十五 好きに断ってくれていい。
たっぷりと心魂が
僕は今、寝転んでいて、頭は上げていない、そんな不条理な理屈を拠り所として、ふわと湧いた悪ふざけの心を押さえず、早緑に呼びかけた。「ぽち。」「わん、なんて言うと思ってるの?」早緑の問いかけには応じず、僕は重ねて呼んだ。「ぽち。」「わん。」どうやら今なお、逆らい難いものであるらしい。もっとも、今では気安い
目を瞑ったら奇襲を受けた、目を開けば
緩やかな芝生の下りを終えて、園内を巡るアスファルトの道まで出た。舗装されては、地から浮く熱が強くなる。「あえて言うなら――」早緑は行く道を迷わずに進みつつ、歩調を落として半ばまで振り向き、横目を向け、僕に微笑みの半分を見せた。「――あれから彼氏ができても、一回しちゃうと冷める体にされたのは恨んでる。」心臓に悪い話だ。早緑の立場で考えれば、最初が僕との一件だったのだから、後では物足りないどころか、行為をしたと思えるのかどうか。「あと、ね。」早緑は行く方へと向き直り、髪留めの
早緑には、僕を冷房の行き届いた場所に連れて行こうという気はないらしい。日差しは群れを成す木の葉に遮られたが、夏は、それがどうしたと言わんばかりに奮う。早緑が目指したのは園内にあるアイスの自販機で、僕はなんとなくの冒険心でカスタードプリンを選んだ。アイスの
裏付けを取ることなるのだろうと、僕は正直に答えた。「ちっとも。ただのひとりも。今でこそ落ち着いたし、緩慢な和解も経たけれど、ちょっと昔までの父は、ひと言で言えば最悪だったから。その影響が強いみたいだ。」ゆえに、叔父に懐くことにもなった。実家にいたがらない理由でもある。今は花凛の家に入り浸り、かつては頻繁に叔父の家に遊びに行き、衝突を避けてきた。「父親と、一般的な男のイメージが重なったのかもしれない。うちの叔父は、一般的とはとても言えないな。だから僕は倣ったわけか。自分が、憎むものに似るのが嫌で。」早緑は、教師の持つ指し棒のように、アイスを僕に向けた。「だからユウは、女のことで悩むと、私の所に来るの。」早緑は進路について、教育学部か文学部かで悩んでいるそうなのだが、その凜々しさは、もし文学部に入れば才能を埋もれさせると思わせた。
アイスの先は僕に向いたまま。主点はこれから。「女のことで悩んでいても、女に相談するしかないの。ユウは。叔父さん、あるいは叔父さんの元奥さん、もしくはお母さん、そういった人を選ばないなら。」話を絞るために、僕はひと言挟んだ。「女の悩みで、選ぶ気にはなれない。」頭上、蝉の声が過剰に響いて聞こえる。一匹きりで、こんなにうるさく鳴く蝉はいないだろうに。鳴き声の飽和に切り込むようで、早緑の話すのが聞こえた。「それなら、ユウを異性として意識しないのは私になる。私だけはユウを男と見ない。少なくとも、問題が増えることはない。」早緑はアイスを引き、自分の口元まで戻した。話が終わったわけではなかった。「そして私は、ユウが飼っていたぽちは、命令を破ったりなんてしない。ユウは安心していられる。でしょう?」僕がついさっき、僕自身を過去の男と言ったのは、大層な野暮だ。男なものか。
僕は、意識に確たるものとして浮かばずとも、早緑が忠を尽くすことを期待し、信じていた。
唯一である早緑が立つ向かい、対岸にあればこその僕。映る。僕の居る岸辺が映る。そこにある。居る。この夏に重ねられてきた
思ってしまった。
逆だ。
理由など
違う。そっちじゃない。書きたいものは。
反転されなくては。
僕は全てを裏返せる。たったひと言を口にすれば始まる。意志さえ失わなければ遂げられる。そして、そうする。さもなくば、さもなくば誰だ。そもそも、それは誰だ。
――結真が求めているのは女じゃなくて愛だから。
確かに知っているはずだ。この夏に、居る岸で、教えられたろう。お前は大楠結真と。愛を求める、つまらないひとりの人間だと。
――どの作家の書いたどんな作品よりも、絶対に、必ず好きです。
思い描くな。それは居るんだ。あるんだ。解釈を
――締切、ちゃんと守ってくださいね。
気は醒める。ただの部活動だ。冊子に載せ、時には文化祭で売る、それだけのもの。確かに、そこには大楠結真の名がある。これまで繰り返し載ってきた。次の一回で、もう二度と載らない名ではあるだろう。だから何と――だとして――
