過去と現在

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 みあげた蒼穹そうきゅうは途方もなくたかく、紗幕しゃまくのおくにある宇宙の気配けはいすら感じさせた。

 足元からひろがる冠水した平坦へいたんな大地は、地平線のかなたまでつづく非のうちどころのない一枚鏡と化し、空をもうひとつ、地表に顕現させる。

 車椅子くるまいすをおしながら、澄明な空気のなかをあるいていた。一歩、一歩、水にひたった白い地面を踏みしめるたびに、サンダルの底が塩の結晶のくだける小気味よい感覚をつたえる。

 つよい日差しをうけて、車椅子にすわった彼女のプラチナブロンドが、絹糸のごとき光沢こうたくをおびる。どんなかおをしているかも気になったが、邪魔をしたくもなかった。

 不意に彼女が振りかえる。気持ちがつうじたのかとうれしくなるが、陶器人形をおもわせる端整なかんばせは、天空をうつす鏡とおなじいだ水面みなもをたたえている。

 わずかな失望に一顆いっかの水晶がさざなみをたてた。まっすぐにむけられたすみれひとみからうまれたしずくほおをすべり、宙に身をおどらせる。

 泣いているのだ、という理解は、随分おくれておとずれた。


 まぶたをひらくとみなれない天井があった。意識の大半をまどろみにのこしたまま、クレアは仄暗ほのぐらい室内をながめる。

 壁紙はオフホワイトで、木製のシェルフにはいくつかのトロフィーと写真がならんでいる。かいたことすらわすれていた日記を読みかえすように、理解が追いついてきた。

「まだ早いようですが、起床しますか?」

 聞きなれた声が違和感を霧散させる。となりのベッドにシュリの姿があった。

「ええ、そうしましょう。折角だからすこし、散歩してみたいわ」

「承知しました。おはようございます、よくねむれましたか?」

 起きだしたシュリは、ジェスチャーなしで部屋の照明を操作してから、枕元まくらもとにかがむ。

「おはよう。おかげさまでぐっすりよ」

「それはなによりです。環境の変化は不眠の原因にもなりますから」

「目がさめたとき、どこにいるのか一瞬わからなかったわ。おかしな話ね、生まれそだった家なのに」

「この家は五年ぶりですから、違和感があるのは当然だとおもいます。あさの検診をはじめてもかまいませんか?」

「ええ、おねがい」

 両手でクレアの顔をつつみこんだシュリがまぶたをとじた。陶器の人形のような見かけとはうらはらに、彼女の手のひらはあたたかい。ここちよさに頰をゆるめたクレアの拡張現実に、シュリから転送された診断メッセージがスクロールしていく。

「視覚および聴覚デバイス、グリーン。……味覚および嗅覚きゅうかく、延髄結合デバイス、グリーン。頭部に違和感のあるところはありませんか?」

「ないわ」

「承知しました。各臓器の検査に移行します」

 パジャマの上からクレアの胸元に両手をおいたシュリは、ふたたび瞳をとじた。

 GNR革命とよばれる遺伝学GeneticsナノテクノロジーNanotechnology、およびロボット工学Roboticsの発達によって人類が手にした技術のひとつに、装用者自身の遺伝子からつくられた機械化義肢や人工臓器がある。事故や疾病等で損傷した人体の代替として開発されたこれらの人工器官は、脳をのぞいた人体ほとんどを置換可能なほどの信頼性と性能を有するようになったが、義肢や人工臓器を統合した機械化躯体くたいの装用者は、そのたかい機械化率故に万が一の動作不良が生死にかかわるため、動的指向理論統合型装備Dynamic-Oriented Logic Integrated Equipment、通称ドリーDOLIEとよばれる医療用AIユニットを随伴することが義務づけられており、クレアに付きしたがうシュリもまた、そうしたドリーを搭載したガイノイド、女性型アンドロイドのひとつである。

「全臓器グリーン。診断を終了します」

 クレアの腹部から手をはなしたシュリが目をひらく。

「シュリ、今日は九月二日よね?」

「ええ、二日です。不安ですか?」

「……すこし、ね」

「最後の記憶の欠損から四百二日が経過しました。クラーク医師がおっしゃるように心配する必要はないとおもわれますが、気になるようでしたら再度意見をもとめることも可能です」

「そこまでじゃないの。ちょっとたしかめたかっただけ。それよりお水をもらってもいい?」

 もちろんです、と応じた彼女はクレアの上体をささえてベッドのリクライニングをおこし、部屋をでていこうとした。すなおな髪が朝の風をはらんだとき、コンピューターで完璧かんぺきに制御されているはずの鼓動がみだれた。

「――シュリ」

 かんがえるよりさきに呼びとめていた。彼女の後ろ姿はいつもせつない。

「なんでしょう」

「あ、……のね」

 振りむいた首の角度まで夢のなかとおなじで声がつまった。ないだ湖面のごとき瞳は、凝然じっとつづく言葉をまっている。

「もし未来を垣間みることができるとしたら、あなたはどうする?」

「起こりえないことですからなんともいえませんが」

 一旦いったんことばをきってシュリが向きなおる。

「あなたが快適にくらせるように便宜をはかるでしょう。天気がわかっていれば備えが容易ですし、突発的な交通渋滞がさけられるのは有益です。どうしてこのような質問を?」

「なんとなく、よ。急にきいてみたくなったの」

「そうでしたか。満足のいく回答ができていればうれしいです。水をくんできますか?」

「ええ、おねがい」

「承知しました」

 きびすをかえした背中をみおくって、クレアは目をふせる。

「むかし、あなたがそうきいたのよ、私に」

 こぼれた言葉はいつまでも床のあたりをただよっていた。

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