第88話 あーさん大好きっす!
「今日はアヤくん塾があるんでしたっけ?」
土曜日の朝のこと。学校が再開してそれなりに経った土曜日だ。俺の気分というのは、まぁそれなりに凹んでいた。陰鬱とした…と形容すれば流石に言い過ぎだろうが、気分はお世辞にも晴れているとはいえなかった。
手にしたリュックサックの中に覗く参考書を目にするだけで辟易する。いや、勉強がどうにも苦手というわけではないのだが。
塾に行くというのは大体の中学生が抱える苦悩というか悩みというか、そういったマイナスな事柄であろう。
「あぁ…帰りは別に遅くはないんだが、それでも4時は過ぎると思う。10時から授業が始まって、その後昼食休憩、そのあと二コマ授業があって解散。普通午前か午後に集約すると思うんだけどなぁ」
俺が通っている塾というのは少人数制の授業形式。一つのクラスに大体十人ほどいる。女子の方が若干多いが、男子も何人かいる。基本的には先生が前で説明し、それを俺たちが見て各自問題を解いていくというスタイル。生徒同士での教え合いを奨励しているようで、結構周囲の人間に質問したりもする、のだが…。
「アヤくん…なんだか疲れてませんか?嫌なことでもあったんですか?」
「あー…うん、嫌ってわけでも…ないんだけどなぁ…まぁ大丈夫だよ」
俺の表情が晴れないことに気がついたエレナが心配そうに顔を覗き込んでくる。いきなり整った顔立ちが目の前に現れて動揺する俺。エレナと過ごしている期間はそれなりに長くなっているつもりだが、彼女の可憐さは日々磨きがかかる一方で一向に慣れる気配がない。
このことは別にエレナに相談するようなことでもない。というか実際に疲れるだけで嫌というわけではないのだから、裏で文句を言うのも変な話だろう。
「じゃあ俺そろそろ準備して出るから」
「大丈夫ですか?」
「あぁ。今日の食事当番はエレナだったよな?」
「はい!今日はハンバーグにしようかと!」
若干心配そうな表情をしながらも、可愛らしく微笑んだ幼馴染みの姿に心が癒される。この笑顔が毎日見られるといいな、なんて贅沢すぎる願いを胸に抱きながら家の傍に駐めていた自転車に跨って、塾へ向かった。
塾というのは基本的に勉強をするところである。だから基本的に自習スペースというものが存在する、のだが。
今日は生憎埋まっているようで、年下の子たちが必死に英語の教材と睨めっこしていた。邪魔をすると悪いので、自習室の利用を諦めた俺が向かった先は面談室。
面談室はその名の通り、塾講師と保護者、生徒の三人で面談を行うために作られた部屋。しかしながらそこはいつも使われているというわけではない。
せっかく部屋があるのに使わないのはもったいないということで、使用していない時は自習スペースとして使っていいと許可が出ている。意外と知らない生徒が多いので穴場的スポットなのだ。
「…お、今日も空いてるな。使わせてもらおう」
消しカスを捨てるゴミ箱がしっかり設置されていることを確認して、自習室のものより少し質の良い椅子に腰を埋める。ふんわりとした感触がするが、やはり保護者にいい印象を持ってもらうためだろうか。
そんな詮無いことを考えつつ、俺が広げたのは理科の教材。記述式の問題がたくさん載っているやつで、思考力を求められる難易度高めの問題集だ。
ページをめくると様々なグラフや図式が並ぶ。一語一句暗記する問題もあるが、中にはそれらのデータから適切な内容を読み取り、その上で予想を交えて説明するものもある。
「えっと…冷やす容器をこの素材にする理由は…」
「あー、それ、あたしわかりますよーあーさん」
俺の放った独り言に、誰かが答えた。人懐っこく眠たげな声音だった。俺はなんの疑念も抱くことなくその声に耳を傾ける。
「分かるのか?」
「金属ってー、熱伝わりやすいじゃないっすかー?だからー、正確なデータを取るためにはー、金属の方が効率的なんすよー」
自信満々というか満足げというか。そんな回答が返ってきた。確かになるほど、そうした面で効率に差があったのか。我ながら鈍い頭の回転だ。
…そこまで考えて。
「………あれ?」
「どうしたんすかー?」
腕の中。具体的にいえば俺の胸の前にニョッキリと生えた頭。びっくりするくらいふわふわの髪をしているくせに、アホ毛が立っている頭だ。
異国情緒を漂わせる薄桃色の髪の毛からは、凄まじく凝縮された女の子の匂いがする。
先程まで誰もいなかったはずの空間に、当たり前のように存在している少女。普通ならびっくりして逃げ出していてもおかしくないのだが…生憎俺は何度もこの事象を経験している。
腕の中から俺を見上げる少女。髪の毛が彼女の左目を覆い隠しているので、彼女と目が合うときはいつも右目とだけだ。
「いつ来た?」
俺が訊く。
「ずっと居ましたよー、昨晩からっすかねー」
「泊まってんじゃねえよ」
「やはははは!嘘っすよー、でもあーさんがくる前には居ましたよ。ここに来る気がしたんで待ってましたー会えて嬉しいっすー!」
