19-02 だから、気にしないでくださいね

「スパイですか?」

「ZOEを凌駕りょうがするASIが存在すると想定したとしても、ここまで情報が筒抜つつぬけなのは異常だ。スパイがいることを前提に考える必要があるだろう。本来であれば、スパイがいたとしてもZOEによる監視網があるため、妨害が成功される可能性は極めて低い。しかし、ソ連製ASIと連携しているならば話は別だ。スパイを通して、CIA、NSA内部にソ連製ASIが侵入を果たしたとすれば、直接ZOEと接触せずとも、米国組織内の人員による諜報ちょうほう活動――ヒューミントをあらゆる角度から分析し、人間が気づくことのないZOEの痕跡こんせきを見つけ出して、それを利用するだろう」


 ライナスはそこまで言うと、それよりも、と一間置いて、


「公式記録に残らないとはいえ、あの作戦の実行をも辞さないCIAという組織についてきもめいじていてほしい」


 俺に致命傷ちめいしょうを負わせ、警官たちまで巻き込んだ新東京駅での狙撃。あの地獄のような状況に至らしめたCIA側の容赦ようしゃの無さを思い出した。日米関係に亀裂きれつが入ろうとも日本側の確保を阻止するという、目的のためならば、躊躇ちゅうちょなく無関係な人をも死体の山に加える組織が、俺と榛名を確保しようとしている。


 ライナスが以前言っていたことを、あらためて実感する。


 ――外側も内側も敵しかいないということを。


「このさきも彼らは手をゆるめることは無いだろう。だからこそ、いまの我々には時間が無い。移動手段の準備が整い次第、北海道ほっかいどうへ向かう」

「北海道? 札幌さっぽろに戻るんですか?」

「ああ、きみたちをもとの世界に戻すためには、イソノさんとハルナさんがこの世界に最初に訪れた、しん野幌のっぽろ駅のプラットホームへたどり着かなければならない。そして、そのまえにもう一つ、やらなければならないことがある」


 ライナスはそう言って、鷲鼻にかかった眼鏡をなおした。

 彼が平然へいぜんと口にした、俺たちをもとの世界に戻すという言葉。


 それは、この世界の消滅しょうめつを意味する。


「ライナス、そのことについてなんですが――」


 この世界を救う方法について。答えの無いその問題について、もう一度、この男と話をする必要があった。


 そこへ姉妹を案内していたハルが、一人ロビーへと戻ってきた。

 俺たちを見たハルは、安堵あんどしたような表情を浮かべたあと、会話が続いているのをさっしてか、遠慮気味に俺たちへと向かう歩速ほそくを遅めた。


「イソノさん、奥に並んでいる自動販売機には緑茶はあっただろうか? 日本の緑茶りょくちゃにも、砂糖入りのものがあれば飲みやすいのだが」


 ライナスは、軽く笑みを浮かべてから「失礼」と言って、その場をあとにした。


 その様子をみたハルは、入れ替わるようにそっと駆け寄ってきた。

 彼女は、いつもの黒いスーツに白のブラウスだったが、ここにくるまでに着替えたのだろう、新しいものに取り替えられていた。


 ハルは目のまえまでくると、俺をじっと見つめて「ご無事でよかったです」と、小さく言った。


「ハルこそ無事でよかった」


 そう言葉を口に出しながらも、彼女を置き去りにしたことへの罪悪ざいあく感が俺の心をおおった。ハルは、察したように、「気にしないでください。あのときは一刻いっこくも早くあの場からお二人が離れることが大事でしたから」と先まわりをして答え、俺に微笑んだ。


 どこまでも献身けんしん的な彼女に、俺はどう応えればいいのだろう。

 彼女が生きつづけることの出来るこの世界を救うこと、それが答えなのだろうか。


 彼女は、俺の顔をそっと見て、またもやすべてを読み取ったかのように、けれど、そのうえで俺に気を遣わせないように言葉を選ぶ。


「……あの、ですね、磯野いそのさんには、榛名さんがいらっしゃるんですから、彼女を大切にしてあげてくださいね。わたしは、お二人がもとの世界に帰れるようおまもりするのが、役目ですから」


 彼女はそう言いながらも、俺の右肩にそっと指で触れた。


 そこで俺は気づく。

 俺と榛名とのさきほどの会話は、ZOEをとおしてハルにもこえていたのだろう。ヒューマノイドとしての彼女では割り切れない、女性としての存在が、その仕草しぐさや俺への眼差まなざしに重ねられてしまう。


 彼女のった上着の赤い糸の感触が、指の流れにそってなぞられていく。そのとき浮かべた彼女の表情は、はかなげだった。


 なあハル、俺たちは、きみのいるこの世界を救いたい。


 そう、言いたい。けれど、その一言が、いまはただ、気休めにもならない空虚くうきょなものに感じられて、俺は言いよどんでしまう。


 伝えたい言葉が言い出せない、その空白の時間を、「あなたを……護ることが、わたしの幸せですから。だから、気にしないでくださいね」と、ハルが、代わりに小声で埋めて、笑った。


 彼女にそう言わせてしまったことに、俺は思わず目を伏せてしまう。

 二人の時間が、彼女の言葉で終わってしまうまえに、なんでもいいか言葉を、


「でも、ハル、」


 そこまで口にしたとき、ハルはロビーの奥へ振り返った。

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