タランテラとノラ⑤

 花村秋瑛あきひでには、4つ年下の弟ができるはずだった。

 しかし、その子は水子となってしまい、その5年後に彼女が生まれる。

 彼女は「お前があの子を殺した」と祖父母から疎まれた。

 母親も、彼女が小学生になる頃には、彼女を憎むようになった。

 家の中では常に、祖父母の怒鳴り声と母のヒステリックな鳴き声、彼女の許しを乞う声が止まなかった。

 秋瑛は、それらの声がただうるさいとしか思えず、全て無視し続けた。



 父親は彼女の味方だった。

 しかし、表立って祖父母に逆らうことはできない。

 気性が荒く人脈の広い祖父は、どんな手を使ってでも、気に入らない人を徹底的に駆逐しようとするのだ。

 父は、自分がそうされることには恐れなかったが、妻や秋瑛にまで被害が広がることを恐れた。

 祖父母の見えないところで、彼女に救いの手を差し伸べていた。

 抜かれるはずだった食事を摂らせたり、浴槽の湯を残してくれたり、学校の急な集金にも対応してくれた。

 折り紙という趣味を選択させてくれたのも、父だった。



 秋瑛は、大学進学を機に上京した。

 しかし、卒業後は祖父の強い要望で実家に戻り、富岡市役所の職員になった。

 4年間で、家の中は様変わりしていた。

 家事のほとんどを彼女が行っていたのだ。



 転機となるのは、彼女が中学2年生、秋瑛が23歳の年のこと。

 秋瑛が仕事から帰ると、彼女が家の中にいなかった。

 彼女は雨の中、庭に棄てられていた。

 風邪をひいたことを理由に、彼女は閉め出されたのだ。

 秋瑛は、彼女を家に入れようとしたが、祖父母にも母にも反対された。

 帰ってきた父が、彼女の服とバスタオルを渡してくれて、秋瑛は彼女を連れて車で出かける。

 行くあてはないが、とりあえず夕食がてらファミレスに向かった。

 彼女は車の中で濡れた服を着替え、伸ばしっぱなしの髪をバスタオルで拭いた。

 ファミレスに着いてから、秋瑛は気づいた。

 彼女は小さくてやせ細っていることに。

 ファミレスの注文の仕方を知らないことに。

 秋瑛を「兄さん」と呼んでいたことに。

「兄さん、ごめんなさい」

 彼女は小さな声を振り絞る。

「私なんか、生まれてこなければよかった」

 彼女はそれきり、喋らなかった。

 注文したリゾットを2、3くち咀嚼し、嚥下しただけ。

 彼女は泣かなかった。

 ただ、俯いていた。



 彼女の高校進学は、祖父が決めた。

 遊ばないようになるべく遠く、評判の悪い学校だと祖父が思い込んで選んだのが、群馬県の隣、埼玉県の本庄市にある高校であった。

 ところが、評判が悪かったのは父親の世代まで。ここ20年で進学校になっていた。

 祖父は彼女を激しく責めた。

 秋瑛はふたりの間に割って入り、彼女の保護者になる権利をもぎ取った。

 権利というには大げさだが、秋瑛はなるべく彼女を自由にさせたかった。

 高校の入学式は、秋瑛の仕事の都合がつかず、学校に事前に連絡を入れた。

 彼女は入学式の翌日、課せられた家事が終わらず、大幅に遅刻した。

 自宅を出発したのが9時頃。学校に着いたのは2時間後。

 大幅な遅刻はこれだけだったが、小さな遅刻はたびたび生じた。

 遅刻しそうになると、秋瑛が強制的に彼女を最寄り駅まで車で送ったのだ。



 彼女は中学生のときから、入学式と卒業式以外の学校行事に参加していない。

 不参加を祖父母に強要されていたからだ。

 彼女が10代のうちに遠出をしたのは、小学校の修学旅行で鎌倉に行った、その一度きりである。

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