第32話 苦しい恋の覚悟
一夜明けて、マルセルはリンザールの町セーゲルに向けて馬を走らせていた。
任務に関してはあまり芳しい成果は上がらなかったが、急に具合を悪くしたアナスタージアのことを思うと心配でならず、昼過ぎにはエレバス教皇領を出立したのだった。
主たちは、セーゲルを治める貴族の屋敷で休んでいるはずだ。少しでも元気になってくれていれば良いのだが、と願いつつマルセルは急ぎ馬を走らせるのだった。
昨夜マルセルは、旧聖堂での張り込みの後、旅行者を装って大聖堂で祈りを捧げていたエレバス市民に声をかけてみた。信心深さを褒め、旧聖堂にもよく参詣にいくのかと。
その市民が言うには、今どきわざわざ旧聖堂に祈りに行く者は珍しいとのことだった。あの祭りの時でもひっそりとしていたくらいだし、昨日もほとんど人を見かけなかったから、確かにその通りなのだろうと思う。
ただ強い願いのある者は両方に詣でることもあるらしい。
大病を患ってる家族がいる者が平癒を祈ったり、国境警備兵が任務の無事成功を祈ったり、子のない夫婦が子宝を願ったりなど内容は様々であるようだ。
スペンサー司教についても何気なさを装って訊ねてみれば、彼は位の高い司教の中では庶民派でどんな話でもちゃんと聞いてくれる良い人だと、かなりの高評価だった。マルセルは苦い笑いがこみ上げるのを堪えながら相槌を打ったものだった。
スペンサーは旧聖堂だけでなく地方の聖堂もいくつか管理しているのだが、普段の業務で詰めているのは大聖堂であるらしい。となれば、市民が彼に会いに行くならまずは大聖堂へ向かうが通常であろう。始めから旧聖堂に尋ねてゆくのはおかしいということになる。
それでも、スペンサーが旧聖堂に来ることをたまたま知った近所の農夫、それも日ごろから親交のある者が会いたいと言ってきた可能性は十分あり、本当にそうであれば問題はないのだが。
しかし、アナスタージアがあんなにも取り乱して調べるように言ったことを思うと、やはり自分たち以外にも、秘密の相談の為に旧聖堂を利用している者がいるとしか思えないのだった。
――一体何者だったのだろう……。アナスタージア様はあの部屋の前で、何かお聞きになったのだろうが……まさかエルシオンの使者ということはあるまい。もしも敵国の者と疑っておられるなら、はっきりそう仰るはずだ。それに我らリンザールのすぐ後にエルシオンと会うなどという危険な真似、いくら厚顔なスペンサーどもでもできはしないだろう。
マルセルは馬を走らせながら、アナスタージアに衝撃を与えたのは何だったのかを、懸命に考える。
スペンサーは客の来訪を告げられた時、明らかに狼狽していたと思う。自分たちの姿を見られないようにと配慮を見せたが、その実自分たちにその客人を見られたくなかったのではないだろうか。
そもそもスペンサーは教皇を裏切ろうとしている人物だ。教皇の許しなくリンザールの亡き王太子と連絡を取り合い、今はシヴァンとの仲介役までしている。それはひとえに、次の教皇に自分をリンザールから推してもらいたいがためだ。
教皇となるにはエレバス内だけでなく周辺国の承認も必要なのだから。
――自分の企み事に重要な人物が客だったのなら、我々との会談があると分かっていても、同じ日に予定をいれることもあるやもしれん。
近頃の連絡は、シヴァンの密使を通じて行ってきた。だが、やはり自国の諜報部員を放つべきだろう。エレバスにはエルシオンのスパイも潜んでいることだろうし、司教らを信用してはならないのだ。
――我ら以外の密談相手とは、教皇がらみだったのだろうか……。スペンサーの周辺を見張らねばならんな。あのベイツも……。それにしても……
仮にスペンサーの野心むき出しの密談を、アナスタージアが聞いてしまったのだとして、それであんなにも動揺するだろうかと疑問になる。
やはり、納得がいかなかった。
――一体何があったんだ……。やはりアナスタージア様にお尋ねするしかないな。
これ以上考えても埒があかぬと、マルセルはブンと頭を振ってから、馬に掛け声を駆けて目指す町へと急いだ。
*
「アナスタージア様……お加減はいかがですか」
