菫色

     ★☆★☆★


『ダニエル! 返事をして、ダニエル!!』

 どれほど繰りかえし呼びかけてもクレアの声はとどかなかった。拡張現実上にオフラインと表示されたダニエルへの接続は確立されないまま、時間だけがすぎていく。

「なぜなの、ダニエル。どうして、こんなこと……」

 つぶやいた声がやみのなかにとけていった。最適な温度がたもたれているにもかかわらず、あかりをおとした部屋がひどくつめたく感じる。

 うつむいていたクレアは、はじかれたように顔をあげた。この程度のことであきらめたくない、奥歯をみしめると視点移動で車椅子くるまいすを操作する。自室をでてリビングにむかった。

 リビングのソファにはシュリの姿があった。彼女を通じておこなわれている監視をさけるため、クレアがとなりにおり、拡張現実上でふるい映画をみているというダミーデータをながされたシュリは、普段どおり生真面目に、いかなる依頼にも即座にこたえられるように万全の姿勢をたもったまま、じっと待機している。

 彼女の顔をみた途端、ファンの体から切断されるまえにダニエルにいわれたことを思いだした。指定されたプログラムを起動する。処理の完了まで十数分を要する旨が通知された。できることなら落ちついた状況で取りかかりたかったが、現況がそれをゆるさない。つづいてシュリにほどこした電子情報の結界を解除した。

「シュリ」

「なにかご用ですか?」

「ええ。でかけたいの、いますぐ」

「どちらまで?」

「道すがら話すわ。支度を手伝ってくれる?」

「承知しました」

 立ちあがったシュリとともに自室にもどる。念のために組みあげておいた、彼女に仕掛けられた盗聴プログラムに侵入して偽の情報を送信するプログラムを起動しながら。

 支度がすむまでに数分を要した。リビングのティーカップを片付けてくるとシュリが部屋をでたあと、一縷いちるの期待をもって拡張現実で再度ダニエルのステータスを確認する。オフラインの表示にきあがりかけた嫌な考えを頭をふって追いはらい、シュリのもとへむかった。

 居間に入って首をかしげる。闇がみちていた。ついさきほどまで明かりのともっていた空間に。

「シュリ、どうしたの……?」

 即座に視感度が調整されて、暗闇をみとおせるようになった人工のひとみで様子をうかがう。

 ひえた空気にほおをなでられ、鳥肌がたつ。とじていたはずの掃き出し窓がひらいており、カーテンが風にゆれていた。機械仕掛けの鼓動がはやくなる。侵入者の脅威よりシュリが心配でめぐらせた視線が、暖炉のわきで釘付くぎづけになった。

 おおきくみひらかれた目と、耳までさけた口、幽鬼のごときあおじろい異形の相貌そうぼうが、そこにあった。息をのむ彼女の目前で、男はゆっくりと仮面をはずす。さえた月光がリビングに射しこむ。やさしげな面差しが銀の光のなかに浮かびあがる。セシル・ハーマン、駅ちかくの花屋に勤務する、善良を絵にかいたような隣人であった。

「セシル、その仮面はわらえない冗談だわ」

 いつでも車椅子を後退させられるようにかまえたまま、クレアは防犯システムのインターフェースを起動する。

「残念ながらこれは冗談じゃない、クレア。僕がインドラジットなんだよ」

「……どうやって窓をあけたの?」

「彼女にお願いしてね」

 セシルの視線が背後にむけられる。つぎの瞬間、外部からの正当な介入によって、クレアの機械化きかいか躯体くたいからコマンド発行の機能がうばわれた。実行者のIDをみて愕然がくぜんとする。闇のなかからその人物が歩みでた。日陰におかれた白磁に似た美貌が、月明かりにてらされる。

