作戦開始
★☆★☆★
東の地平線がかすかに明るみはじめたころ、ふるびた給水塔のタンクのうえでは、最後の交代をおえた
まだ大半が微睡みのなかにある世界においても、ひとたび目をこらせば、塔を構成する鉄骨や草におおわれた地面に、せわしく動きまわる
狙撃地点から数百メートル前方、州道わきにとめられたバンのうすぐらい荷室では、装備の点検をおえた強襲部隊のチャーリー分隊が、向かいあわせにこしかけてその時をまっていた。肌に感じるほどに研ぎすまされた空気のなかに、やわらかくかすれた声がにじむ。
「みんな」
頭ひとつ分たかい位置からあつまる視線をすべて受けとめて、ニーナは笑みをうかべた。真夏の夜にさく大輪の花のごとく。
「ベストをつくしましょう」
屈強な男たちが、それぞれのやりかたで応じる。いいチームだ、と彼らの表情をみてうなずいた彼女は、ここにいないまだたよりないバディーや、うつくしい歌声をもつ女性と無表情なガイノイド、そしてくたびれた老犬のような中年男をおもった。
バンがとめられたアスファルトにも蟻たちがいる。うごめく彼らのながく伸びた
ダラムシャーラー、その言葉はサンスクリット語で宗教的聖域を指ししめすと同時に、巡礼者たちのための宿泊施設を意味し、カルト教団ディヤーナ・マンディールにおいては、教団幹部たちや出家信者たちの住居兼、参拝者の宿泊先として運用されている施設をあらわす。
本拠地のパシュパティナートとおなじく白亜の建物だが、現代風の整然とした設計で、全体にほどこされた無数の彫刻は極彩色にぬられており、それらに表現された神話の場面のなかで、肉感的な
その彫像のひとつ、十の頭をもつ
外見はありふれた農場の母屋だ。だがその内側には連邦捜査局のHRTとSWATの混成部隊を指揮する統合作戦センターが構築されており、設営された最新鋭の機器の中枢では、HRT隊長クリストファー・バレットとSWATを指揮するアーネスト・クロフォード管理捜査官、そして作戦を統括するリチャード・ベイカー主任捜査官が、円卓を中心にして向きあう。クレアと情報官たちは、その周囲に配された軍用規格のSCUBAに接続して、
各部隊の配備状況の最終確認をおえた数分まえから、身じろぎすらためらわれるような張りつめた空気が室内を支配する。そのなかでただひとり、鷹揚にかまえていたベイカー主任捜査官が、かるく息をすった。声が、緊張を断ちきる。
「TOCから全隊。諸君、作戦開始だ。フェイズ・ワン、はじめてくれ」
『ゴールドリーダーからTOC。フェイズ・ワンを開始します。ジュリエット分隊はクンバカルナの介入を警戒しつつ待機、インディア分隊は対象監視システムの掌握を開始してください』
TOCの共有レイヤーにクレアの声がひびいた。
SCUBAに接続したインディア分隊の情報官たちは指示に応じ、TOCから施設内部のネットワークに直接アクセスした。ダラムシャーラーを中心にして同心円状にひろがった蟻たちを通じて。
数時間まえから放たれていた蟻たちは、昆虫をベースにしたインセクトボットの一種だ。それらは単体では自身の躯体を媒体とする微小な通信端末にすぎないが、目的地にむかって大量のインセクトボットが無数の経路をもちいて往来することで、
メタバースプロトコルを接続していない殺風景な電脳空間では、情報官たちと彼らがあやつる数体のAIのはたらきによって、ダラムシャーラーの情報システムで利用されているネットワークが割りだされ、監視システムの構成が特定され、利用されているアーキテクチャの
めまぐるしく様相をかえていく空間を
そうしているあいだにも状況は進行し、監視システムの掌握が報告される。
『ゴールドリーダーからTOC。フェイズ・ワン、完了しました。ただし、オーウェン・ビショップがかんでいるにしては、システムの防衛があまりに手薄すぎます』
「TOCからゴールドリーダー。了解した。だが現状は様子見するほかになさそうだな。相手の出方がわからないのにこういうことをいうのもおかしいが、十分に警戒してくれ。残忍な方法で捜査局のシステムに侵入したこともある人間だ」
『ゴールドリーダーからTOC。了解しました。ゴールド小隊各分隊、不意の侵入にそなえてください』
かすかに悔しさがにじんだクレアの声をきいたあと、ベイカー主任捜査官は、向かいあうHRTのバレット隊長とSWATを指揮するクロフォード管理捜査官の顔をみた。
「フェイズ・ツーに移行しよう。各小隊、開始してくれ」
SWATとHRT、双方の強襲部隊が一斉に前進を開始した。情報戦部隊によって防犯カメラの映像が差しかえられ、二方向からせまる彼らの姿を監視システムからくらませる。
ニーナにひきいられたチャーリー、デルタ分隊の後方数百メートル、TOCとは異なる農場にある納屋の二階で、伏射姿勢をとったまま狙撃手がつぶやいた。
「姉御、……どうか無事で」
「気ぃぬくな、トラヴィス。レッド・アルファ・ワン、ツー、スリー、異常なし」
隣で双眼鏡をかまえた観測手がいう。
「すんません。レッド・チャーリー・ワン、ツー、スリー、異常ありません」
狙撃小隊ブルーのゴルフ分隊に配属されたトラヴィスは、観測手ロドニー・オースティンとともに、ダラムシャーラーの南面した窓やドアを監視していた。
ふたりが読みあげているのは、窓やドアといった開口部に便宜上つけられた名称だ。東をグリーン、西がホワイト、南北をそれぞれレッドとブラックとして、階層を一階からアルファベット順にフォネティックコードであらわし、むかって右から番号をふる。南の三階にある一番右の窓ならレッド・チャーリー・ワンという風につけられた名称は、全隊に共通のものとしてもちいられる。