無邪気な子どものようにケラケラと楽しそうに笑う。そのままくるりと体勢を変えて、俺の首に腕を回して抱きついてくる。鼻腔を擽るとんでもないほど濃密な匂いに思わず動揺した。
そう、何を隠そう。俺が塾で疲れている理由はこれだ。コイツのせいだ。
「あー好きっすー…マジであーさん大好きっすー…マジで爪食わせて欲しいっすー」
「愛情表現が特殊すぎるだろ」
「じゃああたしの爪ペンダントにして一生大切にしてほしいっすー…」
「俺が猟奇的なヤベー奴扱いされるという点に関してはどう思われますか?」
「どうも思わないっすー…別にあたしはあーさんさえいればなんでもいいんでー…いつでも心中できますよー」
「覚悟の決め方が明らかに桁違いだなオイ」
「むー、なんすかー?あたしとは心中できないっていうんすかー?れーちゃんかなしいっすー」
「俺は誰とも心中する気はねえよ。非業の死を遂げる前提で話をするなよ、
こいつの名前は
「そういえばあーさんにまだあの時のお金返して無かったすよねー?えーと、1万で足りるっすかー?」
「だからもういいって言ってるだろあれは…」
こいつの家、超がつくほどの金持ちなのだ。若月というのは調べてみたところ、医療機器の国内シェア90%を誇る大企業らしい。具体的にどういう医療機器なのかはよく分からなかったのだが…要するにすげえ成功している会社の子どもなのだ、こいつは。
だが家を継ぐ長男と違って自由奔放に育てられているらしく、お嬢様としての自覚は微塵もない。お小遣いも尋常じゃないらしく、財布を一度見せてもらったがあれは中学生のものじゃない。その辺のお爺さんからふんだくってきたと言われたほうがまだ現実味がある分厚さだ。
「いやいやーそういうわけにはいかないっすー!アニキがいっつも言ってんすよー、借りたら五倍返せ、貰ったら十倍返せって!つーわけで十倍っすー!」
そうして差し出される一万円札。
跳ね除ける俺。
首を傾げる玲。
「こっちの意見としてはフェアトレードをですね…」
「ふぇあ…?なんすか?うまいんすか?」
「公正な取引のつもりで言ったんだが…伝わらないならいい。頭の回転は早いのに暗記は苦手なんだよな、お前」
「そんなに褒めると惚れなおしちゃってあーさんの家を焼いちゃいますよー勘弁してくださいあーさん!」
「いや焼くなよ。なんで焼くんだよ」
「それはまぁ?愛情表現っすかねー?燃え上がるラブパワー!的なー?」
「やっぱ馬鹿だろ、お前」
「そっすねー!馬鹿っすねー!」
「誇らしげに言うもんじゃないだろ」
「でもアニキはいっつも誇らしげっすよー?」
「いや兄貴はすごいんだろ?」
「そーっすかねー?いい奴ってだけっすよアニキは。どーせ失敗するっす。あたしはよっぽどあーさんの方がかっこよくて優しくて素敵だと思うっすー」
「ええ…」
思わず困惑の声が漏れる。だがそれも致し方ない。こいつの兄はすでに社長補佐として実際に資産運用や内部改革などを行っているらしい。高校生クイズでは優勝経験すらあるらしく、知識の幅は非常に広い。そんな奴がただの良い奴なわけないだろ。ましてや俺の方がいいとか、無いだろ。
しかし俺に抱きついたままの玲はうっとりした口調で変なことを言い出す。
「あーさんにならあたしは何されてもいいっすけどねー。なんつーか、牝犬みたく扱ってもらっても結構っす」
「いえ、結構です」
「あ、上手いこと言いましたねあーさん」
「やかましいわ…つーかお前課題は?」
「あー、分かんないんで教科書見て埋めたっすー。なんで寝不足なんすよー」
「なんでだよ。教科書見て埋めたんだろ?そんなに時間は…」
「埋めて覚えようとしたんすよー、無理でしたねー」
「一応努力はしてるあたり強く言いにくいな…」
「えへへーそっすかー?光栄っす。なんでこのまま寝てもいいっすか?」
「良くないが?」
「…すぅ、…すぅ…」
「おい」
本当に眠りやがった。こいつより早く就寝できるのはのび太以外にいないだろう。首元をくすぐる吐息が妙にくすぐったい。
基本的に自分勝手なやつだとつくづく思う。悪い子ではないので不快感は無いものの、やはりこいつといると疲れる。
「…やべ…」
油断したら俺も眠くなってきた。こいつの対応をして疲れたというのもあるが、自習室の椅子よりもここの椅子は柔らかい。
「いや流石にここでこのまま寝るわけには…」
流石にまずいと思う俺。理性が警鐘を鳴らしている。大体授業まであと十五分程度だ。こんなところで寝落ちするとか笑えん。塾内にいるのに寝坊しましたとかなんの冗談だ。
といってもそう簡単に眠気が消えてくれるわけでもない。むしろそれは加速度的に膨れ上がっていく。その原因は膝の上の玲。心地よい重みと高めの体温が重なって、どんどん思考が曖昧になっていく。
何問か問題を解いて意識を紛らわそうとした俺の指が、ノートの上に乱れた線を描き始める。
もうここいらで限界だろう。これ以上は抗いようもない。強くそう感じた。
包み込まれるような弾力に思わず俺が意識を手放すまで…あと三秒。
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