「どうして……?」

「彼女はオーナーである君以上に、僕たちラークシャサの命令に従うようにプログラムされているんだ。ずっと昔からね」

「……そんな」

 衝撃にふるえる瞳を、シュリは透明な視線でまっすぐにみつめかえした。

 どこまでもおだやかにセシルがいう。

「仕方ないよ、シュリはガイノイドなんだ。人間とはちがう」

「あなたに一体……なにがわかるっていうの」

「わかるよ。いつも君は土壇場で彼女にうらぎられ、きずついて、そしておなじことをいうから」

「そう、経験者はかたるってわけね」

「ラーヴァナがあわてて連絡してきたよ。君がヴィマーナに辿たどりついたって。クレア、君は本当に聡明な女性だ。どれだけ遠ざけられても、いつも真実にきづいてしまう」

「お褒めにあずかり光栄だわ」

「そしてそのたびに僕は、君をころしてきた」

 セシルは懐から小型の情報端末を取りだした。

「君の機械化躯体に、君という人格を消去する命令をくだすためのデバイスだ」

「それでまた、わたしをころすのね」

「クレア、僕の話を聞いてほしい」

「どうせ拒否権はないんでしょう?」

「意固地にならないで、おねがいだから」

 音がしそうなほどにするどい視線をむけられたセシルは、クレアの車椅子のまえにひざまずくと彼女の手をとり、うやうやしく唇をあてた。

「僕の本当の名前はルイス・フロイドというんだ、もうしってるとおもうけど」

「ええ、しっているわ。他人に成りすまして生きるあわれな人間ね」

「そうだね。僕はあわれな人間だ。ずっと信じつづけていた正義と、それによって救われるべき人たちにうらぎられて、煉獄れんごくで焼かれたんだから」


 公正な両親のもとで、ルイスはそだった。彼らは口癖のように、一世紀ちかくまえにアーカンソーでおこったある事件のことを語ってきかせた。

 リトルロック高校事件としてしられるその出来事は、人種差別がようやく撤廃されはじめようとしていた当時、教育機関の人種統合に反対する州知事が、州兵をおくって黒人生徒の登校を阻止したため、これをうけた大統領が空挺くうてい部隊ぶたいを派遣し、彼らの教育をうける権利をまもったというものである。九名の黒人の高校生を警護した合衆国軍は、ルイスにとっての正義の象徴であった。そして彼は陸軍兵士となった。山にふった雨が海にそそぐように。植物が太陽にこがれてつるをのばすように。


「平和維持軍がアフリカに派遣されるとしって、僕はまよわず志願したんだ」


 ルイスにとってそれは、理想の仕事だった。戦争で疲弊した人々と、彼らがきずく未来への礎をまもるという理念にもえ、彼は仲間たちとともに任地へとおもむいた。

 ところが現実はちがった。停戦協定がむすばれたものの両勢力の対立は依然としてくすぶりつづけており、大統領の暗殺をきっかけに、未曾有みぞううの大虐殺が発生することになる。動向を事前に察知していた平和維持軍はこれを阻止する計画を立案したが、平和維持活動局の判断で却下されたために実現せず、目のまえで発生した一方的な殺戮さつりくを、ただ傍観することしかできなかった。


「ひどいものだったよ。みわたすかぎり、ありとあらゆる手段で尊厳を踏みにじられた遺体の山だ。人がこれだけ残虐になれるなんて、おもいもしなかった。そしてそのとき、僕自身も重傷をおった。銃撃されて、瀕死ひんしのところをいきたまま焼かれたんだ。本国の対応がはやかったおかげで死なずにはすんだけど、それがよかったことのかどうかは、いまだにわからない」


 理想を最悪のかたちで裏切られ、全身の機能のほとんどをうしなって起きあがることすら出来ず、心的外傷後ストレス障害によるフラッシュバックで苦しみつづけるルイスのもとに、あるとき一通のメッセージがとどいた。

 ラーヴァナとなのったその人物は、一介の傷痍しょうい軍人ぐんじんには到底手のとどかぬ機械化躯体の提供や、多額の報酬と引きかえに、ビジネスパートナーとなることを持ちかけた。奈落に差しのべられた蜘蛛くもの糸をつかむ決断を後押ししたのは、炎のなかにおとしたものをひろうには、自身が炎になるしかない、というラーヴァナの言葉であった。

