第69話 手紙は腐っていった。何故なら

 ダリアは過去を清算しながら、「誰かに許された旅」を続けた。どこをどう辿ったのか、ダリアは娘を捨てた場所に辿り着いた。

「あの子に会う勇気がありません。あの子は十九歳になっているはずでした。せっかくこの街まで来たのに。それにどの家で暮らしているのか、見当もつきません。噴水の前で待っていれば、いつか出会うことができるでしょうか」ダリアは独り言を言った。

 夏の太陽は幻を現出させるほどの暑さで、この小さな街を押さえつけていた。

 ダリアは辛抱強く待つことにした。都合よく噴水のそばに真っ赤なグランドピアノが、申し訳なさそうに草食動物のように佇んでいた。あまりにも都合がいいので、ダリアは自分の妄想でしょうか、と思ったくらいだった。

 ダリアは指と指の間に電気が流れるのを感じた。この指の射程。

 赤いピアノはダリアに弾かれることを望んでいた。ダリアは鍵盤を沈め、音を奏で、謎を解いていった。

 ピアノは暗号によってダリアに語りかけました。娘の名前が判明した。ダリアの娘がもう生きてないことも。このピアノは娘が使っていたピアノに間違いなかった。

 これがあの男が言っていた呪いなのでしょうか。私が娘に会いに来たばっかりに、娘は死んでしまったのでしょうか。

 ピアノの鍵盤たちは、我々は全人類が流した血を集めるパイプの中を流れ、赤い海に出て、噴水まで打ち寄せられたのだと、語った。

 夏はゆるやかに閉じていきました。娘の血がこびついたピアノをシルエットにしながら。

「許されたと思ったのに誰かは許してくれなかった旅」だ。

 旅の果ての地で子どもを捨てたダリアは、自分の触れた罪業から、もう二度と子どもを作ることができない身体になっていた。


 ダリアは娘の街に滞在し、娘のために鎮魂歌を弾いた。

 やがてダリアに恋をする者が現れた。


「あなたは誕生日が神の王の誕生日の次の日で、誰も祝ってくれないと嘆いてましたよね。そのために神の王を憎んでいましたが、あなたは彼を許しましたね。私はあなたのそんな優しさに惹かれていきましたが、この暖かさが忘れられない記憶となるのを私は恐れました。

 私はもう恋はできません。私はあの男の罪を心臓に縛り付けてしまい、その死刑からも逃れて、今は裁きの天使から追われる身です、今まで決してそのしるしを現さなかった神によって。でも私は、神とは縁が無いようです。私が不死身である以上、私は永遠に天国へ訪れることはないのです。その場所に大切な人が逝ってしまったら、もう二度と会えない。あなたは私の娘が死んでしまったと泣いていましたが、あなたもいつかは死ぬんですよ。大切な人はどこかでいつでも待ってくれているんです。あなたが羨ましい。生と死の二つの世界を行き来して、もう二度と会えないと思った人に会えたりできるから。不死身は痛みの世界に取り残されること。私は世界の最後の生存者です。世界が滅んでも、たった一人で生きなければならない」


 カルはいまだに戻ってこなかった。武器商人との間にいざこざがあって、命を落としてしまったのか、もしかして二十年間ずっと、近いけれど遠い距離からアミラに銃口を向け、引き金を引いてアミラを殺すのを今もためらっているのか、その銃は自分のためにこそあるのだと思い至って、自分の口に向けて発砲したのか、アミラには分からなかった。


「このように、私に恋をしたら皆が不幸になって人生を狂わせていきます。誰もが禁じられた旅の旅人になってしまいます。私にもう恋の文字は増やさないでください。私はもうこの街を去ります。ごめんなさい。さようなら。もう手紙を書くのはやめます。私は棺桶の中に閉じこもって、土の中に埋めてもらって、未来永劫死んだふりを続けます。私の思い描いた天国の夢を見ながら。     ダリア」


 この手紙は腐っていった。何故ならこの手紙の所有者の少年は、もうこの世にはいないのだから。少年はダリアを見つけることができなかった。土を掘り起こして、棺桶の蓋を開けることができなかった。少年が死んだ今となっては、この手紙は、もう誰にも読まれることはない。

 読み手はもう一度、砂時計を逆さにし、処刑所の近くの花畑まで戻らなければならない。


「おい、馬車を止めろ、この女じゃないぞ。せっかく脱獄させたのに。馬鹿め」

「人違いってわけか」

「隣の部屋だったか。また振り出しか。やれやれだな」

「この女はどうする。殺すか?」

「別に俺たちの顔を見られたわけじゃねえ。殺すのも手間だ。そうだ、あの花畑にでも捨てておけ」

「美人だしな。美人には目が無いもんな」

「間違って脱獄させてしまいました、って返しにいけるわけねえしな。この女がどんな罪で処刑される運命にあったかは知らねえが、この場所でこれからの人生を考えるゆとりも必要だろう。どこへでも行けばいいさ。まあいい、馬車から女を降ろそう。俺たちはこの女を見なかった」

「金がいるしな。仕事に戻ろう」

「今度は真面目にフィガロを脱獄させなければならない」

「……この女は花畑の真ん中で目覚めて、そこが天国だと錯覚するかな? 俺たち天使みたいな仕事してるな」

「馬鹿め、俺たちは呪われた兄弟だよ。早く戻ろう。フィガロが処刑されてしまう前に」


 愛について絶望していたダリアはできるだけ遠くへ逃れ、墓場の墓守に全財産を渡し、使われていない棺桶の中に入り、土の下に埋めてもらった。自分が天国にいる夢を見て、死んだふりをし続けた。

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