ヨアンナの呼びかけに微笑んでみせたが、アナスタージアの顔色は悪くベッドに臥せったままだった。食事も摂れず、昨晩は一睡もできなかった。
エレバスからほど近いセーゲルの町は、交易のキャラバン隊がリンザールで最初に訪れる町だ。その為商人も多く毎日市が立ち、活気が溢れていた。
ここを治めるレイナルド伯爵の屋敷に、アナスタージアたちは身を寄せている。 屋敷の主人である伯爵は、今軍を率いてフォルト村に滞在中であり、夫人が留守を預かっていた。突然の来訪に夫人はひどく驚いたが、事情を聞くと王女のお世話をできるとは至上の幸せと快く部屋を与えてくれた。アナスタージアの滞在は極秘に致しますと言って、使用人たちにも即座にかん口令も引いたのだった。
というのも、セーゲルにはいつもキャラバンやエレバスからの旅行者たちが沢山いるわけで、アナスタージアの滞在や体調不良が町に広まれば、エルシオンにまで届いてしまうかもしれないからだ。
アナスタージアは、伯爵夫妻の忠義に心から感謝したのだった。
「お飲みものをご用意いたしました。少しお召し上がりになりますか?」
ヨアンナは枕元にひざまずいて、静かに問いかけてくる。
アナスタージアは息をするのも苦しくて、ヨアンナから目を逸らしてしまう。
彼女は甲斐甲斐しく世話をし、心から案じてくれているのはよく分かっているのだが、どう応じればいいのか分からなかった。
大丈夫よと言ったところで、全く大丈夫ではないのは一目瞭然なのだから。
昨日の声の男は、バートなのか。
もう何百回も繰り返した疑問に、まだ答えは出ない。どうすればいいのかも分からない。
彼はあの場に居るはずのない人。だから声の主はバートではない。そう信じたいのに、あの声はアナスタージアの耳に染みついた彼の声にそっくりで、キリキリと胸が痛んでしまうのだ。
「ヨアンナ……あなたは私の味方よね……?」
「もちろんですわ」
震えるアナスタージアの手をそっと握って、ヨアンナしっかりと頷いてくれた。
「どんな時も何があっても、私はアナスタージア様のお為に働きますわ。ですからどうぞ、お心に掛かっていることをお話くださいませ」
「ヨアンナ……」
昨日から何度も繰り返した会話だった。
ヨアンナに縋りたくてならないのだが、話す勇気がどうしても出ず、アナスタージアは首を横に振るばかりだった。
マルセルがここに到着して、スペンサーの客人がバートだったと言ったら、自分はどうすればいいのだろう。
――ああ、どうか他人のそら似であってちょうだい……
目を瞑って祈った。
マルセルから報告を受けるのが、怖くてならなかった。自分で命じたことだったが、今は聞きたくないという思いの方が勝っている。そして怖くなるのは、バートを信じていないからなのかと、自分を責めもした。
また涙が頬をつたっていった。
「……バート。彼が原因なのではありませんか?」
ヨアンナが少し低い、でも優しい声でそういった。
ビクリとアナスタージアは身を強張らせてしまう。言い当てられて、身体がガクガクと震えてしまう。
「アナスタージア様は、臣下の前ではいつも毅然としたお顔をお見せになり、決して弱音をお吐きになりませんでした。一国を背負う王女としてのお顔を崩されることはありませんでした。ええ、もちろん私の前では肩の力を抜いて、素顔をみせて頂けていたと信じておりますわ。でもこの私でも、アナスタージア様のこのようなご様子を見るのは初めてです」
ヨアンナは、アナスタージアの手を優しく撫でながら続ける。
「バートと出会ってからのアナスタージア様は変わっておしまいになりました。驚く程の変わりようです。いいえ、それを悪いことだと言うつもりはありません。年相応の娘らしいお顔をなさるアナスタージア様を、私はますます愛おしく感じてしまったのですから。……もう反対は致しません。どうぞ、恋をなさいませ。けれどとても苦しい恋になることも、覚悟してくださいませ。……そして、どうかこのヨアンナに何でも相談して下さいますようお願いいたします」
「ヨアンナ……」
「何度でも申し上げます。私はいついかなる時も、アナスタージア様の味方です」
アナスタージアはボロボロと涙を流していた。
