「痛っ……!」

 突如訪れた痛みにじたばたもがく梨咲を抑え込み、爽羽はその血を啜ってゆく。しかし少しすると、噛む力を強くした訳でもないのに、急に梨咲は大人しくなった。怪訝に思い、爽羽が首元から口を離すと、梨咲の瞳はいつぞやのように、なんとキラキラと輝いているのだった。

「や、やっと……」

「?」

「やっとあたしにもこの手の仕事が来た! 木下さん、貴方俳優さんだったのね? 何コレなんの番組? ドッキリ的な? カメラは? カメラどこ?」

 首に開いた二つの穴から鮮血を垂れ流しているにもかかわらず、あろうことか梨咲は何やら盛大な勘違いをしているようだった。拳をグッと握りしめてガッツポーズを取りながら、キョロキョロと辺りに視線を彷徨わせる。どうやらカメラを探しているようだが、残念ながらそんなものはどこにも設置されていない。

「お喜びのところ申し訳ないが、これは現実だ」

「えっ?」

「悪いがおれは本物だ。演技などではない」

「………………」

 途端に静かになった梨咲は、目を点にさせながら、握っていた拳をゆっくり開き、そっと首元に手を当てる。そうして無言で、掌に付着した自らの血をしげしげ眺める。さぁ、恐れおののけ。そうして二度とおれに近づくな。梨咲の様子を観察しながら、爽羽はそのように念じていたのだが……。

「ふ……」

「ふ?」

「ふははははははは!」

 梨咲は高らかに笑い声を上げ、何の前触れもなく立ち上がる。そんな彼女の頭頂が、彼女の表情を窺おうとしていた爽羽の顎に直撃し、爽羽は思わず生理的な涙を目端に浮かべた。彼女は一体どうしたというのだろうか。恐怖が極限に達し、気でも違ってしまったというのか?

「木下さんの秘密、握ったり! さぁ、このことをバラされたくなければ、あたしに協力することね!」

 仁王立ちして腰に片手を当て、もう片方の手でビシッとこちらを指さす梨咲。爽羽はこの時、人間の女の逞しさというものを、嫌でも実感させられたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る