菫色
★☆★☆★
『ダニエル! 返事をして、ダニエル!!』
どれほど繰りかえし呼びかけてもクレアの声はとどかなかった。拡張現実上にオフラインと表示されたダニエルへの接続は確立されないまま、時間だけがすぎていく。
「なぜなの、ダニエル。どうして、こんなこと……」
つぶやいた声が
うつむいていたクレアは、はじかれたように顔をあげた。この程度のことであきらめたくない、奥歯を
リビングのソファにはシュリの姿があった。彼女を通じておこなわれている監視をさけるため、クレアがとなりにおり、拡張現実上でふるい映画をみているというダミーデータをながされたシュリは、普段どおり生真面目に、いかなる依頼にも即座にこたえられるように万全の姿勢をたもったまま、じっと待機している。
彼女の顔をみた途端、
「シュリ」
「なにかご用ですか?」
「ええ。でかけたいの、いますぐ」
「どちらまで?」
「道すがら話すわ。支度を手伝ってくれる?」
「承知しました」
立ちあがったシュリとともに自室にもどる。念のために組みあげておいた、彼女に仕掛けられた盗聴プログラムに侵入して偽の情報を送信するプログラムを起動しながら。
支度がすむまでに数分を要した。リビングのティーカップを片付けてくるとシュリが部屋をでたあと、
居間に入って首をかしげる。闇がみちていた。ついさきほどまで明かりのともっていた空間に。
「シュリ、どうしたの……?」
即座に視感度が調整されて、暗闇をみとおせるようになった人工の
ひえた空気に
おおきくみひらかれた目と、耳までさけた口、幽鬼のごときあおじろい異形の
「セシル、その仮面はわらえない冗談だわ」
いつでも車椅子を後退させられるようにかまえたまま、クレアは防犯システムのインターフェースを起動する。
「残念ながらこれは冗談じゃない、クレア。僕がインドラジットなんだよ」
「……どうやって窓をあけたの?」
「彼女にお願いしてね」
セシルの視線が背後にむけられる。つぎの瞬間、外部からの正当な介入によって、クレアの
「どうして……?」
「彼女はオーナーである君以上に、僕たちラークシャサの命令に従うようにプログラムされているんだ。ずっと昔からね」
「……そんな」
衝撃にふるえる瞳を、シュリは透明な視線でまっすぐにみつめかえした。
どこまでもおだやかにセシルがいう。
「仕方ないよ、シュリはガイノイドなんだ。人間とはちがう」
「あなたに一体……なにがわかるっていうの」
「わかるよ。いつも君は土壇場で彼女にうらぎられ、きずついて、そしておなじことをいうから」
「そう、経験者はかたるってわけね」
「ラーヴァナがあわてて連絡してきたよ。君がヴィマーナに
「お褒めにあずかり光栄だわ」
「そしてそのたびに僕は、君をころしてきた」
セシルは懐から小型の情報端末を取りだした。
「君の機械化躯体に、君という人格を消去する命令をくだすためのデバイスだ」
「それでまた、わたしをころすのね」
「クレア、僕の話を聞いてほしい」
「どうせ拒否権はないんでしょう?」
「意固地にならないで、おねがいだから」
音がしそうなほどにするどい視線をむけられたセシルは、クレアの車椅子のまえにひざまずくと彼女の手をとり、うやうやしく唇をあてた。
「僕の本当の名前はルイス・フロイドというんだ、もうしってるとおもうけど」
「ええ、しっているわ。他人に成りすまして生きるあわれな人間ね」
「そうだね。僕はあわれな人間だ。ずっと信じつづけていた正義と、それによって救われるべき人たちにうらぎられて、
公正な両親のもとで、ルイスはそだった。彼らは口癖のように、一世紀ちかくまえにアーカンソーでおこったある事件のことを語ってきかせた。
リトルロック高校事件としてしられるその出来事は、人種差別がようやく撤廃されはじめようとしていた当時、教育機関の人種統合に反対する州知事が、州兵をおくって黒人生徒の登校を阻止したため、これをうけた大統領が
「平和維持軍がアフリカに派遣されるとしって、僕はまよわず志願したんだ」
ルイスにとってそれは、理想の仕事だった。戦争で疲弊した人々と、彼らがきずく未来への礎をまもるという理念にもえ、彼は仲間たちとともに任地へとおもむいた。
ところが現実はちがった。停戦協定がむすばれたものの両勢力の対立は依然として
「ひどいものだったよ。みわたすかぎり、ありとあらゆる手段で尊厳を踏みにじられた遺体の山だ。人がこれだけ残虐になれるなんて、おもいもしなかった。そしてそのとき、僕自身も重傷をおった。銃撃されて、
