(家……じゃねぇよなぁ)

 歩きながら、織羽は利駆の居場所にあたりをつけていた。具合が悪い、というのは、恐らく嘘ではないのだろう。利駆は雇い主を騙してまでズル休みをするような性格をしてはいない。だが織羽は、悪いのは体調ではなくて精神面であるのだろうと推測していた。先日彼女が口にしていた「夏はダメ」という言葉。それに関係する何かがあったのではないだろうか。そしてそんな時、居場所の感じられない蝶野の家に、果たしてそのまま留まっているのだろうか。

 ギィッと予想した場所――高校の旧校舎の屋上に続く、重めのドアを押し開ける。視線の先には、蹲ったまま肩を震わす利駆の姿があった。

「っ!」

 バタン、と扉が閉まる大きめの音が響いた瞬間、彼女は顔だけをこちらへ向けた。その顔には、間違いなく涙が幾筋も流れていた。織羽は無表情にゆっくりと近づいてゆく。そんな彼がこちらへ辿り着いてしまう前にと、彼女は荒めに顔を拭った。

「すみませっ……! なんでも、なんでもないんです、あのっ」

「そんなに泣いてるのにか?」

「ごめんなさい、すぐに泣き止みます、ですから」

 蝶野の人には言わないで下さい、と。そう、利駆はか細く口にした。

「なんか言われたのか?」

「ち、違います、夢を見ただけなんです」

 利駆のしゃくり上がる息が落ち着くのを少し待ってから、織羽は黙って続きを促す。普段ならこんな面倒事は御免なのだが、多少事情を聴き齧っている手前、放っておくのはなんとなく気が咎めた。利駆は利駆で、織羽に訳を話すつもりはなかったのだが、彼はその場にしゃがみ込み、利駆に目線を合わせて辛抱強く聴く姿勢を崩さなかったので、泣いていた勢いのまま説明し始めた。

「ち、小さい頃のっことで、あんまり、よく覚えてないので、被害妄想の部分が大きいとは思うのですが、その、父と、母が、亡くなった頃の、ことでっ。周りのっ、人っ、たちが、わたしのことっ、知らないって、誰も、わたしのことなんか、知らないって」

 言いながら夢の内容を思い出してしまったのか、再び涙を零す利駆。そうして夢のようにいつか自分は誰からも忘れ去られてしまうのではないか。そんな恐怖に陥ってしまった、と心境を吐露する利駆に、織羽はなんと声を掛けたものか考えあぐねた。

「ず、るいです、狡いです。お父さんとお母さんは、二人だけ一緒で狡いです。わたしだけ一人で寂しいです。私も、二人のところに、行きたい……」

「……んなこと、言うなよ……」

 織羽は、やるせない気持ちのまま吐き出した。利駆の境遇を考えれば、そんなことを言い出す気持ちも解らなくもない。自分が経験したことのないことなのだから、あくまで想像することしかできはしないのだけれど。それでも、そんな風に自虐的なことは言って欲しくはなかった。そう思うほどには、織羽は利駆に惹かれ始めていた。その気持ちを真っ向から否定するのが、非常に難しいくらい。

「お前が世界中から、たとえ蝶野の奴からさえ忘れられても、オレだけは覚えててやるから。なんてったってこのオレだぜ? 記憶力なら任せとけ」

 人の名前も満足に覚えない織羽が言ったところで説得力は皆無なのだが、少しおどけたその言い方に、利駆は漸く少し笑った。その笑顔が、眩しくて。織羽はいつまででも見ていたいと思ってしまった。その笑みを、自分が作り出してやりたいとも。

「ふふ……それは何やら、天をも味方につけたような心地が致しますね」

「アホ……そりゃ言い過ぎだ、バカ」

「はい」

 陽だまりの中、涙を光らせつつも、花がほころぶように利駆が笑む。その顔を見ながら、織羽はどうしたら利駆をそのままの笑顔でい続けさせられるのかという、らしくないことを考えていた。

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