逃走劇
★☆★☆★
構築された世界は誰かの視点によるものであった。
みどりがかったあわい青と白の空間をすすんでいく。一直線にのびた通路が描きだす透視図に、規則的にならんだドアがアクセントをそえる。見覚えのある風景だった。
『アシュヴィンツインズ?』
『人の体をもっていた私の最後の記憶。自分がデータに置きかえられてしまったこと、そしてシュリがいきていることをしった私は、この病院からの逃亡をこころみたわ』
景色がながれていく。クレアにはなじみぶかい、通路の両側にそなえられた手すりよりややたかい位置からの視界だ。
『あなたも
『ええ。連中が意図的に脳のデータの一部を欠損させてくれたお陰で』
『意図的に?』
『被験体の行動を制限して監視を容易にするため、ドキュメントにそうかかれていたわ』
『人を実験動物かなにかみたいに――』
怒りにまかせて言葉を続けかけたとき、あやうく人にぶつかりそうになった。息をのむ。自身に起こっていることではないとわかっていても。そして気づいた。医師や看護師、擦れちがう人々は誰もこちらをみていない。
『この人たち、こっちがみえてない?』
『拡張現実に侵入して、私から注意をそらしてるの』
『どうやって?』
『聴覚は簡単、位相が正反対の音を拡張現実にながせばいい。打ちけしあって無音になるわ。
視覚はちょっと面倒ね、単純に逆位相っていうわけにはいかないから。でも不可能じゃない。人の視界は水平方向に約二百度、垂直方向には百二十五度程度あるけれど、常にすべての方位を認識してるわけじゃないし、なにかを注視するときには特に限定的になるの。つまりARに干渉してちょっと気をひいてあげれば、こっちにまで注意はまわらないわ』
『リアルタイムにこの人数を? むこうもこっちも移動してるのよ?』
『それほどむずかしいことじゃない。あなたにもできるはず』
舌をまくクレアの視界で、逃亡劇はつづいていく。病院をでると車椅子に対応したタクシーがまっていた。一度病院を振りむいたあと、車椅子ごとタクシーに乗りこむ。街の風景が流れだした。
『どこにいこうとしたの?』
『ノープランよ、はずかしながら。
場面が移りかわる。しきりに背後を気にしながら、うすぐらい路地をすすんでいく。何度目かに振りかえったとき、異形の面をつけた男の姿がみえた。存在感の希薄な幽鬼じみたその男が、
『インドラジット!』
『考えがあまかったわ。私の存在が計画の基盤にかかわっている以上、危害をくわえられることはない。そうおもっていたのだけれど』
逃走を再開した直後、数発の銃声がひびいた。衝撃で視界が振動する。みおろした体をつつむ衣服にまっかな染みがひろがっていく。それでもとまることなく進みつづけ、角をまがったところでバランスをくずした。倒れこみ、頭をしたたかにぶつける。かたむいた視界が次第にくらくなっていく。駆けよってきた革靴が、すぐ目のまえでとまった。
世界は不意に明転した。別々のシーンをつなぎあわせたように、あるいは弾倉が銃に
目のまえにはふたつの顔があった。くたびれた老犬に似た男と、死に神のような凶相の男だ。死に神から
「やあ、きこえるかな。私はダニエル・バード、連邦捜査局の捜査官だ。そしてこっちは医師のフレデリック・リード」
拡張現実に男たちのプロフィールが表示された。
「昨日、暴漢におそわれていた君を保護した。ええと、こういうとき、まずなんというべきか。……そうだな。最初に宣言しておこう。いきなりこんなことをいわれてもこまるだろうが、ひとつだけ信じてほしい。私たちは、君の、味方だ」
『あらためて、この人って本当に――』
『――信用したい感じがしない?』
『まあ、そういうこと』
「あそこから逃げだしたということはつまり、君は連中の真の姿にきづいたんだろう。実は私たちも奴らとは浅からぬ因縁があってね。そこそこの事情に通じているんだ。本来なら正攻法で根絶やしにすべきところだが、
「心、だけ……?」
反射的にもらした言葉は、簡易な合成音声で再生された。
「連中にされたことで、君はひどく傷つき、よわっているだろう。このまま君を、おだやかにねむらせることもできる。だがもし、たたかう意思があるなら、私たちには君に力をかす用意がある。えらんでくれ、君の判断だ」
ダニエルがよける。そこではうつくしい
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