十四  男じゃなくて、ユウはユウだから。



 花凛かりんの家のそばの神社よりも、木々に囲まれているわけでない分、蝉の声の密度が低い。聞こえるのはもちろんだが、その蝉声せんせいは僕の中で感性に生まれ変わることなく、丸々が、ともすれば蝉の鳴き声であることさえ忘れられ、抜けていく。「いくら僕だって、情緒じょうしょを感じられる限度というものがある。」見事な快晴、これでは天日干てんぴぼしだ。

 昨夜、勇奈いさなの心情を僕が知るのみで、状況は変わらなかった。

 ひとつは、今から勇奈がひとりでどこかへ泊まっても、僕の不安を招くだけではないかということ。勇奈の手持ちの金も、少なくはないが、いつ終わると知れない家出を考えればゆとりはなく、いっそ僕の目が届く場所にいたほうがいいだろう、と。無論と言うべきか、僕が金を出すことは、少なくとも現時点では拒まれた。僕に遠慮して勇奈が家に帰ることは、僕が望まなかった。

 ふたつは、ふたりでどこかへ泊まっても、抱きたくても抱けないでは僕の負担が増えるだけ、また、その場合、花凛がどういう行動を取るかわからない、と。そして、悔しそうにしながら勇奈が伝えたのは、曰く――大楠おおくす先輩にとって居心地の良い、良い作品が書ける場所だから、そこから連れ出しちゃいけないって、思うんです。

 一昨日の夜と違ったのは、花凛がバイト先のまかないで夕食を済ませる裏で、勇奈と共に外食をしたのが、昨夜は勇奈の手料理だったこと、勇奈曰く――コンドームのお返しに、見せつけます。調理器具や食器はすぐに洗われ、綺麗に並んだ。加え、就寝がいくらか遅かったこと。寝るまでの間、なぜかトランプで遊び、僕が勝った――僕の印象では、勇奈と花凛のふたりは、どちらが僕の勝ちに貢献できるかで競っているように思えた。さらに加え、花凛に頬をつねられなかったこと。

 僕に純粋な不快がない分、能動的になりきれないのが厄介で、おそらく、介入も望まれていない。それでも、整理しなければならないだろう。解の輪郭も見えないのであれば悩ましい。勇奈のことひとつ取っても、あれほど切たるものを明かされれば、ただの師弟で何がいけないと、僕はそのように言えない。

 能動の欠ける点に甘えて、今朝、僕は人に連絡を取り、会う約束をして、今がある。駅ひとつ、待ち合わせ相手にとっては駅ふたつのところに、広々とした公園がある。外周は四キロメートルほどあろうか。僕はただ落ち合う場所と思っていたが、ここは目的地だった。であればこその天日干しだ。

 開けた視界では、広く、芝生が青々と生きる。僕は芝生の上で足を伸ばし、遠くにマンション群を望む。勾配の下では子供たちがじゃれていて、うち何人かが熱心に議論しているのは、耳に届く限り、園内の川にどこから飛び込むのが一番面白いか、であるようだ。僕の頭上には空しかない。「なあ、少し先の木陰に、具合の良さそうなベンチがあるのが見えないか。」たまらずに問うと、「私が眼鏡かけてるの、見える?」と返されるので、見えてはいる。僕の意を汲む気はまるでないらしい。

 僕の隣で足を崩して座るのは、僕の同年で、文芸部の会計を務める菅原すがわら早緑さみどりだ。「情緒だって、時と共に変わるの。これが今の日本の夏なんだから、受け止めたら?」だから、限度があると言っている。早緑は肌に汗を浮かべながらも、平然としていた。着る服の趣味ははっきり黒と決まっている早緑だが、これだけ日が照っていれば好みを先にできないらしく、今日は白の半袖シャツとデニムのスカート、白に近しいピンクのサンダルだった。髪留めと共にハーフアップにまとめられた黒髪は、日差しを嫌わずに耀かがよう。気分で使い分ける眼鏡は、今日は銀縁のもので、早緑の一番のお気に入りだと知っている。愛称はルディ。正式名称はルドルフ・ファース。早緑が眼鏡に与えた名前だ。