理想を最悪のかたちで裏切られ、全身の機能のほとんどをうしなって起きあがることすら出来ず、心的外傷後ストレス障害によるフラッシュバックで苦しみつづけるルイスのもとに、あるとき一通のメッセージがとどいた。
ラーヴァナとなのったその人物は、一介の
かくしてルイスは陸軍情報保全コマンドに所属する軍の
数年がすぎたころ、彼は別の苦しみをおうことになった。潜入工作のために機械化躯体を頻繁に換装したことで、自己を
「そんなときに出会ったのが君だよ、クレア」
ラークシャサから命じられたあたらしい任地は国内であった。カルト教団の掌握と
つぎの任務はクレア・モーリスという名の
「僕はセシル・ハーマンという善良な花屋として生きていくことに決めた。そして心にふかい傷をおった女性、クレア・モーリスのパートナーになって彼女をささえ、ともに歩んでいく。君を通じて僕は、なくした僕を取りもどす」
「そんな夢物語に、私が同意するとおもっているの?」
「いまの君は知りすぎているからね。でも、もっとまえ、たとえばゲイリー・ストーンのテロによる
ゆめみるようにうるんでいく瞳に、クレアは寒気をおぼえる。
「僕は、一番ふるい世代の、めざめたばかりの君のデータを提供してもらうことになっている。そうしたらゆっくり時間をかけて、君の心をひらかせてみせるさ。その過程でどれだけまちがえとしても、何度でもやりなおせるんだ。君は理想のパートナーだよ」
「……あなた、くるってるわ」
「そうとも、僕はこわれてる。だからこそ君を手にいれて、僕自身を取りもどしてみせる。さあ、いまの君とはお別れだ、クレア。つぎにあうときがたのしみだよ」
立ちあがったセシルは、顔をそむけるクレアの額に口づけると情報端末を操作する。数秒が経過するが彼女のするどい視線が変化することはなかった。
「残念だったわね。いつまでもおいておくわけがないでしょう? そんな馬鹿げたプログラム。とっくに消去したわよ」
表情をけした彼は数度まばたきしたのち、いきなりクレアの頬を平手打ちする。不自由な体では受け身をとることもできず、車椅子からおちてしたたかに頭を床に打ちつけた。ぐらぐらとゆれる視界にうつる男は、宝物をみつけた子供のような声でつぶやいた。
「これは……怒りだ。僕はいま、君にとても腹をたてている。……すばらしいよ、クレア。君のおかげで僕は、ひとつ感情を思いだした」
あらあらしく伸しかかってきたセシルは、情動にまかせて何度も頬をうつ。なすすべもなく繰りかえされる一方的な暴力、それが不意にやみ、わずかに瞼をひらいた途端に、クレアは口をふさがれた。目のはしにするどくひかるものをみとめた瞬間、焼けつくような痛みが左手をつらぬき、くぐもった悲鳴をあげる。
「僕はとてもいきどおっている。……君を直接手にかけなければならない状況に追いこまれたことに、君がそうしたことに。でも君を傷つけるのがくるしいと、僕の心がさけぶ。僕はいま……まちがいなく君を愛するセシル・ハーマンという人間なんだ」
セシルはクレアを床に縫いつけたナイフから手をはなすと、
「ああ、かなしい。僕はとてもかなしい。……けどやらなきゃならない。君と僕の未来を手にいれるために」
懸命にシュリの姿をさがす。彼女は透明な視線でクレアをみおろしていた。口に押しこめられた異物で声を発することもできず、すんだ瞳をみつめかえすしかできなかった。くやしかった。シュリをめざめさせられないまま、殺害されてしまうことが。彼女がまた暗闇にとらわれてしまうことが。数年かけて
――かわいた銃声がひびく。
だが、機械化躯体は破壊されることなく、彼女を世界に繋ぎとめていた。
セシルが、右をみていた。視線のさきで、拳銃の銃口から硝煙が立ちのぼる。
想定外の邪魔を無視して引き金をしぼろうとした彼は、それが実行できないことにきづく。右上腕を貫通した弾丸は、指先へと至る命令伝達経路を正確に撃ちぬいていた。
チェックメイト、透明な
ぐらり、と姿勢をくずした抜け殻がたおれるまえに、足早に歩みよったシュリは胸倉をつかんで安定させ、クレアの口から慎重に銃をぬき、死体を
「ねえ……、あなたは……シュリ?」
「すこし時間をください。いまはあなたの検査が最優先事項です」
「……はい」
透明な声音をうけて、クレアは瞼をとじた。ふれる手はあたたかく、とても心地よかった。拡張現実に診断結果をつげるメッセージがながれていく。
左手の
「シュリ、なのね? あなたは」
「はい。ですがすこし、記憶が混乱していて……」
「ごめんなさい。本当はもっと、丁寧に時間をかけておこなうべきことだったの」
クレアの仮想現実には、さきほど起動したプログラムの実行完了が通知されていた。
