2-旅行に事件は付きものなのか

 露天風呂の男湯と女湯を仕切っていた板が倒れるという事故によって、赤桜旅館の露天風呂は一時的に閉鎖されてしまった。旅館の従業員が調べたところ、どうやら板を固定していた部品が緩んでいたのが問題らしい。

 そのおかげか、弁償を覚悟していたロクトはお咎めなしどころか、逆に従業員に謝られるという結果になった。一応板を倒してしまったことは事実であるため、ロクト本人はこの結果にどういう顔をしていいか分からず、非常に複雑な思いであったが。

「はあ……しっかし、これからどんな顔してユキに会えばいいんだ……」

 ロクトは脱衣所の前の休憩所の長椅子に座ってガックリと項垂れていた。女の子の入浴中の姿を見てしまったのだから無理もない。

「さて、どんな顔をすればいいと思います?」

 そんなロクトに横から声をかける者が1人。

「ゆ、ユキ⁉」

「どうも、さっきぶりですね」

 両手に飲み物の入ったビンを1本ずつ持ったユキが、いつの間にかロクトの隣に座っていた。

「飲みます? ベルチーミルク。風呂上りにはコレらしですよ」

 そう言ってユキは片方のビンをロクトの前へ差し出す。ビンの仲ではコーヒー牛乳のような茶色の液体が揺れている。


 ベルチーミルク。

 ユキが住まわせてもらっている『俺の料理屋』の仕事用ではない冷蔵後にもパックでよく入っており、コーヒー牛乳よりも甘めでココアに近い味がする。ベルチーの木になる実を粉にしたものを混ぜて作るらしい。


「あ、ありがとう」

 さっきのことがあるにも関わらず普通に接してくるユキに戸惑いながら、ロクトはユキからベルチーミルクのビンを受け取り、フタを開けて口をつける。

「あ、それ私が口つけた奴でした」

「ぶふうっ⁉」

 ミルクを口に含んだ瞬間にユキがそんなことを言うものだから、思わず中身を吹き出してしまった。

「冗談ですよ。中身も減ってなかったでしょう? といっても、口つけちゃったらそれも分かりませんか」

「そ、その冗談は心臓に悪いから止めてくれ……」

「さっきの覗きの件ですか?」

 ハンカチで服にこぼしたミルクを拭くロクトを横目にユキはからかうように笑う。

「い、いやあれは誤解だ! 温泉に入ったらハルフリング支部長が壁に耳をくっつけてたから……」

「そんなに慌てなくても、私は別に怒ってませんよ」

「え?」

 ユキの言葉にロクトは呆けたような声を出す。てっきり入浴シーンを見られた仕返しにからかっているのかと思ったが。

「どうせ見られたのは肩から上だけですしね。まあ、ロクトさんの方は、バッチリほとんど全身を見てしまった訳ですが……」

 言いながらユキは表情こそ変わらないものの顔をほんのり赤らめる。

「あー……いや、その……」

 ロクトもロクトで顔を真っ赤にする。

 そういえば、板が倒れた時、立ってたんだよなあ……。当然、目が合った時も立ったままの姿勢な訳で。少なくともお湯に浸かっていた膝から下と、タオルで隠していた股間以外は全部見られている訳で。これを「大事な部分が見られてないだけマシだった」などとは見てしまった本人の前ではとても言えない。

「いやあ、まあ、大丈夫ですよ。ええ、男の裸なんて見慣れてますから」

「慰めになってないどころか問題発言だよ」

 奴隷疑惑のある彼女が言うとなんだかシャレにならないセリフだった。

「まあ、何が言いたいかというとですよ。私は気にしてませんよってことです。ロクトさんにならまあ、見られてもいいです」

「お、おう? それって……」

 意味深な言葉。そういう・・・・期待をしていいのか、それとも何とも思われていないのか。

「それじゃあ、私はもう行きますね」

 答えは示さないままにユキは立ち上がる。

「あ、そうそう。言い忘れてました」

 そのまま歩き出そうとして、やっぱり足を止めて、ユキはもう1度ロクトの方を向く。


「私は別にいいんですけど、ルーナさんはどうか分からないので護衛、頑張ってくださいね?」


 そして爆弾発言を最後に残して彼女は去って行った。

「……うっそだろオイ」

 さて、どうしたものか。さっきまでの会話すべて頭から吹っ飛ぶ内容に、ロクトは頭を抱える。

 そりゃそうだよなあ。ユキよりもほとんど初対面のルーナの方が後が怖いよなあ。そう思わずにはいられなかった。


「ただいま戻りました」

「おう、おかえりー」

 ロクトと別れてユキは自分の部屋に戻る。

 サラマンダーはテーブルの前に座り新聞を読んでいた。子どもにはもう遅い時間であるためか、ステラは布団を敷いて眠っている。体が小さく掛け布団にすっぽり全身が入ってしまうためか、部屋の明るさはあまり関係ないらしい。部屋の端では、目を回して倒れているジエルと、そんな彼女をうちわで扇いでいるヒルマの姿があった。