 眼下では子供達が駆け出す。どこから川に飛び込むべきか、結論が出たのか。「僕は、行き先を任せるとは言った。熱中症になりたいとは言ってない。」ぶつくさ言うと、早緑は自分のハンドバッグから、ペットボトル入りのスポーツドリンク、間違いなく飲みしであるそれを出して、僕に渡した。なるほど、僕を熱中症にする気も、ここを離れる気もないらしい。飲み止しであればすっかりぬるく、僕が快味なしに喉を潤す隣で、早緑は会話のたんを省いて言った。「どうせ、女関係で何か悩ましいことになってるんでしょう。私を誘う時はいつもそう。」言い当てられても、それが早緑であれば、何も驚くことはない。言う通りのことを僕が繰り返しているのも事実。僕は飲み止しの飲み止しとなったスポーツドリンクの蓋を閉めて、早緑に返し、そのついで、つつくような会話を向けた。「それを分かっていながら、いつも断らないんだな。」嫌な顔を見せず、むしろ早緑は微笑んだ。「おかげさまで、今日の夏期講習はさぼり。」僕や花凛とは違って、早緑ははっきりと受験生だ。

 ぼうっと空を見た。僕からの配慮はきっと望まれていない。「そんなにこだわることなのか? あくまで過去の男だろう。」隣で、ペットボトルの蓋を開ける気配があった。「男じゃなくて、ユウはユウだから。」ふたりきりで会って話す時だけ、早緑はいまだに、僕のことをユウと呼ぶ。当時、ふた通りあった呼び名のうち、一方。僕としても、今は早緑、普段は菅原だった。「ユウが困ってたら、アラスカからでも駆けつけるのがせめてもの恩返し。本当に海外留学したらどうしよう。」と、早緑は真面目な口調で話す。早緑が喉を鳴らす音がしてすぐ、ふっと、早緑が言うのを聞く。「悔しかったから、なんて言ったら怒る?」太陽しか視界に入らない空では興に欠け、僕はマンション群の高層階まで視線を下ろした。せめて夏の飛行機雲でもあればおもむきとできるものを、と、ぼんやり考えながら、「怒るも何も、詳しく聞いてみないことには。」早緑に話の続きを促した。

 不意に肩を叩かれて、それがため、僕は視線を早緑へと移した。早緑は、スカートの上から自分のももを撫でつつ、「これ。この時。」言葉でも示した。丈の短いスカートは履けない。早緑の腿には、数多くの針の痕がある。もう二年近く、じかに見てはいないが、綺麗さっぱり消えたわけもないだろう。時が経っても、早緑の腿は、僕の記憶に褪せぬ像としてある。あの夏、痕に触れねばならなかった。撫で、口づけをして、舌を絡め、忌むべきものとは扱えなかった。僕はただ、もうこれ以上ひとつも増えてくれるなと、そう願った。

 かつての早緑には、自ら自分の血を抜いて煩悶を解消する悪癖があり、それをめさせたのが僕であるとは言える。あの頃の早緑は歯止めのひとつも噛むことなく、悪癖は程度が酷くなる一方で、救急搬送されることさえ続き、しかし外科的な措置のみで帰されるのだから、もはや死は遠い所になかったと、それも確かに言えるだろう。恩に着るには十分なのかも知れないが、報いると言われても、差し引きで言えば早緑の方が赤字だったろうと、僕にはそう思えてしまう。本人が願う報恩を受け取らずにいても狭量と、結局、素直に甘えているのだが。

 早緑は腿から手を離し、もう一方の手にあったボトルをバッグに入れた。「ああ、過去形じゃないか。」早緑は呟きとも取れるように言ってから、本旨ほんしに戻した。「今でもずっと、悔しい。あれだけやって、一番になれなかったのは。正確には、花凛に勝てなかった。」早緑は、言うこととは反対に、いかにも爽やかだと景色を見た。「だから、こうしていると、少しはね、花凛を出し抜いた気になれるって、そういうのはある。ごめんね。」まさか、責める気にはなれない。「そりゃあ、あれだけやれば、そのくらいは思う。」望まれないと知る謝罪を避け、擁護にとどめた。