ヨアンナの、恋をなさいませという言葉に胸が切なくなり、苦しい恋を覚悟なさいと諭されてじりじりと身を焼かれる思いになる。アナスタージアは覚悟していたつもりでも、やはり足りなかったのだと思い知らされた。
ヨアンナの言う苦しい恋を覚悟せよとは、いつか必ず来る別れを覚悟しておかねばならないということなのだろう。
そんな覚悟ができるだろうか。
あふれる涙は止まらず、もう想いを一人で抱えてはいられなかった。
「私……バートを愛しているの。何よりも大切なの」
「はい」
「こんな気持ち初めてなの」
「はい」
「一体、私の理性は何処に行ってしまったんでしょう」
きっと心の奥底では分かっている。愚かな恋だということは。しかし、現実から目を逸らして、いつかこの恋が成就する日を夢見てしまうのだ。
アナスタージアは泣きながら告白する。
「……あの日、仮面を付けてお祭りに出かけた時、きっと夫婦になるんだって、約束したの。約束したのよ……」
「……はい……」
今の今まで秘密にしていたことをヨアンナに全て話した。
バートの友人に身代わりになってもらって二人きりの時間を過ごしたことも、ルビーのネックレスを贈られて求婚されたことも。
ヨアンナは驚きに目を見開き、声も出ない様子だった。
「彼が話した言葉の一つ一つをしっかりと覚えているわ……彼の眼差しも、声も……」
愛を囁く彼の吐息に耳をくすぐられたことも、熱い視線にさらされて肌が焼けるように疼いたことも、息が止まる程に抱きしめられたことも、決して忘ることなんてできはしない。
あれは戯れなんかではなかった。真剣な愛の誓いだった。そのはずだった。
けれど、もしもあの声の主がバートだったら、彼は嘘をついていたことになってしまう。いや正確には、真実を隠していたということだろうか。
彼には既に妻がいて、それを隠しての求婚だったということなるのだから。
エレバスもリンザールも一夫多妻が認められている。しかし実際に複数の妻を持つのは、上流層の者だけであり人口の一割にも満たないだろう。
バートはクレイトン子爵家の息子だというし、年齢からいっても結婚していてもおかしくはない。貴族であれば複数の妻がいたとしても、騒ぐことでもない。
だから、既に既婚者だったとしても求婚はできるのだ。
――いいえ、まだバートだと決まったわけではないわ……。第一、彼があそこに来る理由がないもの……。そうよ、ベイツに何の用があるというのよ。
アナスタージアは、思わずヨアンナの手を握り締めてしまう。怖くてならなかった。
初めは奥方や懐妊という言葉にショックを受けていた。だが、時間が経つにつれて、バートがシヴァンと会うことの意味が怖くなってしまったのだ。
背筋がゾッと震える。
もしも彼が、リンザールの王女と分かって声をかけてきたのだとしたら、全てが偽りだったということになってしまう。あの愛の言葉さえも偽りだったという事に。
「……アナスタージア様。なぜリヒター少将に、スペンサー司教の客人が誰かを調べるように命じたのですか?」
あくまでも優しく問いかけるヨアンナ。
アナスタージアはビクリと身を固め、弱々しく首を振るばかりだった。
「では、私がバート・クレイトンを調べてもよろしいでしょうか」
アナスタージアは愕然として、ヨアンナを見つめた。
いつも傍にいて、唯一心許せる侍女には何もかもお見通しだったようだ。アナスタージアをよく知り、秘密のお遣いをしているヨアンナだからこそだろう。一晩色々と考えを巡らせ、スペンサーの客人がバートなのではないかとアナスタージアが不安に思っている、という結論に彼女は至っていたのだ。
「いいえ! いいえ! やめてヨアンナ!」
「大丈夫ですわ。少将にも何も申しません。私はアナスタージア様の味方です。姫様のお幸せを心から願っているのです」
「ああ、ヨアンナ! 大丈夫よ! バートを疑わないで!」
疑っているのは自分だと、心の中で己を詰りながら、ヨアンナに懇願する。もう何も調べなくていい。きっと何も知らない方がいいのだからと。
宥めるヨアンナの話も聞かずに、アナスタージアは泣き続けるのだった。
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