花に包まれて

彼女より

 ――10時台はこの曲からスタート!

 ラジオネーム「ロマネスコ育成中」さんからのリクエスト、福山雅治で「幸福論」!



 3月の空気は、どことなくフローラルなのです。

 次年度まであと数日を数える今日この頃、あちこちで桜が咲き始めています。

 桜がない場所でも、ふわっとした雰囲気を感じられます。

 平日の午前中からラジオを聞きながら、折鶴を糸に綴ります。

 我ながら贅沢です。

 仕事は休みですし、お金がかからない贅沢は大目に見て下さいな。



 “さとっちゃん”の「今日も元気に行ってらっしゃい!」を聞いてからラジオの電源を切ります。

 今日も元気に出かけます。

 ……そうでした、その前に。

 新聞のとあるページをバッグに忍ばせておきます。



 上州富岡駅の方向から来た人達が、横断歩道で青信号を待ちます。

 子どもや若い人が多いです。春休みを利用して富岡製糸場を見に行くのでしょう。

 その人達と一緒に、私も富岡製糸場の方へ向かいます。



 とりあえず、堀越店長のお店へ。

 店長はいつもの調子で「いらっしゃいませー」と言ってくれます。

「みづきちゃん、今朝の新聞見た?」

「見ました。あれですよね?」

「あれですよねー」

 “あれ”の内容はまだ内緒です。



 店内にお客さんはいません。

 チャンスです。一度でいいから、お店のピアノをいてみたかったのです。

 ピアノを習ったことはありません。鍵盤に触れたこともないかもしれません。

 ピアノのカバーを開けますと、磨かれたように綺麗な鍵盤のお目見えです。

 「ド」の位置を確認し、弾けそうなメロディーを思い出しながら音を探します。

 両手で演奏することなんてできません。右手で精一杯です。

 つっかえながら音を探します。

 何度か弾いていますと、ゆっくりですが曲の形になってきました。



 ぱちぱち、と拍手が起こります。

 振り返りますと、待ち合わせの相手がいました。

 彼です。来たことに気づかないくらい、私は没頭していたようです。

 席を譲ろうとしますと、「どうか、そのまま」と、私の隣に来ます。

「もう一回、弾いて」

 近いです。耳朶に吐息を感じます。

「俺が左手をやるから、はなちゃんは右手をお願い」

 いけません。にやけてしまいそうです。

 彼が左手、私が右手を担当し、「せーの」で鍵盤をたたきます。

 演奏するのは、「禁じられた遊び」です。

 彼は私に合わせてくれます。

 申し訳ないです。彼は椅子に座らず、中腰なのです。

 曲が終わりますと、私は急いで椅子から下りました。

 まだ挨拶をしていません。

「おはようございます、洋也くん」



 「いいですねー」と、堀越店長。

「若い子が青春している姿、おじさんは好きですよー」

 店長は、コーヒーを出してくれました。

 形のいびつな、陶器のマグカップです。

 彼と陶芸をしたマグカップを、我が儘を言ってお店に置かせてもらっています。

 「いいですねー。常連さん用のカップって、やってみたかったんですよー」と店長も乗り気だったのです。



「田沢くん、今日の新聞見た?」

 店長は、同じことを彼にも訊きます。

 彼の返事は「いいえ」です。

「新聞、4月からの契約なんです」

「あらあら、残念だ」

 店長は残念どころか嬉しそうです。お人が悪いのです。

 でも、私も人が悪いのです。

 カウンターのテーブルに視線を落としますと、フォトフレームに入れた「千羽鶴、承ります」の文句が目に止まりました。

 千羽鶴の直接の依頼は、滅多にありません。

 しかし、千羽鶴を誰かが必要としてくれるなら、千羽鶴を喜んでくれるなら、私は千羽鶴をつくり続けます。

 自信を持って言えるようになりました。

 彼のおかげです。

 いえ、彼だけではありません。



 お店に他のお客様がみえました。

 私達はお店を出ることにします。

「行ってらっしゃい」

 店長は、確かにそう言ってくれました。



 アスファルトには桜の花びらが、ころころと転がっています。

 顔を上げれば、つきあたりに富岡製糸場が見えます。

 木骨煉瓦造りの東繭置所は、桜の花で彩られています。

 普段とは違う表情なのです。

 まるで、花に包まれて笑っているようです。



「すごい……初めて見た」

 彼は、桜に彩られた富岡製糸場に見とれています。

 彼ほど世界遺産に詳しいのなら、桜と富岡製糸場の写真をみたことがあるでしょう。

 それでもきっと、実物の印象は写真以上です。



 彼は本当に、世界遺産が好きなのです。

 私は、そんな彼が大好きなのです。

 興味のあることや目標にまっすぐ向き合う彼は恰好良いのです。

 ピアノを演奏する彼は、素敵です。

 彼の寝顔は、お昼寝をする犬みたいで可愛いのです。

 こんな私に「もっと傲慢にならなくちゃ」と激励してくれます。



 彼に激しく求められたとき、私はタイミング悪く風邪をひいてしまいました。

 それ以来、あのように体を求められたことはありません。

 その代わり、手をつないだり、冗談を言い合うことが増えました。

 「ゆっくりの方が性格しょうに合っているみたいだ」と彼は言ってくれます。

 彼は優しいです。私に合わせてくれます。

 それとも、自然に足並みが揃うのでしょうか。

 そう自惚うぬぼれたいです。



 花村みづきという人間は、幸せを求めずに朽ちてゆくものだと思っていました。

 しかし、今の私は彼と一緒にいられることが幸せなのです。

 そんな自分を「良いかもしれない」と思ってしまいます。



 この時間ができるだけ続いてほしいのです。

 桜の花に包まれた3月最終週に、ひそかに願ってみました。

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