ほどくひと⑦ ~彼より~

 俺は今、浮気をしている。

 浮気相手は、新しい仕事。

 彼女が見つけてくれた、富岡市立図書館の臨時職員募集の求人に応募し、採用してもらうことができたのだ。

 勤務は4月からだが、一般の人と一緒にボランティアをさせてもらっている。

 お金にはならないけれど、新人研修のつもりだ。

 今の脳内は、言うなれば“内定ハイ”。

 仕事が決まった喜び、かな。

 その流れにかまけて、彼女のお願いを蹴ってしまった。



 ボランティアを終えた2時間後、俺は堀越店長の喫茶店のピアノに向かい「禁じられた遊び」を高速演奏する。

「はい、おつかれー」

 カウンター席に腰を下ろすと、店長はすかさず「いいですねー」と言ってくれる。

「若い子が恋している姿、おじさんは好きですよー」

「店長ぉ……」

 俺は卑怯だ。

 彼女を手ごめにしようとして、お願いも断って、「まだ公務員になっていないから」とかプライドも高くて。

 彼女のことを大切にしていない。

 彼女に謝ろう。

 彼女は1時間後にこの店に来るはずだから。



 ドアベルの乾いた音が、来客を告げる。

 俺はその方を見て、にわかに目を疑った。

 疑う、というのは大げさだが、「あれ?」と思ってしまった。

「新田先生?」

 高校のときの担任教諭にして、千羽鶴の依頼人。1時間後の15時に来る予定だったのに。

 新田先生は、店長に促されて俺の隣の席に座った。



 灯油ストーブの上に置かれた薬缶やかんは、しゅんしゅんと湯気を立てる。

 堀越店長はカウンターから離れ、沸騰する薬缶と静かな薬缶を交換する。

 沸かしたてのお湯で淹れてもらったコーヒーは、体の一部に溜まっていた熱を手足の先まで戻してくれる気がした。

 店長は「サービスです」と新田先生にもコーヒーを出す。

「店長さん、申し訳ありません。カフェインはちょっと……」

「カフェインレスのコーヒーですが、駄目でしたかー……ごめんなさい」

「あっ! カフェインレスなら平気です。ありがとうございます!」

 新田先生、少々落ち着きがない。来てすぐは落ち込んでいたようだが、すぐに少し高揚した。今度は、湯気の立つコーヒーを口にして溜息をつく。

「何年ぶりかな。コーヒーを飲んだのは。教員だったころから、一滴も飲んでいないのに」

 新田先生は、曇ってもいない眼鏡を外す。

 不思議な感じだった。

 4年前は教壇に立って俺達を指導してくれた先生が、今この瞬間は、喫茶店で隣に座って感傷にひたっている。

「カフェイン、苦手なんですか?」

「苦手というか、天敵です」

 新田先生は、眼鏡をかけ直す。

「学生の頃から睡眠障害があって、数年前にはっきりと『不眠症』と告げられたんだ。田沢くんが3年生の頃は、やっと授業をしていた。1年生と2年生の3学期なんか、けっこう自習にしていたんだよ」

「それって、もしかして……」

 俺達のせいですか?

 言葉が喉まで出かかっていた。

 新田先生は、力なく首を横に振る。

「たまたまだよ。学級崩壊みたいになってしまったのは俺の力不足だ。そのタイミングで体調の悪い時期も来てしまって、退職してしまったんだ」

 新田先生は、冷めないコーヒーを、くっとあおる。男前だ。俺は猫舌ではないけれど、ここまで一気に飲めない。

 新田先生は、店長に訊ねる。

「この辺りで、中学生くらいの男の子を見ませんでしたか?」

「けっこう見ますよー」

 店長は、どや顔で首を傾げる。

「でも、迷子っぽい子は見ませんでしたね。どの子も保護者同伴で、誘拐されたような子も見ませんでした」

「……そうですか」

 新田先生が、小さく溜息をついたように見えた。

 店長は店の奥へ行き、すぐに戻ってくる。

「もしかしてだけど、この写真の子ですか?」

 店長は、自身のスマートフォンを俺達に見せてくれる。

 新田先生は眼鏡の位置を直してスマートフォンの画面を見つめる。

「この子です!」

「……まじかよ」

 俺も驚いてしまった。

 写真の左側に、少年。右側にいるのは、彼女なのだ。

 いわゆる“自撮り”写真で、ここではない店のテーブルが一部写っている。

 俺まだ彼女と自撮りしたことないのに!