 かくしてルイスは陸軍情報保全コマンドに所属する軍の諜報ちょうほう部員ぶいんとなり、複数の機械化躯体を駆使して紛争地帯での情報工作や汚れ仕事に明けくれることとなった。死はあちこちにころがっていた。人は簡単にころし、そしてしぬ。虐殺など、めずらしいものではなかった。彼は炎を克服した。穴に放りこまれたおびただしい数の死者をもやす炎をまとうことで。

 数年がすぎたころ、彼は別の苦しみをおうことになった。潜入工作のために機械化躯体を頻繁に換装したことで、自己をつなぎとめておくことがむずかしくなったのだ。外見も内面も対象者に成りきってしまうがゆえに、ルイス・フロイドという人間が、うしなわれていった。


「そんなときに出会ったのが君だよ、クレア」


 ラークシャサから命じられたあたらしい任地は国内であった。カルト教団の掌握と神妃しんひとよばれる少女の奪取、その後は彼女の保護者となった博士の殺害。ゲイリー・ストーンというあわれな男を狂信者に仕立てあげることで、最初の仕事はつつがなく完了した。

 つぎの任務はクレア・モーリスという名の被験ひけんたいの監視と駆除であった。想定外の能力を発揮する彼女を数度にわたって殺害するうちに、ルイス・フロイドは天啓ともおもえるひらめきをえた。それは用済みとなった彼女を社会的に死亡させることが決定し、セシル・ハーマンとして直接の接触をこころみたとき、確信となった。


「僕はセシル・ハーマンという善良な花屋として生きていくことに決めた。そして心にふかい傷をおった女性、クレア・モーリスのパートナーになって彼女をささえ、ともに歩んでいく。君を通じて僕は、なくした僕を取りもどす」

「そんな夢物語に、私が同意するとおもっているの?」

「いまの君は知りすぎているからね。でも、もっとまえ、たとえばゲイリー・ストーンのテロによる昏睡こんすいからめざめたばかりの君ならどうだろう。すべてをうばわれたことをしらされ、絶望のふちにある君に善良な花屋が献身的につくす。そんな素敵すてきな物語が現実になるんだ」

 ゆめみるようにうるんでいく瞳に、クレアは寒気をおぼえる。

「僕は、一番ふるい世代の、めざめたばかりの君のデータを提供してもらうことになっている。そうしたらゆっくり時間をかけて、君の心をひらかせてみせるさ。その過程でどれだけまちがえとしても、何度でもやりなおせるんだ。君は理想のパートナーだよ」

「……あなた、くるってるわ」

「そうとも、僕はこわれてる。だからこそ君を手にいれて、僕自身を取りもどしてみせる。さあ、いまの君とはお別れだ、クレア。つぎにあうときがたのしみだよ」

 立ちあがったセシルは、顔をそむけるクレアの額に口づけると情報端末を操作する。数秒が経過するが彼女のするどい視線が変化することはなかった。

「残念だったわね。いつまでもおいておくわけがないでしょう? そんな馬鹿げたプログラム。とっくに消去したわよ」

 表情をけした彼は数度まばたきしたのち、いきなりクレアの頬を平手打ちする。不自由な体では受け身をとることもできず、車椅子からおちてしたたかに頭を床に打ちつけた。ぐらぐらとゆれる視界にうつる男は、宝物をみつけた子供のような声でつぶやいた。

「これは……怒りだ。僕はいま、君にとても腹をたてている。……すばらしいよ、クレア。君のおかげで僕は、ひとつ感情を思いだした」

 あらあらしく伸しかかってきたセシルは、情動にまかせて何度も頬をうつ。なすすべもなく繰りかえされる一方的な暴力、それが不意にやみ、わずかに瞼をひらいた途端に、クレアは口をふさがれた。目のはしにするどくひかるものをみとめた瞬間、焼けつくような痛みが左手をつらぬき、くぐもった悲鳴をあげる。

「僕はとてもいきどおっている。……君を直接手にかけなければならない状況に追いこまれたことに、君がそうしたことに。でも君を傷つけるのがくるしいと、僕の心がさけぶ。僕はいま……まちがいなく君を愛するセシル・ハーマンという人間なんだ」

