十四 男じゃなくて、ユウはユウだから。
昨夜、
ひとつは、今から勇奈がひとりでどこかへ泊まっても、僕の不安を招くだけではないかということ。勇奈の手持ちの金も、少なくはないが、いつ終わると知れない家出を考えればゆとりはなく、いっそ僕の目が届く場所にいたほうがいいだろう、と。無論と言うべきか、僕が金を出すことは、少なくとも現時点では拒まれた。僕に遠慮して勇奈が家に帰ることは、僕が望まなかった。
ふたつは、ふたりでどこかへ泊まっても、抱きたくても抱けないでは僕の負担が増えるだけ、また、その場合、花凛がどういう行動を取るかわからない、と。そして、悔しそうにしながら勇奈が伝えたのは、曰く――
一昨日の夜と違ったのは、花凛がバイト先の
僕に純粋な不快がない分、能動的になりきれないのが厄介で、おそらく、介入も望まれていない。それでも、整理しなければならないだろう。解の輪郭も見えないのであれば悩ましい。勇奈のことひとつ取っても、あれほど切たるものを明かされれば、ただの師弟で何がいけないと、僕はそのように言えない。
能動の欠ける点に甘えて、今朝、僕は人に連絡を取り、会う約束をして、今がある。駅ひとつ、待ち合わせ相手にとっては駅ふたつのところに、広々とした公園がある。外周は四キロメートルほどあろうか。僕はただ落ち合う場所と思っていたが、ここは目的地だった。であればこその天日干しだ。
開けた視界では、広く、芝生が青々と生きる。僕は芝生の上で足を伸ばし、遠くにマンション群を望む。勾配の下では子供たちが
僕の隣で足を崩して座るのは、僕の同年で、文芸部の会計を務める
眼下では子供達が駆け出す。どこから川に飛び込むべきか、結論が出たのか。「僕は、行き先を任せるとは言った。熱中症になりたいとは言ってない。」ぶつくさ言うと、早緑は自分のハンドバッグから、ペットボトル入りのスポーツドリンク、間違いなく飲み
ぼうっと空を見た。僕からの配慮はきっと望まれていない。「そんなにこだわることなのか? あくまで過去の男だろう。」隣で、ペットボトルの蓋を開ける気配があった。「男じゃなくて、ユウはユウだから。」ふたりきりで会って話す時だけ、早緑はいまだに、僕のことをユウと呼ぶ。当時、ふた通りあった呼び名のうち、一方。僕としても、今は早緑、普段は菅原だった。「ユウが困ってたら、アラスカからでも駆けつけるのがせめてもの恩返し。本当に海外留学したらどうしよう。」と、早緑は真面目な口調で話す。早緑が喉を鳴らす音がしてすぐ、ふっと、早緑が言うのを聞く。「悔しかったから、なんて言ったら怒る?」太陽しか視界に入らない空では興に欠け、僕はマンション群の高層階まで視線を下ろした。せめて夏の飛行機雲でもあれば
不意に肩を叩かれて、それがため、僕は視線を早緑へと移した。早緑は、スカートの上から自分の
かつての早緑には、自ら自分の血を抜いて煩悶を解消する悪癖があり、それを
早緑は腿から手を離し、もう一方の手にあったボトルをバッグに入れた。「ああ、過去形じゃないか。」早緑は呟きとも取れるように言ってから、
今度は早緑が空を見上げ、それに釣られて、僕も中空に目を遣った。僕の意識から
互いの顔を見ずに、昔語りは続いた。「ユウに処女を奪ってもらうところから始めて、たった一ヶ月で、よくもまあ、あれだけ。」会話の切れ間でさえ、他の音が意識の
早緑がバッグを漁る音がして、次いで、僕の頬に押しつけられた物があった。見てみれば、それは個包装になっている塩レモンのキャンディ。用意が良い。早緑がつまんだそれを、僕は無言で受け取った。僕を熱中症にするつもりはまるでない。「反省なんて。あの流れを作ったのは私でしょう。私がどれだけ言われていたか。そんなことはもうやめろ、と。私は耳を貸さず、
キャンディを口に含んだままの昔語りは、どういうわけか、僕の感傷を掻き立てる。早緑を見ながら感じる苦しさは、どう言葉にすればいいか。「最初の命令がそれなんだもの。そんな優しさ、受けたことなくって。性的な好奇心で犬になった私は、すぐ、ユウが欲しいひとりの女になっていた。二度騙された気分だった。」早緑は次いで苦笑を浮かべたが、僕にはそれが、今日一番の微笑みに見えて仕方なかった。「お互い、もっと別なことで悩んだね。ただの飼い犬なのに、一番になりたいと思っちゃった私、そして、そんな私のことを、必死で好きになろうとしてくれた、ユウ。」
早緑は、大切な物のように芝生を指で撫でた。「こんな良いお天気の日に、昔話なんてするものじゃないかな。ああ、でも、ちょうどいいから、懐かしさのついでに、ひとつ言わせて。」早緑の話を聞きつつ、こうなれば天日干しも一興だと思えて、僕は芝生に寝転び、目を瞑った。「どうぞ。」とだけ、僕は気楽に言った。目を瞑った僕を奇襲する形で、早緑はこっそりと僕の耳元に唇を近づけ、柔らかに口にした。「締切、ちゃんと守ってくださいね。御主人様。」原稿の進行管理は、前々から早緑の仕事だ。僕はすっかり肝を冷やす。まだ一文字さえ書けていないとは、とても口に出来ない。
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