 今度は早緑が空を見上げ、それに釣られて、僕も中空に目を遣った。僕の意識から蝉声せんせいを消してしまう早緑の声にこそ、情緒を覚えた。「あの時、ユウと何やったっけ。やってないことを数える方が、ずっと早いか。」視線を頭上に据える。晴空せいくうを見るというよりは、日照で瞳を痛めるという具合だった。僕の声は、早緑の意識にどう届くだろう。「僕の趣味に合わないものを除いて、僕が思い付く限り、全部。」どうしてか目を瞑る気になれず、細める目をして、その範囲で網膜を傷付けた。

 互いの顔を見ずに、昔語りは続いた。「ユウに処女を奪ってもらうところから始めて、たった一ヶ月で、よくもまあ、あれだけ。」会話の切れ間でさえ、他の音が意識のほかに追いやられる。注ぐ光の中、音として待つのは早緑の声だけ。それが届く。「今でもずっと、感謝してる。」自らに深く染み込ませるように言ってから、早緑は僕に話を向けた。「ユウは? 後悔してる?」夏という季節が想起を促すのか、早緑からそんな質問をされるのは初めてだった。「後悔なんてとんでもないが、反省はしてる。」「感謝されて反省するだなんて、ユウって、まれに見る変わり者。」早緑の指摘に反論はできなかった。

 早緑がバッグを漁る音がして、次いで、僕の頬に押しつけられた物があった。見てみれば、それは個包装になっている塩レモンのキャンディ。用意が良い。早緑がつまんだそれを、僕は無言で受け取った。僕を熱中症にするつもりはまるでない。「反省なんて。あの流れを作ったのは私でしょう。私がどれだけ言われていたか。そんなことはもうやめろ、と。私は耳を貸さず、体良ていよくやり過ごし、懲りなかった。」早緑はキャンディの個包装をもうひとつ取り出し、封を切った。「そんな中、私を酷いマゾヒズムの持ち主と見抜いた素敵な色男がいて、私を口説いた。私はすっかり騙された。」狭く開けた唇の合間にキャンディを放り込む早緑は嬉しげで、もう空を向く気はしなくなった。早緑に続いて、僕もキャンディを口に入れた。遠足のような心持ちがした。「あなたの命令の全てに従う犬です、と、喜んで誓ってみれば、彼の最初の命令は、僕の許可なく死ぬな、僕の許可なく血を抜くな、だったんだもの。馬鹿みたい。」早緑はなおいっそう嬉しげで、僕が話を挟むことはためらわれた。「ユウが守らせたい命令はそれだけだったのに、一ヶ月、たくさんくれたね。」ずいぶんなことを繰り返した日々で、その半ばからは、もう目的は終えていると共に知りながら続けた日々だった。

 キャンディを口に含んだままの昔語りは、どういうわけか、僕の感傷を掻き立てる。早緑を見ながら感じる苦しさは、どう言葉にすればいいか。「最初の命令がそれなんだもの。そんな優しさ、受けたことなくって。性的な好奇心で犬になった私は、すぐ、ユウが欲しいひとりの女になっていた。二度騙された気分だった。」早緑は次いで苦笑を浮かべたが、僕にはそれが、今日一番の微笑みに見えて仕方なかった。「お互い、もっと別なことで悩んだね。ただの飼い犬なのに、一番になりたいと思っちゃった私、そして、そんな私のことを、必死で好きになろうとしてくれた、ユウ。」

 早緑は、大切な物のように芝生を指で撫でた。「こんな良いお天気の日に、昔話なんてするものじゃないかな。ああ、でも、ちょうどいいから、懐かしさのついでに、ひとつ言わせて。」早緑の話を聞きつつ、こうなれば天日干しも一興だと思えて、僕は芝生に寝転び、目を瞑った。「どうぞ。」とだけ、僕は気楽に言った。目を瞑った僕を奇襲する形で、早緑はこっそりと僕の耳元に唇を近づけ、柔らかに口にした。「締切、ちゃんと守ってくださいね。御主人様。」原稿の進行管理は、前々から早緑の仕事だ。僕はすっかり肝を冷やす。まだ一文字さえ書けていないとは、とても口に出来ない。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る