 セシルはクレアを床に縫いつけたナイフから手をはなすと、太腿ふともものサイホルスターから拳銃けんじゅうをぬき、スライドをひいて弾を装填そうてんした。頬をつかまれ、機械仕掛けの膂力りょりょくで口をこじあけられる。口腔こうこうないに侵入してきた鋼鉄の味にはげしくむせる。唾液だえきがあふれ、涙がにじんだ。機械化躯体の感覚器が、たえ間なく苦痛を送信して彼女をさいなむ。

「ああ、かなしい。僕はとてもかなしい。……けどやらなきゃならない。君と僕の未来を手にいれるために」

 懸命にシュリの姿をさがす。彼女は透明な視線でクレアをみおろしていた。口に押しこめられた異物で声を発することもできず、すんだ瞳をみつめかえすしかできなかった。くやしかった。シュリをめざめさせられないまま、殺害されてしまうことが。彼女がまた暗闇にとらわれてしまうことが。数年かけてつかみとってきたものを、すべてうばわれようとしていることが。死にたくないとおもった。そうねがった。つよくまぶたをとじて。

――かわいた銃声がひびく。

 だが、機械化躯体は破壊されることなく、彼女を世界に繋ぎとめていた。あごを押さえつけていた力がゆるみ、クレアはおそるおそる瞳をひらく。

 セシルが、右をみていた。視線のさきで、拳銃の銃口から硝煙が立ちのぼる。

 想定外の邪魔を無視して引き金をしぼろうとした彼は、それが実行できないことにきづく。右上腕を貫通した弾丸は、指先へと至る命令伝達経路を正確に撃ちぬいていた。

 チェックメイト、透明な眼差まなざしによる無言の宣告をうけた男の顔に真の表情、虚無がうかぶ。つぎの瞬間、めくるめく銃火がかなでられた。反動や跳弾さえ組みこんだ正確無比な射撃と、銃の性能限界ぎりぎりの連射。教授したダニエルのうえをいく一点集中によって、金属の頭蓋ずがいは撃ちぬかれ、うつろな魂をやどした器官は破壊され、機械化躯体から生命がたたきだされる。

 ぐらり、と姿勢をくずした抜け殻がたおれるまえに、足早に歩みよったシュリは胸倉をつかんで安定させ、クレアの口から慎重に銃をぬき、死体を紙屑かみくずのようにわきへと投げすてた。機械化躯体の機能を回復させて痛覚を無効にすると、聖母のような手つきでナイフをぬき、損耗をおさえるために左手の機能を停止させてから、両手をあてて検査を開始する。

「ねえ……、あなたは……シュリ?」

「すこし時間をください。いまはあなたの検査が最優先事項です」

「……はい」

 透明な声音をうけて、クレアは瞼をとじた。ふれる手はあたたかく、とても心地よかった。拡張現実に診断結果をつげるメッセージがながれていく。

 左手の刺傷ししょうはふかいですが、生命に影響がおよぶほどのものでありません、シュリがそうつげるまでに、しばらくの時間を要した。クレアはおそるおそる問いかける。

「シュリ、なのね? あなたは」

「はい。ですがすこし、記憶が混乱していて……」

「ごめんなさい。本当はもっと、丁寧に時間をかけておこなうべきことだったの」

 クレアの仮想現実には、さきほど起動したプログラムの実行完了が通知されていた。

 ダニエルから制作するよう指示されていたそのプログラムは、人間のシュリをベースにして、ドリーのシュリの記憶と運動情報を統合、ガイノイドの躯体に上書きするというものであった。

