第29話 悲しさの分だけ影響を及ぼした

 八匹の年老いた蛇とは何のことだったのだろう?

 彼ら、八匹の年老いた蛇は、四人の神の子たちの、それぞれの実の親である八人の原始人類たちだった。霊性を宿した新人類と、本能で生きる原始人類を共生させるには、神の子を堕落させてしまう危険があったが、年端もいかぬ子どもたちを肉親と別れさせることは、天使たちにはできなかった。神と子の、親子の絆の大切さを説くために、実の親子の関係を断ってしまうのは、本末転倒だった。   

 原始人類は最低限の知能を有してはいたが、神からは動物に属すると見做され、死後は本源に戻ることが許された。だが神の子はそうはいかなかった。全能の樹の実とは、高い知性と霊性を得ることと引き換えに、神の子として堕落する可能性を孕んでしまうということだった。

 いつかルビヤがメーイェとブザーを連れて果実を摘みに行ったことがあったが、一緒に来た四匹の蛇が二組に分かれたときに、ルビヤは彼らが性行為に及ぶと察し、メーイェとブザーに悪影響を与えないように、来た道を引き返した。蛇たちの真似をしてはならないよ。如雨露の中で絡まっていた二匹の蛇。これも親たちの性交を意味していた。

 原始人類の間で、新たに子をもうけることも当然あった。蛇が蛇を産むことだ。母は自分から果実が産まれたと勘違いして、自分の子を食べてしまう場合もあった。そういうことがないように原始人類たちには、常に満腹状態にして、味を知ってしまった母親のために、人肉の味に似ているザクロの実を与えた。鬼子母神ハーリーティーの原風景は、アンデの花園にまで遡るのかもしれなかった。ルビヤに諭されて、自分の子を食べてしまった、と泣き叫ぶ母親の姿を見て、メーイェには自分と全く別の存在に思えた。さらにメーイェは自分が産まれたと同時に、食べられていたかもしれない可能性に思い至って、実の母親を恐怖の対象にしてしまった。これも悲しいことだった。

 二体の天使と四人の神の子と八人の原始人類による、奇妙な共同生活だった。

 物語の中で原始人類が蛇と表記された理由は、後のメアイが始祖神になるために、自分の上に起源があることを認めたくなかったのと、都合よく利用できる悪者を配置しておくためだった。蛇が悪知恵を働かせている場面があったが、それらはメアイの創作だった。メアイ本人の悪知恵が蛇に転写されただけだった。

 メアイがエリーを虐めるようになって、怒った親たちの間で、諍いが始まり、孤立してしまったエリーをブザーは慰めた。そう、ここでも禁断の恋は実ってしまった。そして奇妙な家族は、二つに分断され、親たちによる果実の投げ合い(林檎の雨が降る)が行われて、天使が両者の間を仲裁している最中に、メアイは一瞬の隙をついて、メーイェを誘って堕落したのだった。敗れた黒い四匹の蛇たちは、もうここにはいられないと、ブザーとエリーを連れて花園を去っていった。神性を吹き込まれていない原始人類には、神から離れるという概念が分からなかった。


 それが、猫が死んだときの顛末だった。メーイェはブザーと別れるのが、本当に辛かったのだ。その悲しさの分だけ、物語の内容に影響を及ぼした。今、メーイェの指の先は、冷たく硬直した猫の亡骸に触れている。最後まで微かに残っていた謎の音楽家の残像は、メーイェの無意識の記憶に留まり続け、やがて銀色の笛やそれに纏わる楽しかった思い出と共に、すべてが初めからなかったかのように消滅した。その池の水を飲むと、たちまち記憶を忘却する、というレーテーの池の伝説のように。メアイが嫉妬心から創世神話の一部を黒く塗り潰した。同じようにエリーを兎の姿に変え、檻の舟に乗せて記憶から葬った。

「もうひとつ、檻がいる」

 エリーとブザーを檻に入れて幽閉できれば、メーイェは自分のものになる、とメアイの暗い心は思った。そこには、二重の意味があった。メアイが始祖神となるためには、もう一組の始祖神夫婦が存在してはならなかった。

 そのようにしてプレアデスとシリウスは分かたれた。

 もし、プレアデスとシリウスの男女が結ばれたら、希望の子が産まれてくる。その生涯は親子のどちらも辛い道を辿ると思うが、きっと幸せになれる道も用意されている。

 占帝元老院とブザーと本人同士以外では、誰もその本当の出生を知らなかった、メギド大公とエリーから産まれたプーのように。

 愛の女神ウェヌスが立場を超えて、不倫の恋人を愛している間だけ、マルスの戦争を止めることができたのだ。


「メアイとエリーとその親たち」と、「ブザーとメーイェとその親たち」を隔離してしまえば、少なくとも、同族で繁殖することもなくなるのでは? という疑問が湧くかもしれないが、それは先代のルビヤの霊たちからは許されなかった。それが許されるのなら、楽をしてカルマを清算するために、洗脳でも何でもありになってしまうだろう。それは到底、愛とは呼べず、宇宙創造神からは遠く離れてしまうだろう。宇宙には厳然とした愛の規則があって、それを減じることはルビヤにはできなかった。あらゆる可能性が煮詰まった中で、二組の神の子を育てていかなければならなかった。愛を体現するとは、その生き様にこそあるからだ。


