第73話 善が悪を倒す物語

 不気味なほど、静まりかえった部屋の真ん中で、折り畳んであった紙を広げた。すべての爆弾の在りかを書き写した、大公邸の間取り図だった。執事長が死んだ今となっては、ここからは一人で歩かなければならない。アレフオは慎重に足元を見ながら、扉を開けて廊下に出た。銃声が二発も鳴り響いたのに、女中も誰も姿を現さなかった。爆弾の都だけあって、誰が命を落とそうとも、爆音などは日常茶飯事だからかもしれない。それにしても本当に誰もいない。回廊は死の臭いが充満していた。アレフオの足取りは玄関広間ではなく、奥のほうに向かっていた。

 廊下の途中で床の模様が動いているように見えた。アレフオは目の錯覚かと思い、目を擦って床を凝視した。床一面がムカデで敷き詰められていた。何百匹ものムカデの群れが、絶えず食物を要求し、檻の中で横たわっていた何かに群がっていた。その何かは、蠢く蟲の衣を纏った、おそらく女性であろう肉が破損した死体だった。猫一匹分の重さまでは、床に仕掛けられた爆弾には反応しない。ムカデたちの侵略には、爆弾の罠は意味を成さなかった。壁や天井にもムカデは張り付いていて、そこには爆弾は埋め込まれていなかった。

 戦慄に震えるアレフオのすぐ近く、壁際にいた幽霊のように青白い女がアレフオを睨んでいた。痩せこけた女は体中にムカデを病的に這わせていた。ご存知の通り、ムカデ占い師インダだった。

「お前が今日ここに来ることはムカデの動く軌跡によって予め知っていた。名前はアレフオ。第二代占王マイユのもとで働いている付け馬だな。ここで見たことは忘れろ。このムカデどもは、地獄の死霊どもを変形させて創った私の駒、ムカデ十字騎士団だ。お前が気になっている檻の中の白骨死体は大公妃だ。燃やすこともできない不死身の女を殺すには、肉が復活するそばから、その肉を食い尽すしかない。贋王の肉を得た善なるムカデたちは、偉大なる神の王になれる。悪の親玉、難攻不落の爆弾を愛する大公妃は、俺が倒してやったぞ。これがお前ら人間が見たかった、善が悪を倒す物語なんだろう? この国は俺の物だ。あたしはメーイェ・オゾンの顔の皮を被って大公妃になる。永い間、わしは待った。大公邸の横穴から、僕の民のムカデを何匹もの尖兵として送り込み、私自身は占い師の女の腹に潜み、産まれてきたムカデ女のインダを忠実に動く僕にした。プーに恋するインダの意識を押さえ込むのは大変だった。大公妃を占いで信用させ、夫人の寝室まで入ることが許される身分になった。人間の体を得たほうのが、全世界を食い尽くすには打ってつけなのでな。ムカデに爆弾を装着させ、世界中の王の屋敷に送り込む。針帷子に搾取されてきた恨みがようやく晴らせる。人間がムカデの前に跪く日が来ようとしているのだ」

「そういう訳だ。インダの故郷である占い族の村だけは見逃してやる。分かったな、アレフオ。回廊の突き当たりに、地下牢への階段がある。ブザーと一緒に村に帰れ。待て。地下牢の鍵を見つけても迂闊に触るなよ。鍵には目に見えない情報生命体が憑依している。その存在の許しを得ていない者が、指で鍵に触れると、それが爆発するように細工されている。そいつは指紋を見て、爆発させるか決めているようだ。侵入者を負傷させるための、鍵の姿をした爆弾の罠ということだな。これを持っていけ」

 ムカデの群れの中の一匹が、高い跳躍力を見せてアレフオの肩にとまると同時に、たちまち体を捩じって鍵の形になった。

「ムカデの鍵だ。差し込む鍵穴に応じて鍵の先端が変化するから、この世のどんな扉も開けることができる。俺の中のインダの意識が、お前に持っていけと言っている。鍵を開けて二人の人間を救えと」

 アレフオがムカデの海に足を踏み入れると、踏まれまいとしたムカデたちがアレフオに道を譲った。意味ありげに何もない床に、不自然にムカデが密集している場所があった。地図を確認してみると、丸く印した爆弾の位置と重なった。

 アレフオは誰にも遭遇せず、地下への階段を降りて、牢屋の鉄柵の扉に駆け寄った。硬くなったムカデの鍵で錠前を外し、ついに扉は死刑執行人以外の手によって外側から開かれた。何ヶ月も囚われていたブザーの体からは肉が落ちていた。逃げ出す体力も、残っていないのだろう。扉が開かれて、自分の名前が呼ばれても、ブザーは死人のように倒れていた。アレフオが助け起しても、誰のことかも分からずに、プー、俺のプーと呟いていた。

 アレフオはブザーを背負って、鉄柵の扉を抜けた。もう二度と扉を閉める必要はなかった。アレフオは階段を登る途中、必死にブザーを励ました。海面に漂う水に溶ける紙のような、今にも消えそうな意識に、おいらはプーだよ、プーはここにいるよ、と何度も繰り返して、瀕死のブザーを安心させた。もう爆弾の在りかを記す図面は必要がなかった。踏んではならない場所はムカデが教えてくれた。マイユの姿が脳裏によぎったアレフオは涙を流したが、ブザーを背負っているために、手で拭うことができなかった。視界は涙で霞み、世界はまやかしのように捉えがたくなった。誰にも出会わずに、大公邸の門を出た。

 大公邸前の大通りに、銀色を陽光に煌めかす眠りの騎士団が、アレフオを待ち構えていた。

 アレフオはマイユと同様に、自分が歩んだかもしれない二つの目の記憶を持ち合わせていた。こちらのアレフオは眠りの騎士団のことも知っていたが、涙で何も見えなかったので、眠りの騎士団が、光の柱で創られた神殿のようにしか見えなかった。

 アレフオのかわりに、眠りの騎士団を注意深く見ると、彼らはすべて人形だった。十二体の武装した人形だった。銀色の鎧を身に纏い、顔は隠されていた。

 マイユ一行は知らなかったが、人形占い師のベーテは、何かあったときのために、人形を送り込んでくれたのだった。ブザーを負ぶさったアレフオが立ち去ると、幽霊が乗り移ったかのように騎士の人形たちは、ゆっくりとアレフオの後をついてきた。

 光り輝く眠りの騎士団を背後に従え、老人を救ったアレフオは、神の王にも見えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る