「つい先程、みづきちゃんから送られてきたんですよー」

 店長は、無料通信アプリの履歴を見せてくれる。



『千羽鶴延期になりました。』

『もしも新田先生が来ていたら、この写真を見せて下さい。』

『この子とお茶会してきます。』

『しばらく電話に出られません。ご承知おき下さい』



 メッセージは、約5分前に受信している。

「よかった……花村さんと一緒にいるのか」

 新田先生は、緊張が解けたかのように深く息を吐く。

「店長さん、花村さんに『この子で合っています』と返信して頂いてもよろしいですか?」

「おっけーですよー」

「ついでに、ジンジャーエール下さい」

「かしこまりましたー」

 きりっと冷たいジンジャーエールも、くっとあおってしまう新田先生は、男前に見えてしまう。居酒屋のカウンター席で冷酒を飲む人みたいだ。

 新田先生は安心したのだろう。

 でも、俺は何がなんだかわからない。

 あの写真の少年は誰だ。

 なぜ彼女と一緒にいるんだ。

 あの少年は隠し子疑惑の子か?

「あの子、塾の子ですか?」

 遠まわしに新田先生に訊いてみる。

 新田先生は、あっさり答えてくれた。

「弟だよ」

 しかし、過去に“ひとりっ子”を自称していた新田先生の話とは矛盾する。

「父の養子なんだ。歳は18歳はなれているけれど、俺にとっては弟なんだよ」

 俺は頭の中で計算してしまった。

 新田先生は俺より10歳年上だと記憶している。

 俺は22歳。彼女も3月に誕生日が来れば22歳。新田先生が32歳で、あの少年が……14歳か。

 4年前は、新田先生に若いイメージはあっても、いかにも大人という感じで、心の中で距離があった。

 彼女の兄・花村秋瑛が31歳で、実は新田先生と一歳ひとつしか違わない。

 「先生」だった新田先生に、親近感をおぼえる。



 彼女からの連絡を待つ間、新田先生は少年おとうとのことを話してくれた。

 少年の名は、“解人カイト”。

 一見、キラキラネームのようだが、「“ほどく人”で“解人”」と言われてしまうと、意味のある名前に思えてくるから不思議だ。

「カイトは父の知り合いの子で、児童養護施設にいたのを父が養子にしたんだ。年齢の割にしっかりした子なんだけど……」

 新田先生は、自分のスマートフォンをちらっと見た。

 一瞬見えた、ホーム画面のきらびやかな画像は、世界文化遺産の「建築家ヴィクトール・オルタによるおもな邸宅」であるタッセル邸の階段である。アールヌーヴォー建築の代表のような住宅で、ウェブで検索するとこの階段の画像がよく出てくる。

 それはさて置き。

「カイトは、施設で酷い扱いを受けていたらしい。本人は何も言わないけれど、異様なまでに家事をこなそうとして、記憶がフラッシュバックしているようなことがある。自分のことよりも他人を優先しようとする癖があるんだ」

「それって……」

 俺が言わなくても、新田先生は深く頷いた。

 まるで、彼女だ。

「カイトは、健気で癒される雰囲気の子なんだよ。悪意あるものに潰されてほしくないから、色々なところに連れて行って、おいしいものを食べさせたり、綺麗なものを見せたり、生きる力になりそうなことをさせていたんだけど……富岡製糸場に連れて行ったこと、良くなかったのかもしれない」

 今日は日曜日で、少年の部活動は午前中だけだったらしい。

 千羽鶴の約束のついでに富岡製糸場に連れて行ったが、敷地内で見失ってしまった。

 出入り口の守衛さんに訊くと「つい先程出て行った」とのことだった。

 それから30分ほど経ち、少年はなぜか彼女と一緒にいるようだ。



「千羽鶴は弟さんのために?」

「うん。本当は、ふたつ欲しかったんだ。ひとつは、塾生達に。もうひとつは、カイトに。でも、さすがにふたつは頼めないよ。花村さんは無理してつくりそうだもの」

「同感です」

 彼女が千羽鶴を承っていることは、秋のSNS騒動で知ったらしい。

 千羽鶴を非難する流れに乗る中学生達に千羽鶴を見せつけたく、高校受験の合格祈願と称して、勤務先の学習塾に持って行きたいとのことである。

 でも、カイト少年へのエールを送りたくて、本当はもうひとつ欲しかったのだそうだ。

 そう語る新田先生は、教師だった頃とは異なる、嬉しそうな表情だった。

 口には出さないけれど、今の生活もまんざらではないようだ。



 でも。

 少年と一緒にいる彼女は、少年を説得して新田先生のところへ連れてくるつもりなのだろうか。

 相手が未成年とはいえ、彼女が他の男と一緒にいるという状況が不安だ。

 不安だけど、彼女を信じて、連絡をくれることを願う。

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