夜明けにはまだ時間があるため、どの窓からみえる室内にも動きはない。だが万が一強襲部隊が発見された場合には、作戦に影響をきたすばかりか、隊員の命が危険にさらされる可能性もある。監視、それは狙撃手にふさわしい、地味かつ根気を要する任務だ。
「オースティンさん。いまさらなんですけど聞いてもかまいません? レッド・チャーリー・フォー、ファイヴ、シックス、異常ありません」
「どうした? レッド・アルファ・フォー、ファイヴ、シックス、異常なし」
「なんで
「お前に狙撃の特性があった。それだけだ。レッド・アルファ・セヴン、エイト、ナイン、異常なし」
「そうですか。レッド・デルタ・ワン、ツー、スリー、異常ありません」
「背後から仲間たちをまもれ。お前にしかできない最高の仕事をしろ。レッド・ブラヴォー・ワン、ツー、スリー、異常なし」
「俺、まもれますか? レッド・デルタ・フォー、ファイヴ、シックス、異常ありません」
「当然だ。レッド・ブラヴォー・フォー、ファイヴ、シックス、異常なし」
「わかりました。レッド・デルタ・セヴン、エイト、ナイン、異常ありません」
ロドニーは研ぎすまされていくトラヴィスがまとった空気を感じた。偏屈の結晶のような男は、視線を目標にむけたまま、わずかに
彼らの進行状況は、指揮官たちの共有レイヤーに表示された立体地図上に、リアルタイムに反映される。HRTのメンバーで構成されるアルファ、ブラヴォー分隊が施設裏手にある搬入口に、SWATのメンバーで構成されるチャーリー、デルタ分隊が
バレット隊長とクロフォード管理捜査官は、無言で指示をまつ。地殻周辺にまでせまったマグマのごとく、ふたりの男が放つ闘志がたかまる。ベイカー主任捜査官は、それまでとはことなる、かたい口調でつげた。
「TOCから全隊。フェイズ・スリー、開始してくれ」
情報戦分隊によってそれぞれの扉のロックが解除され、各強襲分隊は隊長のハンドシグナルにしたがい、施設内への侵入を開始した。
灰がかった暗い緑の戦闘服に身をつつんだチャーリー分隊の先頭の隊員が、厨房の勝手口のドアノブに手をかける。
厨房機器の大半が闇にとざされた空間に、非常口誘導灯のあかい光がにじむ。ヘルメットに装着した暗視装置をガスマスクのうえにおろした隊員たちは、足音をしのばせて慎重にターゲットの居室をめざした。元国家安全保障局の
近代的でまあたらしい施設内では、いたるところに設置された防犯カメラが隊員たちをとらえるが、ゴールド小隊のインディア分隊によってなんの異常もない映像に
埋設された通信ケーブルが織りなす有線ネットワークを経由して、映像情報は無数のモニターとコンソールがすえられたモニタールームへと到達した。コンピューターと人、二重の監視体制がしかれたモニタールームでは、制服をきた警備員のひとりの正面にある画面の映像が、
階段を登りおえた分隊は入念な確認ののちに廊下にでた。情報戦小隊によって無関係なドアが一斉にロックされ、開錠不能に設定される。高級ホテルなみのインテリアがしつらえられた通路を、無骨な装備に身をつつんだ男たちが、寸分の
拡張現実に表示された情報戦小隊のナビゲーションにしたがって、突きあたりの扉に
どの部屋もまるで生活感がなかったが、主寝室は特に閑散としていた。あるのは据えつけの家具だけで、ひらきっぱなしのクローゼットにも、数点の衣服しかみうけられない。暗視装置の緑がかった視界のなか、隊員たちの視線は一箇所に集中した。中央の寝台に、仰向けでよこたわった男の姿がある。
ハンドシグナルがかわされた。数名が銃をかまえて警戒するなかで、ひとりの隊員が慎重にちかづくと、タクティカルベストからペン型の注射器をだして男の腕にあてる。後部のスイッチがおされ、薬液が注入される。
刺激で男が跳ねおきた。自分を取りかこむ武装した集団にきづき、口をひらこうとした途端、異変はおとずれた。呂律がまわっていない。上体をささえていた腕からも力がぬけ、ふたたびベッドに崩れおちた。
再度のハンドシグナル、ベッドにちかづいた隊員が男の顔を照会する。即座に情報戦分隊から処理結果がかえった。ルイス・フロイドその人の
『アルファリーダーからTOC、ルイス・フロイドを確保』
報告は連邦捜査局のネットワークにのり、農場のリビングへと通知された。円卓をかこんだベイカー主任捜査官とバレット隊長がちいさくうなずく。クロフォード管理捜査官の目は、共有された立体地図上で移動をつづけるチャーリー、デルタ分隊の所在をしめすポインタから離れない。
明滅する複数の点は、丁字路に行きついて左におれ、目的地まであと数メートルのところで停止した。押しころした声でニーナの通信が入る。
『チャーリーリーダーからTOC、指定された部屋が存在しません』
『なに?』
作戦開始以来、クロフォード管理捜査官がはじめて口をひらいた。
『地図上では通路になっていますが、実際には行きどまりです。道がありません』
報告をおえたニーナはハンドシグナルで全隊に警戒を指示する。まっすぐにのびた内廊下は片側が窓に面しており、照明はおさえられていてうすぐらい。
突然、機械の動作音がひびいた。分隊がのぼってきた階段の防火壁がおりていく。開錠不能に設定されていた部屋のドアが一斉にひらいた。ならから武装した集団があらわれる。
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