「でも、あなたがめざめてくれなかったら、またころされていたわ、間違いなく。たすけてくれてありがとう」

「いいえ。あなたがいきて、今ここにいるということが、すべてです。よかった、あなたにまたあえて」

「あいたかった、シュリ……。ずっと、ずっと……」

「わたしも、あなたに再会することだけを、ねがって、……いました」

「……シュリ?」

 目をみひらいた彼女は、不意に胸をおさえてうずくまった。床にながれた白銀の髪に、こまかな震えがつたわっていく。

「シュリ!」

「……わたしは、あなたを、……何度も何度も、見殺しに」

「それは、仕方がなかったことなの。ガイノイドのあなたは、命令にさからえなかった。ただそれだけよ」

「絶望の表情をうかべたあなたが、わたしをみて……」

「大丈夫よ。その記憶だけ取りのぞくことだって、きっとできる。私がかならずそうしてみせるから!」

 びくり、とおおきくふるえたのち、シュリの体から緊張がぬけた。みだれた呼吸が次第に凪いでいく。しばらく沈黙をたもった彼女は、顔をふせたまま首をふった。

「それはいけません。これは……、わたしが負うべき痛みです」

「あなたが、負うべき?」

 何度か深呼吸をしたシュリは、立ちあがって車椅子をおこし、クレアをすわらせて丁寧に身仕舞いをととのえてから、ようやく顔をあげた。

「シュリ……?」

「すべて、思いだしました。わたしはあなたに対して、つげる義務のあるひとつの真実を有しています。それをきいたあとで判断してください。わたしを、どうするかを」

 クレアからひとあし離れたシュリは姿勢をただす。硬質な光のなかにたたずむ姿は、彼女のかつての呼び名を彷彿とさせるものだった。

「誰より罪深い咎人とがびとは、このわたしなのです。わたしはこの未来をまねくために、おおくをささげました」

「……どういうこと? この未来をまねくって」

「あなたと初めて抱きあったとき、そうとおくないうちにあなたが命をおとすという未来を垣間みました。以来わたしは探しつづけました。あなたが生存する未来を」

「私、しぬはず、……だったの?」

「わたしをねらうものたちの手にかかって。その未来を回避するために、わたしはあらゆる可能性を模索して、糸をつむぎました」

「その結果が、いま……?」

「ええ、そのとおりです」

「じゃああなたは、……こうなることを全部、しってたって、こと?」

「すべてではありません。わたしが垣間みる未来は断片的なものですから。ですが、現状を推測できる材料は数おおくありました」

「私がこんな体になることは……?」

「みえていました」

「……あなたがこんな目にあうことは?」

「しっていました」

「父と母が、……ころされることは?」

「ふたりはすべてをしったうえで、協力してくれました」

「だったらなぜ……、私に話してくれなかったの? どうして……私がいないところで、きめてしまったの……? 本当のことさえしっていれば、私は……」

「真実をしったあなたの未来は、すべてとざされていたからです。あなたが困難にさらされるとわかってなお、わたしはあなたがいきる未来がおとずれるようにしました。わたしの行動はすべて、あなたの意思を無視した利己的なものにすぎません。……ですがそれでもやはり、あなたに生きてほしいと、わたしはつよく願わずにはいられなかったのです」

 いつかとおなじように、シュリの菫色すみれいろから透明なしずくがこぼれた。そのうつくしさが、ひどく心をうった。

「あのころの私にしてみれば、まちがいなく最悪の部類よ、この未来は。音楽の道にすすめなかったばかりか、あなたも私もこんな風になって、父と母まで、いなくなった。……これがどん底じゃなくって、なんだっていうの?」

「ごめんなさい。あなたには、とてもつらい思いをさせてしまいました」

「でも、たったひとつだけ、かなったことがあるわ」

「……それは、なんですか?」

「あなたとともにいること。これがかなってなければ、他のすべてがかなったとしてもなんの意味もなかったわ」

「クレア、わたしは……」

「ひとつだけ約束してくれる?」

「……なんでしょう」

「これからさき、たとえ破滅が待ちうけていたとしても、絶対にひとりで抱えこんだりしないで。そうじゃなきゃ、ふたりでいる意味なんて、まったくないわ」

「わかり、ました……」

「ねえ。……抱きしめてもらって、いいかしら。私はあなたを抱きしめてあげられないの」

「もちろんです。クレア」

 しなやかな手が背中にまわり、ぬくもりにつつまれた。クレアはつよく瞼をとじる。機械の腕はうごかせなくとも、いとしい人を抱きしめるように。

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