第87話 食いしん坊エロ同人作家

「ただいまー…俺がいなくてもみんな元気にしてたかな…」

 休日の朝。とっくにお日様は空高くにいる時間帯だが、もし誰かが疲れて寝ていたら申し訳ないのでチャイムを鳴らすことはせずに、自分の鍵をそっとドアに差し込んだ。

 かちゃりという子気味のいい音と共に鍵が開く。ドアを押し開けたその向こう側には懐かしさを感じさせる我が家が以前と変わらずそこにあった。いや、我が家を離れていた期間というのは一日だけなのだけれど。

 家の中は割といつも通りだった。まず初めに目に入ったのはドタバタと走り回る母親の姿だった。手にはガチガチのエロ同人を抱えていた。しかも結構マニアックなやつ。身体を縄で変な風に縛られている女の子が前面に押し出されていて、その周りをピンク色をした猥褻な文字列が囲んでいる。まかり間違っても休日のお昼に母親が抱えているべきではない。

 ついで目にしたのはそれを同様にドタドタと追いかける姉の姿だった。いつも通り可憐で見るもの全てを慈愛の眼差しで包み込んでくれるような天使のような姉。その姉はなんか若干怒っていた。

「ご、ごめんね?ママお腹すいちゃったから!ほら、腹が減ってはエロは産めぬって言うでしょう!?」

「言わないよぉ…」

 うん、姉さん。俺もそう思う。明らかに憔悴しきった様子の姉さんの身に何があったのかと考えれば…まぁ、同情しなくもない。大方普段俺にぶつけて処理されているエネルギーが大体姉の元へと届いているのだろう。

 何せエレナと母さんだ。というか母さんだけで管理に秘書が必要なのに、その他の人間の面倒まで見なければいけないとは災難だっただろう。

 今までの俺が一人で対応しきっていたということに関しては多大な感謝を賜りたいところだがまぁそれはそれとして。

「姉さん…どうしたのそんなに怒って」

「あ、アヤ!ちょうどいいところに帰ってきた!会いたかったよぉー!大丈夫?お姉ちゃんの匂い嗅いでおく?」

「おいよせ寄るな胸元を出すな…っじゃなくて。どうしたんだよそんなに母さん追い回して」

 何故か実の弟に向かって性的接触を行おうとする姉を制止する。姉さんはそうだったそうだった、と呟きながら俺に縋り付いてきた。甘くて心に安らぎを与えるような麻薬じみた匂いが脳を侵略する。大抵の男は姉さんのビジュアルとこの男性を魅了することに特化したスメルで攻略される。実の弟でなければ大きな問題となっていたところだった。

「あのね聞いてよアヤ…お母さんってばね、私に黙って夜食にカップラーメン食べてたの!」

「あぁ…それで怒ってるのね。そんな身体に悪いもん食べるんじゃない、と」

 姉は料理を生業としている。巷ではちょっとした有名人という話は以前もしたと思う。Youtubeに投稿した料理動画は総再生は驚異の一億回を突破。Twitterでも存分にバズっているすごい人なのだ。

 専門的な知識と天性のビジュアル、そして弟に毎日料理を教え続けたが故の分かりやすさが評価されているらしいのだが、それ故に栄養には結構厳しい。

 カップラーメンを食べるとキレるし、お菓子を買うことは禁止しないまでも何買ったかは具体的に報告の義務がある。一応備蓄としてカップ麺はあるにはあるが、あれは災害時用の非常食だ。

「ひどいよね?人間が食べるものじゃないよねあんなの!」

「いや、それは言い過ぎ」

「成分見たことある?人間のためにあれは軽率に食べちゃだめって国際的に取り決めを作らないと!」

 いよいよ狂気じみてきた姉の訴え。そこまで言われては黙っていられないのか、何故か逃げていたはずの母親が戻ってきて俺にしがみついてきた。何か母としても譲れないものがあったらしい。

「ハルが怒るのも分かるんだよ?でもね、ママもお腹すいちゃうの、特に漫画家なんていつ筆が乗るか分からないんだから仕方ないよね?」

 仕方ない…うーん、まぁ仕方ないかもしれない。今回ばかりは姉さんの方が極論な気がした。確かに身体には良くないかもしれないが、それでも直ちに体質が悪化するわけでもない。むしろ手軽に美味しい料理が食べれるなら冷凍食品とかインスタントとかは重宝する。ロクに家事のできない母さんがドタバタやるよりもよほどいい。深夜は特に。

「そうだな…っていうか姉さん、酒飲む時とか塩分エグいおつまみ結構食べるし人の

「そうだそうだー!いいぞアヤアヤもっと言ってやれ!」

「ぐっ…アヤに言われると弱いなぁ…でも聞いてよアヤ」

「なんだよ」

「私…じゃなかったぁ、お姉ちゃんだって普通にカップ麺食べてたくらいじゃこ「ここまで怒らないんだよ?それは信じてくれるよねアヤぁ…」

「…まぁ、とりあえず話は聞くが。カップ麺一個食ったくらいでそんなに怒ることないだろ」

「ぎくっ」

「おっと露骨に動揺する音が聞こえたが?」

「いや、別に何もないから気にしないで、っていうかそもそもそういうのって今回の話に関係ないっていうか知らなくいていい情報っていうかぶっちゃけ知らないで欲しいっていうか」

「いくつくったの?」

 母さんは気まずそうに人差し指と中指を伸ばしてこっちの方へ向けた。

「えっと…これ、くらい」

「二個も食ったのか…まぁ確かに怒りたくもなるか。でもまぁそれくらい許してやっても」

「違うよアヤ」

「は?違うって何が」

「とりあえずリビング見てぇ…」

 促されるままに開け放たれた扉の向こうにあるリビングを覗く。そこには目を疑うべきものがあった。

 形容するなら環境汚染の実情を雄弁に語る漂着物だろうか。島国ではこうして

 多くのプラスチックが漂着物として流れ着くらしい。写真で見るそれらに、机のうえは酷似していた。焼きそば、ラーメン、ワンタン、そば、うどん…etc。多種多様なインスタント食品の残骸が軒を連ねていた。

 それらはご丁寧に全部汁まで飲み干されており、その合計摂取カロリーは優に10000を超えているだろう。一人の人間が摂取するには多すぎる。成人男性でも余裕で3日、4日持つレベルのカロリーだ。まさかこれ、全部母さんが食ったのか。

「…いや、これは怒られるとかそういう次元じゃないでしょ。もはや曲芸」

「漫画家やめてフードファイターとしてもやっていけそうだよねぇ…ともあれこんなに食べたら太っちゃうし身体にも良くないから…」

「あ、大丈夫!ママはいくら食べても太らない体質だから——」

「アヤぁ…この女殺すから灯ちゃん起こしてきて…」

「ひぃっ…アヤアヤ、ママを守って!お願い!ママの一生のお願い!」

「輪廻転生しすぎでしょ。しょっちゅう聞いてるよ一生のお願い」

 灯が昼寝しているらしいので、そそくさと二階に登る。背後から断末魔めいた母親の声が響いてきたのだが、もう俺は聞かなかったことにする。

 情けない母親だ。嫌いではないが。

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