそ、日射に傷む。息苦しくて仕方がない、散々、生きろと急かしておいて、苦しい、何食わぬ顔でさらに急かそうというか。阻まれることを知らず、鬱陶しく粘り着き、それで憎ませてはくれない。蒸熱じょうねつを迎え、光彩に目をしばたたくことを喜ぶ。空蝉うつせみを踏み、蝉の死骸を散見し、蝉のに耳を傾ける。ずいぶんとずるいじゃないか。そうだろう、だから、、きっと、夏は、僕のは、善良ではない。命はある。書ける命はある。こんな季節、どこにでも転がっているさ、石ころ程に。言霊にさえ、してやれるかもしれないが、しかし――

 ――正しくはない。

 否定を重ねた末の解法、望むべき唯一のことは、石ころを拾うのか。

 僕は裏切ると思ったか。

 いや。はっきり、と思ったんだろう?

 その先に言霊をこそ欲しいと思ったんだろう?

 僕の神は僕だ。だから、僕が望んだ。

 書きたい。

 ひとつ息を整えれば、僕は驚く程に冷静で、また、僕の感ずる世界のようも元に戻っていた。相変わらずの、どこにでも命が転がる夏だった。最初から、結果は知れている。持っていては格好が付かないと、それだけの理由で、僕は食べかけのアイスを放った。アイスは溶けるとしても、ごみになる。早緑は眉をひそめたが、今の僕には些末なことと思えてしまう。僕はためらいを覚えぬままに切り出した。「早緑。これから言うことは命令じゃない。だから、好きに断ってくれていい。」愛をこそ欲している、つまらないひとりの人間がそれを言う。裏切ってはならないものを間違える。そして、正解を書こうとする。石ころのうちのひとつには違いない。

 今だからこそか、それは考えた。きっと今だけだろう。いつまでも叔父に倣わぬ子供ではいられない。どうせ乗る。お前は作家になれという話に乗る。物語の命ばかり気にして生きられなくなる。それはつまらないだろうと、子供のお前が考える。けれどやはり、願いは正されねばならないだろう、そうも思う。

 僕の神は僕だ。

 この夏が終われば、僕の祈りは直される。だから、この夏に書くもので、僕が死ぬ。

 夏の言霊が残り、僕が残る。

 そうであれ。

 そうであってくれ。

 を始める。

 その先にある夏の命が欲しい。それがどんなものであったとしても、僕はそれを書きたい。それを僕の言葉にする。それを僕の夏の言霊とする。今、これから、全ての正解を裏返し、願いと思慕をひるがえし、覆い尽くされた否定の先に何があるか、。僕はそれに命を見るだけだ。

 石ころを拾いたいか。

 たったそれだけの、理由も要らないような気持ちだ。

 そのために、何をも裏切り、覆す。

 僕は早緑を見つめている。真っ直ぐに。僕は僕の神に敗れた。、その始点になる言葉を、言わずにいられない。始めよう。始まらないことを、もはや、思い描けない。

。」

 多くは言わなかった。結果としては、早緑もアイスを放った。正確に言えば、アイスの柄を握る握力を保っていられなかった。体を震わせ、早緑の口にしたのは、「わん。」ただ、それだけだった。




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