 メアイはブザーの家族を悪魔一族と呼び、天使のことを、人間の遺伝子を操作して神との繋がりを断絶させた魔術士、悪魔の中の王、魔王ルビヤと呼び、原始人類たちを人肉崇拝の忌まわしき蛇、邪悪な竜ドラゴンと呼び、テラに入植した異星人たちを、妖怪、魔物、異形の邪神と呼んだ。


 後に全能の樹の幹には「この実を食べたら、百年の眠りから目覚めて、神のように全能になって、傲慢になってしまうから、決して食べてはならない」と記載されることになるが、それはメアイ自身が神として、自分の民たちを服従させるためだった。父ルビヤとの神の玉座を賭けた戦いだった。

 メアイは神への階梯を昇っていった。縄梯子で二階へ、三階の屋上へと昇るように、それは逆さに降りていくことを意味していたが、メアイは気付かなかった。全能の樹を背にして、太陽へと高く飛翔したが、当然のことながら、彼は辿り着けなかった。怪物たちの死体を積み上げていけば、いつか天にも届くかもしれない。巨人ルビヤの胸を貫いた、太い槍の先端に腰かけて、メアイは物思いに耽っていた。槍の刃先からは、未だにルビヤの血が滴り落ちていて、少しずつ池を赤く染めていった。


 メーイェはメアイに連れ添って、どこまでも堕落していった。

 それがメーイェの考え得る、彼女なりの優しさだった。メアイは支配するために生きたい、と望み、メーイェは、そんな罪深いメアイと共に滅びたい、と望むようになった。

 針刺はメーイェのほうに微笑んだ。


 メーイェが長い時間をかけて失われた記憶を回復した姿が、背景が白い住居と同化したような白い猫だった。メーイェは音楽家の残滓が沈んだ池から、記憶の成分を拾い上げて、記憶の代用品として猫を創り上げた。その姿はあまりにも白く、住居と見分けが付かなくて、すぐにでも消えてしまいそうだったから、記憶の猫の額に目印を付けた。それが大好きなハート型のクッキーだった。


 犬は一匹になっても、堕ちた花園のふもとで、主人の帰りを今も待っていた。もう汚物川からは、糞便の塊が流れてくることはなく、それも犬にとっては寂しかった。飼い主の匂いが残る衣服は、日に日に匂いが消えて、自分の体臭と区別がつかなくなってしまった。藁に埋もれた機械が故障して、死んでしまった今となっては、最後の友達もいなくなってしまった。月が落ちてくるような丘に登り、一度吠えて、また来た道を逆に辿って、住居まで戻ってきた。伸びた木の枝が、住居の中に侵入してくるようになってくると、犬は落ちないようにバランスを取って枝を伝って、二階へ、三階へと昇ることができた。屋上まで行ったとしても、主人のブザーがいないことは、初めから分かり切ったことだったが、そこには記憶の痕跡があって、昇らない訳にはいかなかった。屋上の奥の三階の部屋の壁には、メアイが描いたブザー少年の肖像画が残されていた。犬は行儀よく座って主人の姿を眺めた。描かれていたのは猫ではなく、眺めていたのも猫ではなかった。日が暮れて絵が見えなくなるまで時を過ごしていた犬は、急な角度で傾いている枝の上を、滑らないように注意深く二階へと降りて、神の子の毛布を口で咥えて引っ張ってきて、一階の広間の籐の椅子の上で丸まって眠った。自分の主人が、人間なのか猫なのか、犬には分からなくなってしまった。岩壁の穴に開いた暗い通路を走り抜けていくと、途中で鼠に出くわした。犬はそれができない猫の代わりに、鼠と仲良くしようとしたが、鼠は一目散に逃げてしまった。あるとき犬は、朝から夜更けまで一日中、四つん這いで立ったまま、何かが水上にいるのが見えるのか、池をずっと見ていた。呻き声をあげて痙攣し続け、やがて高くて長い鳴き声を笛のようにあげた。台所の水場には、舞い込んだ落ち葉が溜まって、盛り上がった腐葉土からは、小さな木が育っていった。いつかこの木は幹を太くしていって、岩の天井を突き破り、その枝と葉で住居を覆い尽していくことになる。エデン大聖堂のように。しかし、天使の家族がレムリアに旅行に行ったとき、お家でお留守番をしていた犬は、その意味が分かるときが永遠に訪れることはなかった。もはや誰を待っているのかも忘れてしまった犬は、全能の樹の枝に腰かけて、それでも誰かを待っている。

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