お好きな羽数を承ります④

 忍野八海は、富士山と一緒に世界遺産に登録されています。

 登録名は「富士山――信仰の対象と芸術の源泉」。

 美しい自然が登録される「自然遺産」ではなく「文化遺産」です。

 富士山の自然の良さが認められたのではなく、富士信仰や、富士山が浮世絵などに描かれ海外の芸術家にも影響を与えたことで登録されたのだそうです。

 約2週間前、彼が教えてくれました。

 今日私が旅行に言っていることは、彼には伝えていません。

 富岡市役所の試験を間近に控えているのです。邪魔はできません。



 彼が世界遺産に興味を持っていることは、高校在学中から気づいていました。

 担任の新田先生が日本史の授業で話を脱線したときです。

 ギリシャのパルテノン神殿の柱の膨らみが、日本の法隆寺の柱にまで影響を与えた――この内容は教科書通りでした。

 「パルテノン神殿も法隆寺も世界文化遺産に」と先生は違う話を始めてしまいました。

 つまらなそうにしている生徒の気を引きたかったのだと思います。しかし、かえって生徒を退屈させてしまいました。

 そんな中、彼だけが姿勢を正して先生の話を聞いていました。

 その上、授業の後に先生のところへ行って質問もしていたようなのです。

 手ごたえがあったように自席へ戻る彼は、妙に印象に残っています。

 ちょっといいなーと思ってしまいました。



 私も話が脱線しました。



 忍野八海は山奥にも拘らず、多くの観光客でにぎわっていました。

 外国人も多いです。売店には、日本語の隣に中国語表記もされていました。

 “八海”と称されているように、8つの池で構成されています。

 売店の近くの池は「水深8m」の看板がありました。

 マリンブルーといえるような鮮やかな水色です。その中を、鯉がゆったりと泳いでいます。別の鯉とぶつかってしまうかと思いきや、その鯉の下を通ってゆきました。

 遠近感が狂ってしまうほど深い場所にも、鯉がいるようです。

 私達はスマートフォンで写真を撮ります。

 空を泳ぐ雲が湖に写り込んでしまい、肉眼で見るようには撮れません。

 8つの池のうち、出口池だけは離れた場所にあります。

 売店のコーヒーも飲みたいね、という話になり、出口池には行かずに閉店間近の売店に駆け込みました。

 綺麗な水で淹れたコーヒーで一息ついた後、16時過ぎに忍野八海を発ちました。

 向かうのは、本日最後の目的地、旅館です。



 旅館は、甲州市というところにありました。甲府市とは違うそうです。

 部屋からは景色が一望できますが、残念ながら雲が多くて山が見えませんでした。

 夕食までの時間、明日の行き先を確定させます。

 勝沼のワイナリーに行くことは事前に決定していました。

 その後、ぶどう狩りをするか、お菓子の工場を見学するか、案は出ていましたが、候補でしかなかったのです。

 ぶどう狩りをするならば、予約が必要になるかもしれません。

 結局、予約不要の理由から、お菓子工場の見学をすることにしました。

「やったあ! 信玄餅!」

 珍しく、青柳さんがガッツポーズをします。

 内海さんは無言で驚いていました。



 夕食にごちそうを頂いて、デザートに巨峰やシャインマスカットを堪能して、温泉にも入ります。

 くれぐれも、我々が女湯ののれんをくぐった後を想像しないで下さい……と、誰に対してでもなく言ってみました。



 部屋に戻ると、青柳さんはふかふかの布団にもぐって眠ってしまいました。

 何ともないような顔をしていましたが、やはり疲れたのでしょう。

 夕飯の前にテンションが高かったのも、疲れのせいかもしれません。



「ねえねえ、はなちゃん」

 内海さんに訊かれます。

「熊谷駅のトイレにいたよね? メイク直しの鏡の前に」

 隠すことでもないので、「いたよ」と答えます。見られていたのですね。

「やっぱり。そのとき声をかければ良かった。はなちゃんだって思ったけど、自信がなくてスルーしちゃった。ごめん!」

「平気だよ。私がうみちゃんだったとしても、その場合は声をかけなかったと思う」

「うん……だよね。はなちゃん、高校生のときよりも美人になったね。びっくりしたよ」

 私は「とんでもない」とだけ言葉を返しました。



 自分が美人だとは思えません。

 小さい頃から祖父母と母に「顔を見るだけで気持ち悪くなる」と言われ続けていました。

 高校でも、ほとんどの女子からは「笑ったり泣いたりする顔が不快だから、やめてね」と幾度となく指摘されました。

 就職してからは「お前の笑顔も仏頂面も、お客様を嫌な思いにさせているんだ」と上司から毎日のように指導されました。

 今の職場では言われていません。言われたとしても、もう傷つくことはないでしょう。

 周囲を不快にさせる人は“美人”だとは思えません。

 だから私は美人ではありません。

 しかし、内海さんから「美人になった」と言われて、なぜが胸部が温かくなりました。



 でも、我慢。

 我慢しなくてはならないのに。



 温泉に入る前に化粧を落としておいて良かったです。

 涙が化粧で崩れるなんて醜態をさらすわけにはゆきませんから。



 彼からもらったメッセージを唐突に思い出しました。

 彼は「綺麗になった」と言ってくれたのです。

 こんな私なんかに。



 寝る直前に、スマートフォンの充電をします。

 充電をしながら、無料通信アプリの私達3人の共有フォルダに、今日撮った写真を保存しました。



 彼にも、忍野八海の写真を送ります。

 澄んだ水色の水底と、水面に映った空の写真を。

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