ダニエルから制作するよう指示されていたそのプログラムは、人間のシュリをベースにして、ドリーのシュリの記憶と運動情報を統合、ガイノイドの躯体に上書きするというものであった。
「でも、あなたがめざめてくれなかったら、またころされていたわ、間違いなく。たすけてくれてありがとう」
「いいえ。あなたがいきて、今ここにいるということが、すべてです。よかった、あなたにまたあえて」
「あいたかった、シュリ……。ずっと、ずっと……」
「わたしも、あなたに再会することだけを、ねがって、……いました」
「……シュリ?」
目をみひらいた彼女は、不意に胸をおさえてうずくまった。床にながれた白銀の髪に、こまかな震えがつたわっていく。
「シュリ!」
「……わたしは、あなたを、……何度も何度も、見殺しに」
「それは、仕方がなかったことなの。ガイノイドのあなたは、命令にさからえなかった。ただそれだけよ」
「絶望の表情をうかべたあなたが、わたしをみて……」
「大丈夫よ。その記憶だけ取りのぞくことだって、きっとできる。私がかならずそうしてみせるから!」
びくり、とおおきくふるえたのち、シュリの体から緊張がぬけた。みだれた呼吸が次第に凪いでいく。しばらく沈黙をたもった彼女は、顔をふせたまま首をふった。
「それはいけません。これは……、わたしが負うべき痛みです」
「あなたが、負うべき?」
何度か深呼吸をしたシュリは、立ちあがって車椅子をおこし、クレアをすわらせて丁寧に身仕舞いをととのえてから、ようやく顔をあげた。
「シュリ……?」
「すべて、思いだしました。わたしはあなたに対して、つげる義務のあるひとつの真実を有しています。それをきいたあとで判断してください。わたしを、どうするかを」
クレアからひとあし離れたシュリは姿勢をただす。硬質な光のなかにたたずむ姿は、彼女のかつての呼び名を彷彿とさせるものだった。
「誰より罪深い
「……どういうこと? この未来をまねくって」
「あなたと初めて抱きあったとき、そうとおくないうちにあなたが命をおとすという未来を垣間みました。以来わたしは探しつづけました。あなたが生存する未来を」
「私、しぬはず、……だったの?」
「わたしをねらうものたちの手にかかって。その未来を回避するために、わたしはあらゆる可能性を模索して、糸をつむぎました」
「その結果が、いま……?」
「ええ、そのとおりです」
「じゃああなたは、……こうなることを全部、しってたって、こと?」
「すべてではありません。わたしが垣間みる未来は断片的なものですから。ですが、現状を推測できる材料は数おおくありました」
「私がこんな体になることは……?」
「みえていました」
「……あなたがこんな目にあうことは?」
「しっていました」
「父と母が、……ころされることは?」
「ふたりはすべてをしったうえで、協力してくれました」
「だったらなぜ……、私に話してくれなかったの? どうして……私がいないところで、きめてしまったの……? 本当のことさえしっていれば、私は……」
「真実をしったあなたの未来は、すべてとざされていたからです。あなたが困難にさらされるとわかってなお、わたしはあなたがいきる未来がおとずれるようにしました。わたしの行動はすべて、あなたの意思を無視した利己的なものにすぎません。……ですがそれでもやはり、あなたに生きてほしいと、わたしはつよく願わずにはいられなかったのです」
いつかとおなじように、シュリの
「あのころの私にしてみれば、まちがいなく最悪の部類よ、この未来は。音楽の道にすすめなかったばかりか、あなたも私もこんな風になって、父と母まで、いなくなった。……これがどん底じゃなくって、なんだっていうの?」
「ごめんなさい。あなたには、とてもつらい思いをさせてしまいました」
「でも、たったひとつだけ、かなったことがあるわ」
「……それは、なんですか?」
「あなたとともにいること。これがかなってなければ、他のすべてがかなったとしてもなんの意味もなかったわ」
「クレア、わたしは……」
「ひとつだけ約束してくれる?」
「……なんでしょう」
「これからさき、たとえ破滅が待ちうけていたとしても、絶対にひとりで抱えこんだりしないで。そうじゃなきゃ、ふたりでいる意味なんて、まったくないわ」
「わかり、ました……」
「ねえ。……抱きしめてもらって、いいかしら。私はあなたを抱きしめてあげられないの」
「もちろんです。クレア」
しなやかな手が背中にまわり、
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