第38話 灯ちゃん
「…
ふと思いついた。
名前を決めようと思ったことなど今までに一度も無いのだけれど、ぱっと頭に浮かんだのがそれだった。
「…!すてき!どうして、おにいちゃ、その名前?」
「お前さ、今までの人生、楽しかったか?」
自分でも何を聞いているのかはよくわからなかった。脳が考えるよりも先に、口が答えを紡いでいた。必要な言葉を無意識に選択して空気にのせる。
「これは俺の勝手な想像だ。だからこいつの言っていることは聞きたくないと思ったら無視してくれてかまわない。お前の今までの人生は少なくとも笑顔でいられるようなものじゃなかったんじゃないかって思うんだ。あんまり口にはしたくないけど、お前の肌には生傷や古傷が無数についてた。お前の口から語られる過去の話にもいいものは無い。そういうのもあってさ、自分の未来とか他の人の世界を広げる灯みたいになってほしいなって。人の痛みを和らげることができるようになるには人一倍痛みを知ってなくちゃいけない…お前にはそれができるんだよ。灯」
「おにいちゃ…、それ、ほんと?あかり、たすけれる?」
無言で首肯する。いついかなるときでもそうだ。例えば自殺防止のポスター、標語、論文。そういったもので優秀賞を取るような作品には共通して言えることがある。本気で死にたいと思ったことがある奴の作品が無い。こういってはあれだが、所詮偽物だと俺は思っている。何故なら本当の苦しみを知っている人間の言葉はあまりに重く、苦しく、聞くに堪えないからだ。自分が関与していなくても、否、関与できないからこそ、人は見なかったものとすることで自らの精神を保つ。
…でもそんなフレーズや言葉に力は無い。本気で苦しんだことのある人からすれば苦労を知らないくせに、と辟易するだけだ。それ以上でも以下でもない。
だからこそこういうやつが必要なんだ。苦しみを知っている。だからその苦しみを楽にする方法も知っている。痛みを知っている。だから適切な処置の仕方を知っている。生きづらさを知っている。だから自分なりの解決策を教えてあげられる。
そんなやつが傍に居ると、苦しいやつは僅かにでも楽にはなる。少なくとも俺ならそうだ。上からの目線ではなく、同じ目線で向き合える。そういうやつだからこそ相手の心を開いてわだかまりを取り除いてあげられるんだ。
彼女の過去をただ辛かっただけの記憶として終わらせるのは些か早計にすぎる。彼女にとって非常に不本意だろうが、その記憶は他者を救う掌になり得るんだ。
「ああ、間違いなくな。だから、お前には一つお願いをしよう」
「…おねがい。なんでもきく。我、名前もらえたの嬉しい。おかあさんたちも、付けてくれる前にころされちゃ、ったからぁ…うぅ…」
堪えようとしているのは伝わる。だがそれは火山に蓋をするが如しだ。あふれ出した大粒の涙が彼女の頬を伝う。しわくちゃになりながらもなおも涙を堪えようとする彼女は見ていて心の底から痛々しい。
「灯、大丈夫。落ち着いてとは言わない。好きなだけ泣け。その後でいい、話を聞くのは」
俺が彼女を優しく抱きしめるとエレナや恵、姉さんまでもが灯を抱きしめる。エレナは苦しみを少しでも埋めようとする幸せ者として。恵は同じような苦しみを持つ理解者として。姉さんは何も聞かずに抱擁を与える保護者として。
「大丈夫だ灯。俺たちがお前の家族だからな。
家族には、我慢なんてしなくていい。」
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