「ジエルさん、さっき会った時は酔っ払いみたいに笑ってたと思うんですけど」

「ああ、休憩所で合流して部屋に戻ったと思ったらバッタリ倒れちまったよ。長風呂でのぼせちまったんだろうけど、なんであんな症状なのかはさっぱり分からん」

 ジエルに関してはあまり心配しなくてもよさそうだ。

「それで店長、さっきの話ですけど」

「ああ、ロクトから何か大事な話を聞いたってアレな」

 サラマンダーとユキは丸テーブルを挟んで向かい合って座る。


 かくかくしかじか。便利な言葉だ。


「……という訳で、いざというときは『俺の料理屋』を頼ることになるかもしれないとのことです。後々ロクトさんから店長に直接話があるかもしれませんが、とりあえず話だけでも今の内にということで」

「なるほどなあ。事情は分かった」

 ユキの話を聞いて、サラマンダーは酒を飲みながら頷く。

「しかし、ウチの店がどんどんワケありのたまり場みたいになってきてるな……いや文句じゃなくて純粋な感想として」

「まあ私を拾ったのが運の尽きですね」

「自慢げに言うなワケあり第一号、いや二号か」

「はい?」

「ウちにはヒルマがいるからなあ……」

「唐突な初耳情報で伏線張るのは止めてください」

 気になっちゃうじゃないか。そのうちヒルマの過去編とかやるんだろうなあとか思ってしまうユキはきっと漫画かライトノベルの読み過ぎだろう。


「さあて、そろそろ寝るか。明日は早く起きていろいろミツキゴンダをいろいろ観光しようぜ」

 しばらく話をした後で酒を部屋に備え付けられてある冷蔵庫にしまい、サラマンダーは荷物からハブラシを取り出して歯を磨き始める。

「そうね、明日からが楽しみだわァ」

 ヒルマは目を回したまま眠りについてしまったジエルを布団に入れると、自らも自分の布団の中に入る。

 ユキもユキで歯を磨いて布団に入ると、最後にサラマンダーが部屋の灯りを消す。

 電気が消えてから数分後、うつらうつらとして眠りかけていたユキの耳にサラマンダーの布団から大きないびきが聞こえてきてぼんやりしていた頭が覚醒する。『俺の料理屋』にいる時は1人部屋だったので気にしなかったが、一緒の部屋にいると思った以上に他人のいびきというのはうるさいモノだった。

「マジか……」

 静かに呟きながら周りを見てみると、もう皆寝てしまった様子。仕方なくユキは布団の中に頭まですっぽり入り込む。眠りさえすればなんとかなるだろうという期待を込めてユキは布団の中で目を閉じた。


 ……。


 目を開けて布団をどけると、カーテンの閉まっている窓から薄ら光が漏れているのが見える。

「……」

 部屋の壁に備え付けられていた時計を確認すると朝6時を指していた。上半身を起こして周りを見てみると皆まだ寝ていた。どうやらユキは布団やベッドが変わるとぐっすり眠れないタイプらしかった。

 とりあえず着替えた後、手で髪を雑に整えてから部屋を出る。そのまま外にでも出て朝の光でも浴びてこようかとでも思った。


 そんな時だった。隣の部屋でゴトンと鈍い音がしたのは。


「うん?」

 音のした方を振り返るユキ。たしかあの部屋にはルーナとガショウが住んでいたハズだが……。

 部屋の前に移動して扉に手をかける。鍵はかかっていないようで、少し力を込めるとすぐに開いた。

「どうかしまし……た……?」

 様子を見に部屋を覗いたユキが見たのは、青ざめた顔のルーナと、手にナイフを握るガショウの姿だった。

「ガショウ、さん?」

 ユキの声に反応したガショウがぐるりとこちらに顔を向ける。その顔には意思が無く、その両目は赤く光っていた。

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