では、いったい何であれば、それから逃れられる。
感じないか。夏が呼吸をしているのを。まさかお前が、それを切り取り、息吹く物語にできないというのか。――できる。でも違う。そっちじゃない。触れただろう、繋がったろう、共に歩いたのだろう、それを正しく書かない理由があるのか。――ない。けれど違う。そっちじゃない。打ち消せぬ望みは、肯定ではなく否定だ。
叔父に倣うにしては、ずいぶんと酷い。待ち合わせの時間を守らない程度で済まない。否定が残すひとつ、あるべきでない、拓くはずのなかった道に、踏み出す足しか知らないという。残さなければいいものを、書かなければいいものを、そのために、花凛の家に残した懸案も、それがために早緑と会った今も、のみか、何もかもを、まるで裏切ろうという。
僕の神である僕は許さない。裏切らないでいることを、決して許さない。
いつまで経っても、叔父に倣うことのできないものがあると、考えは至る。それは願いだ。無理にでも進む道の先に、叔父が臨んで、願うのは受け手だ。誰かが読み、何かを思う。知り、感じて、そして、あるいは、あるいは、叔父はそのことに祈り、懸けている。僕の祈りはそこにない。ただの一度でもあったか、ない。けれど願っていたろう、何者かの生きる
僕の神たる僕は、僕の言葉、僕の物語しか愛さない。
僕自身さえ、愛さないというのだ。
命であれ。
お前の物語にふさわしい命であれ。
僕の神は、それが
正しくあれ。
言霊として、正しくあれ。
決して裏切ってくれるな。他の何を裏切ることになろうとも。
誰が読もうと、読むまいと、それは神の知る所にない。その時にはいないのだから。あるべき命がそこにあるか、ないか、それが全てというのだ。虚ろなまやかしに命を宿してやる卑怯こそ、果たされたとの思いを与えるというのだ。経過など、辿る道など、僕の神にとっては、それこそ埒外だというのだ。僕はこれから
夏がここにある。夏に育まれたはずの生命が、しかし焦がされる。照らされ輝こうとすればこそ、日射に傷む。息苦しくて仕方がない、散々、生きろと急かしておいて、苦しい、何食わぬ顔でさらに急かそうというか。阻まれることを知らず、鬱陶しく粘り着き、それで憎ませてはくれない。
――正しくはない。
否定を重ねた末の解法、望むべき唯一のことは、どこで石ころを拾うのか。
僕は裏切ると思ったか。
いや。はっきり、裏切りたいと思ったんだろう?
その先にある言霊をこそ欲しいと思ったんだろう?
僕の神は僕だ。だから、僕が望んだ。
書きたい。
ひとつ息を整えれば、僕は驚く程に冷静で、また、僕の感ずる世界の
今だからこそか、それは考えた。きっと今だけだろう。いつまでも叔父に倣わぬ子供ではいられない。どうせ乗る。お前は作家になれという話に乗る。物語の命ばかり気にして生きられなくなる。それはつまらないだろうと、子供のお前が考える。けれどやはり、願いは正されねばならないだろう、そうも思う。
僕の神は僕だ。
この夏が終われば、僕の祈りは直される。だから、この夏に書くもので、僕が死ぬ。
夏の言霊が残り、僕が残る。
そうであれ。
そうであってくれ。
全てが反転する夏を始める。
その先にある夏の命が欲しい。それがどんなものであったとしても、僕はそれを書きたい。それを僕の言葉にする。それを僕の夏の言霊とする。今、これから、全ての正解を裏返し、願いと思慕を
石ころをどこで拾いたいか。
たったそれだけの、理由も要らないような気持ちだ。
そのために、何をも裏切り、覆す。
僕は早緑を見つめている。真っ直ぐに。僕は僕の神に敗れた。全ての反転、その始点になる言葉を、言わずにいられない。始めよう。始まらないことを、もはや、思い描けない。
「僕をまた、男として見てくれないか。」
多くは言わなかった。結果としては、早緑もアイスを放った。正確に言えば、アイスの柄を握る握力を保っていられなかった。体を震わせ、早緑の口にしたのは、「わん。」ただ、それだけだった。
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